第4話

 コツ、コツ、コツ・・。


ステンドグラスから漏れ出る朝日を浴びながら、正装をしたリセリーが、大聖堂にある地下室へと向かう。


それ程長くはない階段を降りると、広い空間にたった1つだけ安置されている、棺の前で足を止める。


その中で眠る人物の為に、毎年この日に恒例となった、献花と祈り。


魔力によって枯れることなく咲いていた花を、持参した新しい物と取り換え、静かに祈りの言葉を紡ぐ。


この儀式が行えるのは、御剣教では唯一人、教皇たるリセリーのみ。


生前、リセリーを除いて最も『蒼き光』の活動に貢献をしたこの人物に敬意を表して、また、いつまでも謙虚さと慎みを失わなかった彼女が穏やかに眠れるように、教団内でそう決められている。


他の神官や司祭、信者達は、この大聖堂の象徴である主神御剣像の足下に、ミューズによって新たに添えられた彼女の小像に祈りを捧げる。


「あなたの為に、今年も多くの信者の皆さんが、聖堂が開かれるのを今か今かと待ち望んでおいでです。

本当に、あなたは皆から愛されておりました。

その一途でぶれない姿が、如何に皆の支えとなっていたのかを、改めて実感させられます。

私の『日記』に名前が出てくる人なんて、彼から眷族の資格を与えられたミューズやアンリ達を除けば、あなたくらいしかおりません。

惰眠を貪る(勝手に眠りに就いた和也に対し、多少の怒りと嫌味を込めて、こう言っている)彼が、さっさと起きて、早く『日記』に目を通してくれることを祈るばかりです。

今のその眠りが、生前の疲れを癒す仮初のものであることを、心から願っています。

また一緒にお茶を飲みながら、彼の事を語りましょう。

私の、彼への愚痴や嫌味を、微笑みながら聞き流してください。

『ファンクラブ』会員のミューズやアンリに言うと、直ぐに怒る(文句を言う)んです。

信仰は、恋愛感情とはまた別に捉えるべきなのに・・。

その強い香りと落ちにくい花粉が強固な意志を表しながら、姿形は何処までも白く清らかで、気品に富む白百合。

この花が好きだったあなたに、まるでこの花のように生きたあなたに、また会いたい。

・・会いたいです、セレン」



 「今日からここをあなたの家だと思ってくださいね。

食事や入浴は、専用の場所で自由になさってください。

他の方々と異なり、あなたは”彼”から直に認められた特別な存在なのですから、細かい規則に縛られる必要はありません。

教団に入信したばかりではありますが、以前に所属されていた場所の地位も加味して、大司教から始めて貰います。

尤も、形だけの地位なんですけどね。

うちは枢機卿を置きませんし、教区から税も取らないので、司教も実質は名誉職でしかないのです。

大司教は今までおりませんでした。

まあ、私の話し相手とでも思ってくださいな」


そう言って笑うリセリーさんは、服装を除けば、とても世界最大教団の教皇には見えない。


美しい茶色の長髪と整い過ぎた容姿は、聖職者というより深窓のご令嬢のように映る。


この方は、様々なお顔をお持ちで、音楽の分野においても、世界的な権威として尊敬を集めていらっしゃる。


なのに、話し方や仕種はほとんど町娘のそれでしかない。


こんな所も、彼女が信者の方々から絶大な人気を集める理由なのだろう。


「ですが、新参者の私がいきなりそのような立場に立っては、古参の方々からご批判を受けはしませんか?」


「私に文句を言う人など、この教団には誰一人おりませんし、あなたに対しても言わせません。

”彼”の言葉と判断は、この教団では絶対的な価値を持ちます。

それに異議を申し立てるような愚か者は、ここに必要ないですから」


『あ、これは不味い。

あの方に不満をぶつけた過去は、絶対に黙っていよう』


「・・リセリー様は、御剣様と面識がお有りなのですよね?

の御方は、一体どんな方なのですか?」


「女たらしの唐変木よ。

私のことを、いつまでも子供扱いするし。

あれから一体何年経ったと思ってるのよ、もう!」


「・・・」


「あ、・・ごめんなさい。

つい本音が。

・・こほん。

この世をあまねく照らし、世に蔓延はびこる不正や悪を許さず、心清き民の味方にして万物の父でありいただき

それこそが、我が教団が総力を以ってお仕えし、崇め奉る唯一神、御剣様です」


「フ・・フフフッ。

す、済みません。

あまりにギャップがあり過ぎるから。

フッフフフッ」


「こちらこそごめんなさい。

昨晩の(アンリ達とのお風呂での)出来事を思い出したらつい・・。

皆には内緒にしてね。

それと、私に『様』を付ける必要はないわよ?」


「いえ、さすがにそういう訳には。

・・羨ましいです。

あの御方とそこまで親しくされてるなんて。

私も信仰心をより高め、日々の祈りの中で、あの方にもっと近付けるよう努力致します」


「そんなに肩肘張らなくても大丈夫よ。

余所はどうか知らないけれど、うちは最低限の常識と形式を備えてさえくれれば、あまり煩いことは言わない主義なの。

同じ世界の中でも、其々の国、其々の人種や民族によって、その考え方や習慣は異なるもの。

なのに、ただ一方的に同一の事を要求したって、上手くいくはずがないわ。

日々の暮らしの中で、いつの間にか浸透し、その人生にほんの少しでも寄り添えること。

それこそが、我が御剣教の求める在り方であり、理想像なの」


「・・お言葉、しかと賜りました。

もし宜しければ、あの御方から直に授かったという教典を、見せていただけませんか?

私は、『蒼き光』の教えを未だ何も知りませんので」


「写本をあげるから、それで勘弁してね。

原本は、まだ誰にも読ませたことないの」


「失礼致しました!

リセリー様だけでなく、教団にとっても至宝ですものね」


「・・至宝ね。

まあ、確かにそうなんだけど、人に見せられない理由は別な所にあるの。

これは絶対に他言無用よ?

あの教典を授かった時、私はまだ12、3歳の子供で、漠然としか未来を見据えていなかったから、その扱いにもそれが現れてね」


「・・まさか」


「ええ。

ご想像の通りよ。

読んでる内に眠くなって枕にしたり、飲食しながら読んで物を溢したりして、所々折れたり汚れたりしているの。

大人になってから青くなって、『新しい物に取り替えて』と彼に頼んだけれど、『それもお前の貴重な成長の証だ』と嫌味を言われてそのままなのよ。

それから更に時が経った今では、私にとって、何物にも代えられない宝物になったのは事実なんだけどね」


「確かにそれは、他人ひとに見せられませんね。

リセリー様個人の、大切な思い出の品ですものね」


「そう言ってくれて嬉しいわ。

私はあちこち出歩いていることが多くて、ここを数日空けることも結構あるから、もし私が不在の時に何か困った事が起きたら、ミューズかアンリに相談してね。

彼女達も、”彼”と繋がりのある人物だから」


「かしこまりました」


こうして、私の『蒼き光』における、第2の人生とも言うべき日々が始まった。



 私の名はセレン。


小国の田舎で生まれた村娘で、8歳の時に口減らしのために隣町にある教会に下働きとして住み込み、優しい神父様に回復魔法を教えられながら、そこで祈りを捧げる生活を送っていた。


14歳になった時、国全体を疫病が襲い、それまでの平凡で穏やかだった暮らしが一変する。


小さな教会内にも、病に罹って苦しむ人々が運び込まれ、さながら野戦病院のような状況になる。


それまでは毎月あった領主様からの援助が滞り始め、町の方々からのご寄付も目に見えて減ってくる。


それでいて運び込まれた患者さん達の為に出費が増える一方なので、教会の遣り繰りは1年も経たずに火の車となった。


1日1食の僅かな食事だけで、神父様と私の乏しい魔力だけで、多くの患者さんのお世話をするには無理があり、何時しか、ほとんど何もできずに患者さんを見送るだけの状態になり果てた。


死にゆく患者さんの側で、ただ祈ることしかできない私に、そっと手を握ってあげることしかしてやれない私に、うっすらと目を開けた方々は、微笑み、或いは涙をお流しになりながら、他に何もできない私にお礼を述べて亡くなっていく。


その度に、私は教会の裏手の空き地まで走って行き、そこで涙を流しながら、神様へのお願いを繰り返し叫んでいた。


『何故こんなお優しい方々が、寿命も全うできずに亡くなってゆくのです!?

神様がお創りになられた世界は、こんなにも残酷で、無情なものなのですか!?

・・私は、どうなっても良いです。

どうせ祈ることしかできない、無力な存在でしかないから。

ですがその分、こうして苦しんでおられる方々に御慈悲を。

どうか、私の祈りに応えてください』


遣り場のない怒りと悲しみを、祈りの対象である神様に、涌き上がる感情のまま無様にぶつける私。


そんな私に気付いても、神父様は何も言わずに抱き締めてくれた。


それから更に1年。


到頭神父様がお亡くなりになられた。


栄養不足に疲労と心労、更には劣悪な環境まで加わり、まだ60にも満たなかった彼が、呆気なくこの世を去った。


いつもの時間に起きてこられない神父様を気遣い、彼の部屋まで様子を見に行った私の目に映ったのは、ベッドの上で既に冷たくなられたそのお姿だった。


どうして?


何で神父様がこんな目に遭うの?


あんなにお優しくて、皆さんの為に尽くしてきたこのお方が、誰にも看取られず、独りで冷たくなってゆくなんて、・・そんな事、許されるんですか!?


怒りの炎が心を焼き尽くし、一切の感情が失われた私は、無言で調理場まで歩いて行くと、そこにあった包丁で自分の胸を突き刺そうとした。


だが、勢いよく向けられたはずの刃が、胸に届く寸前で、見えない力によって止められる。


訝る私の頭の中に、誰かの声が流れて来る。


『逃げてしまうのか?

一時の感情のまま、自害してそれで済ましてしまうのか?』


「・・誰?」


『我は確かに、お前達を救いはしなかった。

だがそれでも、ほんの僅かな期待を持って、ずっと眺めていた』


「・・まさか、神様なんですか?

今更、一体何の用なんですか?

あれ程、心の底から呼びかけたのに、何もしてくれなかったくせして!!」


神様だろうが、もう関係ない。


神父様がお亡くなりになった今、私にはもう、この世に何の未練もないのだから。


『今の君には、全てが言い訳のように聞こえるかもしれないが、神だからといって、それができるからという理由で、人の願いを安易に叶えていては、世界が進歩しないまま、緩やかに衰退してしまう。

・・病に侵され、罪なき人が大勢死んでゆく。

敵や賊に攻められ、無関係な住民が無造作に殺されてゆく。

災害に見舞われ、沢山の命が瞬時に失われる。

確かにそれらは、被害に遭った者達には不運というしかなく、生き残った人々からは、忘れたい、思い出したくもない出来事として記憶されるのかもしれない。

だがそんな人々の中から、やがて、その忌まわしい、悲しい記憶に立ち向かおうとする者達が必ず出てくる。

大事な人を奪った病を克服しようと、勉学や研究に打ち込む者。

もう二度と愛する人を殺させはしないと、死に物狂いで訓練に励み、或いは国力を蓄え、油断なくその時の備えをする者。

災害が起きた理由を調べ、それを後世に伝えると共に、同じ事が起きぬよう、生き方そのものを変えてゆこうとする者。

こうした者達によって、少しずつ、ゆっくりとではあるが、世界は確実に進歩していくのだ。

その彼らが行動を起こす前に、かわいそうだから、自分なら簡単だからという理由で我が安易に手を出せば、折角伸びようとしている芽を摘みかねない。

一個人の救済で済む場合ならともかく、世界や国単位での変革を起こすには、時には犠牲も必要なのだ』


「神父様の命が、その必要な犠牲に過ぎなかったと?」


『そうなっても仕方がないとは思っていたが、どうやら見込み違いだったようだな』


「ふざけないで!

あんなにお優しかった神父様の命が、犠牲に過ぎないですって!?」


『・・良いか、ここからは少し真剣な話をするから、その茹で上がった頭を冷やして、よく考えてから答えろよ?

お前が慕う神父は確かに善人だった。

失うには惜しい人物だった。

では、お前がこれまでに看取ってきた彼らはどうだ?

死んでも仕方がない者達だったのか?

彼らだけなら、犠牲になっても生きていけるのだろう?』


「それは・・」


『それに、そこまで大切な人物だったのに、お前はこれまで一体何をしていたんだ?

ただ無闇に祈っていただけではないのか?

このままでは、何れ自滅するのが分っていただろうに』


「私は聖職者です。

神に祈って何が悪いのですか!?」


『お前の言う神とやらは、一体どんな存在を指すのだ?

呼びかけに無条件に反応する、単なるシステムなのか?

要求に応えるだけで、何の見返りも求めない、便利な財布代わりなのか?』


「え?」


『金も物資もない中で、お前達が領主や領民に積極的に援助を求めなかった理由は、願っても、叶う見込みがなかったからだろう?

彼らには彼らの生活があり、優先順位がある。

家族や親族を犠牲にしてまで、お前達を助けることはない。

そのことを無意識にでも感じ取っていたから、押し付けられるだけで、見返りを要求しなかった。

一方で、神に祈れば、只で何でもしてくれる。

そう思っていたからこそ、具体的な策は何も取らずに、現状に甘んじていたのだろう?』


「そ、それは・・」


『それ程までに神父が大事なら、不相応な患者など受け入れずに、教会を閉じていれば良かったではないか?

受け入れるにしても、何らかの見返りを要求して、彼の負担を和らげるべきだった。

たとえ彼が反対しても、真に彼が大事なら、その選択を押し通せたはずだ。

それでも彼が受け入れないなら、それは彼にとって、お前もその患者達と同価値でしかなかったというだけだな。

お前と教義を秤にかけて、後者を選ぶということなのだから』


「・・・」


『必要な能力を持たない者が、全てを助けられるなんて考えるのは、傲慢でしかない。

だからこそ人は、己に優先順位を設定し、他者へ向ける救済や施しとは明確に区別する。

平時なら、多少の無理をしてでも、優先外の者にまで手を差し伸べてくれる者がいるだろう。

だが自己の非常時に、他に護るべき者を持たない者を除いて、それを期待するのは難しい。

お前や神父は、その線引きを誤り、自滅へと追い込まれたに過ぎない』


「・・じゃあどうしろと言うのですか?

親に捨てられ、優しい神父様に受け入れて貰った私が、彼に異を唱えるなんてできる訳がありません。

このままでは駄目だと理解してはいても、今の私には、祈る事しかできなかったんです」


握っていた包丁を落とし、涙を流してそう訴える。


『・・我は君に、現実を受け入れ、その先へ進むことを期待した。

神父の死を無駄にせず、それによって生じた怒りや悲しみを、自己研鑽に向けるものと考えていた。

あそこで君が命を絶てば、これまで神父と歩んできた全てが無に帰する。

死した君達を見た者からは、その功績をほとんど称えられることなく、単に疫病の犠牲者の一人として葬られただろう。

君はそれで良かったのか?

神父の優しさ、心の清さを他に伝えることなく、その教えを活かすことなく、無駄死にして満足だったのか?』


「・・・」


『我は準備していたのだ。

もしあの場面で君がああせず、必死に生きようとしたならば、能力ちからを授けようとな』


「!!!」


『我は、己の命を粗末にする者を好かない。

不治の病に苦しみ抜いた末、助かる見込みがなくてそうするならともかく、満足な身体を持ちながら、一時の感情に流されて、安易に死を選ぶ者がな。

これまでの経験は勿論のこと、慕っていた神父の死という決定的な悲しみに直面した君がなお強く生きようとするなら、その時こそ十分な能力を与えようと考えていた。

我が与える能力は人には過ぎたもの故、誰にでもという訳にはゆかぬ。

我が課した試練を乗り越えた者、我が特に認めた者にしか与えぬ。

君はあの時、もう直ぐそこまで来ていたのだ。

最後の最後で選択を誤ったがな』


「・・愚かですね、私。

今まで散々神様に祈っておきながら、最後の最後でその神様を裏切ってしまうなんて。

あまつさえ、暴言まで吐いてしまうとは・・。

神父様がお聴きになられたら、きっと嘸かしお嘆きになられたでしょう。

私は、罪を犯すところでした」


絶え間なく溢れ出る涙が、地面に落ちて染みを作っていく。


『・・ところで、様々な宗教の中には、『懺悔』なるシステムがあるそうだ。

君はそれを知っているか?』


「え?

・・それはまあ、神父様が以前おやりになってましたから」


『汝の罪を許そう』


「・・・」


『神父を生き返らせることまではせぬが、君の今後の働き次第では、輪廻の輪に並んだ彼の順番に手を加え、なるべく早く、転生させよう。

彼のことだ。

間違いなく再度人として生まれ変わる。

どうだ?

残りの人生を、強く生きる気力が出たか?』


「・・はい。

もう二度と、神様を疑ったりなんか致しません。

私にできる事を、精一杯頑張っていきます」


『君は選ばれた。

今この時、我によって認められた。

君の今後の人生に、幸あれ』


私の身体の中に、厖大な魔力が流れ込んで来る。


頭の中で、様々な回復魔法の術式が花開く。


胸元に生じた光を支えるように掌を差し出すと、その中に、2枚の金貨と、幾つかのパンが入った袋が現れる。


「ありがとうございます」


既に神様の気配がしなくなった空間に、涙と共に、独りでに漏れ出る言葉。


『君は選ばれた。

今この時、我によって認められた』


このお言葉は、以後の私の人生でとても大きな支えとなって、その歩みを強いるのだった。



 神様から絶大なお力を授かった私は、教会の敷地全体に浄化を施し、疫病で穢れた施設を清浄な空気で満たした。


弱り果て、死との境目で何とか踏み止まっていた患者さん達に、解毒と回復の効果を併せ持つ、エクストラヒールを掛けて回る。


様々な汚れと菌で溢れ、野戦病院より酷い状態だった礼拝堂は、今や光り輝く神の休憩所と化し、寝かされていた人々が、次々に起き上がっては己の様子を信じられない顔をして眺めている。


人々が口々に私を褒め称えては去って行く混乱が収まると、私は一人、神父様のお部屋に行き、彼を丁重に埋葬しようとした。


部屋に入ると、彼の遺体が光に包まれ、輝く粒子となって消えて行く現象を目にする。


神様のお言葉を思い出し、神父様が輪廻の輪に加わったのだと理解した私は、嬉しくなると共に、急にお腹が空いてきた。


調理場に、大事に置いてあったパンを、水と共に頂く。


「美味しい」


ただ、それだけしか口に出せない。


私の貧相な語彙では、この味を正確には表現できない。


噛み締める内、様々な記憶が蘇る。


実の親と暮らし、日々お腹を空かせていた頃。


神父様に引き取られ、自分だけの部屋で、安心して眠れた夜。


決して豪華ではないけれど、温かい、十分な量の食事を頂き、自然と笑顔が浮かんだ日。


窓から見える星がとても奇麗な冬の夜、暖炉の側で、神父様から回復魔法を教わっていた時間。


パンを噛み締めるその動きに合わせて、涙がぽたぽたと零れ落ちていく。


時々、噛むことすらできなくなって、嗚咽を遣り過ごすから、1つを食べるのに随分な時間が掛かる。


これまで、涙を流すのは、決まって悲しい時だった。


けれど今は、涙にも喜びの意味があるのを知った。


パンの包み紙を大事に折って、小さな革袋の中に大切に終い、外に出る。


神様から頂いた魔法を試すためだ。


長いこと放置されていた、教会の畑。


嘗ては数種類の野菜が植えられ、季節ごとに多くの実を付けていたその場所は今、雑草が生え放題の荒れ地と化している。


精一杯生きると神様にお約束した以上、ここでその糧を得なければならない。


「グラウンドヒール」


これまでの常識として、ヒールとは、人の身体を癒す魔法だった。


それが今、目の前で覆される。


畑から雑草が消えていき、固くなった地面が、適度な湿り気を備えた柔らかい土壌に変わる。


人ではなく、大地を癒す魔法。


それがこの、グラウンドヒールなのだ。


癒された大地は、連作障害などから守られ、その時必要な作物を連続して何度でも作れる。


飢饉においては、これ以上ないくらいの頼もしい魔法となる。


疫病で汚れ、疲れ果てた村や町の希望となる魔法・・のはずだった。



 半年が過ぎた頃、この小さな教会の前に、3台の豪華な馬車が停まった。


そこから降りて来た人達は、教会の総本山で働く大司教や司教の方々で、何度もお断りしたにも拘らず、嫌がる私を無理やり聖地と呼ばれる大神殿まで連行した。


この半年、私の魔法で国の何処よりも豊かになった町の噂は中央まで届き、国の上層部を動かしたのだ。


私は聖女扱いされ、聖地の大神殿に軟禁されて、苦しむ民ではなく、貴族や聖職者達の利益となることばかり強要された。


高価な衣装で着飾され、豪華な馬車と大勢の従者で権威付けされ、貧しい住民の田畑ではなく、貴族や領主達の農地を癒し、そこで働く小作人達の体力を回復する。


だが、そうされた彼らは、全然嬉しそうには見えなかった。


当たり前だ。


体力や病が癒えたところで、また貴族達に酷使されるだけなのだから。


豪華だが、監視役の侍女が付いた無機質な部屋の中で、徒に時間を浪費する日々が数年続き、私は再び神様に祈り始めた。


そして、考えるようにもなった。


『さあ聖女様、この者達に癒しを』


『聖女様、どうかこの荒れ果てた大地に恵みのお力を』


『聖女様‥』


『聖女様‥』


神様に頂いたお力で、教会のある町を豊かにし始めた半年間。


長年の疫病で苦しんだ住民達は、最初こそ、その癒しの力に涙して、感謝の言葉を捧げてくれた。


私も、彼らの願いに全て応えることが使命だとばかりに、ろくに考えもせず、それらの期待に応え続けた。


その結果どうなったかというと、勤勉で、謙虚でもあった住民の皆さんの中に、働かず、節制をしない者を生んでしまったのだ。


荒れ地に柵を作り、勝手に自分の土地にした自称農地を、私の魔法で潤わせ、それを安い賃金で雇った人々に耕させて利益を生む人。


身体を壊しても私に頼めば直ぐ治るからと、暴飲暴食を繰り返す人。


私が安易に治療するせいで、町にあった治癒院は潰れてしまった。


疫病に侵され、死の淵に立たされた人が流していたような清らかな涙を、ほとんど見ることができなくなっていた。


『要求に応えるだけで、何の見返りも求めない、便利な財布代わりなのか?』


あの時の神様のお言葉が、脳裏に浮かんでくる。


今になって初めて、そのお言葉が骨身に染みる。


安易に、何の見返りも求めずに、乞われるままに魔法を用いたせいで、その噂は瞬く間に国中に広がり、今私はこんな場所で軟禁生活を送っている。


私が見返りを求めなくても、その下で甘い汁を吸っている貴族や聖職者達が、貧しい人からお金を取り立てている。


ここに入れられてから、何度祈りを捧げても、神様は一向に応えてはくださらない。


私はもう、見捨てられてしまったのだろうか?


それに、そもそもあの神様は、一体どなたなのだろう?


ここの聖職者達が崇めている神様(私もそうだったけど)とは、絶対に違う気がする。


『もう二度と、神様を疑ったりなんか致しません。

私にできる事を、精一杯頑張っていきます』


彼にそう誓った通り、ここの神様は信用しないが、私が崇め奉る神様を求めて、旅に出る決意を固めた。


表向きは従順な振りをして、着々と準備を進めていた時、遥か遠いセレーニアの地に、『神から直に贈り物を授かった教皇が居る』という噂を耳にする。


もう一度、神様のお声をお聴きしたい。


今の私をどう思っていらっしゃるのか確かめたい。


切実にそう思っていた私は、それから間も無く、監視役の隙をついて逃げ出した。



 長く過酷な旅だった。


高度な回復魔法は使えるものの、他は水と火の基本魔法しか持たない私が、供も連れずに歩いた約1年半。


途中で商隊の荷馬車に乗せていただいたり、気さくな冒険者達のパーティーに同行しながら、ひたすらセレーニアの地を目指した。


追手や賊を恐れ、時には森に隠れ、ボロを纏って顔を汚したこともある。


十分だと思える額を持ち出してはきたが、路銀の足しにと、立ち寄った村や町で、簡単な治癒を施してお金を稼いだ。


町の酒場で食事を取りながら(注文はするが、お酒は飲まない)、情報を集めては旅の目安にする。


最後まで慣れることのなかった野宿では、獣の遠吠えや風の音に怯えて頻繁に目を覚ました。


そんな日々をどうにか乗り越え、身に纏う衣服が放浪者と見分けがつかなくなった頃、漸くセレーニアに辿り着く。


以前居た国とは比べものにならない、華やかで活気に満ちた、豊かな都。


通りを行き交う人々には笑顔が溢れ、そこに混じる大勢の巡礼者達には、安堵と安らぎの表情が浮かんでいる。


形ばかりの信仰とは違う、真の宗教の姿を垣間見た気がした。


賑やかな市場を歩いていた時、私の身体に電撃が落ちたような衝撃が走る。


とある屋台の看板に、見覚えのある絵柄を確認したからだ。


震えが止まらない指をどうにか動かし、懐の革袋から大事に終ってある包み紙を取り出して、何度も見比べる。


並べられたパンの中に、あの時神様から頂いた物と同じ種類を見つけた時は、必死に嗚咽をこらえた。


そこから先は、私だけの大事な思い出。


細かく語ることはせず、最後に神様に贈られた言葉だけを述べるに留めたい。


『君は選ばれた。

今この時、我によって認められた』


それからもう1つだけ。


御剣様は、修道院と教会との区別をあまりご存知なかった。


随分後になってから、その事をお話ししたら、『そうだったのか。自分はいつも、リセリーに丸投げしていたから・・。ゲームでも、詳しく教えてくれなかったし』と、視線を逸らしながら、一部意味不明な言葉を口にして、顔を赤らめておられた。



 『蒼き光』での生活は、私にとって、実に心地の良いものだった。


自然に目が覚めた時間から1日が始まり、形式に囚われない自由なスタイルで御剣様に祈りを捧げ、信者の方々と交流を持ち、時にはリセリーさんやミューズさん、アンリさんとお茶を楽しんで話に花を咲かせた。


極稀に、騎士団のような鎧に身を包んだ、教団兵と呼ばれる方々が何処かに出向いて行ったが、大司教と言えど私の管轄ではなく、黙礼だけで見送った。


未だ建設中ではあるが、既に観光名所と化していた大聖堂には、日々信者を含めた大勢の参拝客が訪れる。


作業の妨げになるので、彼らが立ち入れる場所はごく僅かだが、それでも皆、その荘厳で厳粛な雰囲気に圧倒され、満足して帰って行く。


この教団と、私が元居た場所での非常に大きな違いは、信者の方との接し方にあると言って良い。


お互いが相手側を尊重し、程好い距離感がある。


例えば、私が元居た場所では、ヒールなどの回復魔法は基本無料で、教会の経営はほぼ善意の寄付で賄われている。


なので当然、月や年によって、その収入に差が出て、経営が安定しない。


そしてその分、教区を束ねる上層部が、そこから徴収する税によって潤っていた。


住民達は、普段から強制的に税を取られているので、末端の教会で何かして貰うのは当たり前だと考えている。


一方、『蒼き光』には、そもそも税などという概念がなく、その代わり、何かを頼む際には相応の費用が掛かる。


そしてその額は、善意などという抽象的な額ではなく、ものによって一律に定められている。


勿論、他でやって貰うよりは断然安いが、きちんと代金を徴収する。


特徴的なのは、誰に頼んでも同じ金額だということだ。


リセリーさんも、暇な時は信者の方の治療に当たられるけれど、彼女に治癒を施して貰っても、他の司祭と同額なのだ。


私が聖地で聖女扱いされていた時は、私から直接治療を受けられるのは、最低でも貴族か、或いは大金を積んだ大商人だけだった。


一般の人々は、離れた場所から私の姿を拝むことしかできなかったのだ。


それから、ここの人々は、たとえ道端で教団関係者と出会っても、安易に何かを要求しない。


私が元居た場所みたいに、『序でだから治療して』みたいなことを言わないのだ。


側に寄っては来ても、有難がられて頭を下げられたり、親しみを込めて話しかけられたりするだけで、安易に握手すら求めてこない。


相手が異性の時は、基本的に身体に触れてこないのだ。


その事を、驚きを以ってリセリーさんに話したら、『『呟きの書』でそう注意されているし、『信者だからといって媚を売るようでは、長続きしない』と”彼”も言っていたから』と平然と言われた。


『親しき仲にも礼儀あり』なのだそうだ。


聖女時代、侍女によって着替えや入浴まで監視されていた私は、その考え方に大いに頷いた。



 ここで暮らし始めて数十年(はっきりと思い出せない)が経った頃、教団上層部に激震が起きる。


御剣様が、4000年という、途方もなく長い眠りにお就きになったのだ。


セレーニアの守護者であり、彼の妻でもあるマリー様からその事を聴かされたリセリーさんは、その後3日の間、ご自身の部屋から出て来なかった。


動揺が激しかったのは私も同じだが、周囲でこの事実を知る残りのお二人、ミューズさんやアンリさんと相談し、この件は外部に伏せることにした。


この事が、世界にどう影響を及ぼしていくのか非常に不安であったが、眷族と称される方々のお働きにより、それまでと然して変わらぬ暮らしを送れた。


ただ、明らかに、その方々から笑顔の頻度が減ってはいたのだが。


お姿がそう変わらぬリセリーさんや他のエルフの方々と異なり、人間である私は、年月と共に老いていく。


老年をうに過ぎ、魔力以外は目に見えて衰えはしたが、日々の祈りの中で心を落ち着け、他は気力でカバーして、教団の務めを果たしていた。


そんなある時、私の生まれ故郷に近い町で新国王が即位式を行うに当たり、戴冠役を『蒼き光』の大司教である私に依頼してきた。


私が居た当時の国が滅び、虐げられていた民の中から立ち上がった若者が王となって、新たな国を興した。


そこで聖女として崇められていた私が、『蒼き光』で大司教として働いていることは、意外と早くから世に知られてはいたが、辺境の小国が、世界最大教団であり、マリー様に守護された『蒼き光』に刃向かうことなどできず、事実上黙認されていた。


嘗て私が徒歩でセレーニアを目指した時とは異なり、今は魔導船の航路が至る所に伸びていて、船を使えば数時間で現地に到着する。


『折角のお話だから、序でに故郷を見てきなさいな』


リセリーさんからそう背中を押されて、私は数人の護衛と共にその国に向かった。


目的の町に着き、盛大な出迎えを受けた際、私に歓迎の握手を求める新国王の顔を見て、目を見開く。


『・・神父様』


思わずそう口に出しそうになる。


既に老齢に差し掛かっていた彼とは異なり、目の前の王は未だ若く、少年のようにも見える。


だが、目元や顔全体の輪郭が彼にそっくりだし、髪や瞳の色も同じだった。


「お名前を・・お聴きしても宜しいですか?」


動揺を悟られないよう、小さな声でそう尋ねた私に、彼は答えた。


「○○○と申します。

大司教様」


「!!!」


ああ、ありがとうございます。


ありがとうございます、・・御剣様。


まさか生きている間に、再び彼に会うことができるなんて。


溢れ出る涙を止めようもなく、私はたった一言しか声に出せなかった。


「あなたの未来に、幸あれ」


いきなり泣き出した私を見た周囲の人々は、最初こそ戸惑いを見せたが、その言葉を各自が良いように解釈してくれたらしく、とても和やかに式典を終えられた。



 「懐かしい。

今となっては、苦い過去も、耐え難かった苦痛も、その全てが我が身の糧となっている」


元居た小さな教会の裏庭にある、大きな樫の木。


その根元には、神父様の亡骸の代わりに、彼が愛用していた品々を埋めてある。


お忍びだからと、教団の護衛のみを連れてやって来た思い出の地。


それが仇となったのか、帰り際に大勢の賊達に襲われる。


「この時を待ってたぜ。

・・お前が逃げさえしなければ、俺は未だに王として君臨できたんだ」


「お前さえ大人しく従っておれば、私は教皇の地位を追われることはなかったのだ」


「お前さえ・・」


「お前さえ・・」


眼前に立ち塞がる多くの者達が、この国から逃げ出した私を非難する。


そう言えば、この国からの護衛をやんわりと断った時、『我々は戦に勝ったとはいえ、まだ数十名の残党が、国内で逃げ隠れしております。くれぐれもお気をつけて』との助言を受けていた。


もう半世紀も昔の事を、未だに根に持つ者がいるとは思わず、油断した私が馬鹿だった。


老い先短い私はともかく、護衛の四人はまだ若く、将来のある身。


「私はどうなっても構いませんが、護衛の四人は逃がしてあげてくれませんか?」


「残念だがそれは無理だ。

お前らはここで皆殺しだ」


「・・そうですか。

では戦う他ありませんね」


私を庇うように前に出てくれた四人に詫びる。


「巻き添えにしてしまってごめんなさい。

命ある限り援護しますから、どうか存分に戦ってください」


「お気になさらず。

我々は、栄えある『蒼き光』の教団兵。

正しきを守り、世に必要な方々をお守りする盾」


「私は以前、妻の病をセレン様に治していただきました。

今はそのご恩をお返しする時」


「私も娘を治療していただきました。

たとえこの場で死のうとも、残された家族は、きっとその事を誇ってくれるはず」


「お忘れかもしれませんが、僕がこの世に生まれ出た時、母と共に祝福していただいたそうです。

難産だった母は、セレン様のお陰で命を取り留めました。

ここで背を向けたら、母に叱られてしまいます」


五十人近くいる相手に、横一列になって私への道を塞ぎながら、必死に抗う四人の護衛兵。


私もシールドヒールを連発して援護するが、高齢のせいで、次第に心臓が痛み出す。


『死なせない。

・・死なせたくない。

あの時とは違って、今の私には力があるのだから!

・・御剣・・さ・ま』


『君は選ばれた。

今この時、我によって認められた』


地上の全てが、蒼一色に染まる。


私だけが自由に動ける空間の中で、懐かしくも頼もしい、彼のお方の声がする。


『祈りには、少なくとも3種類ある。

無責任な願望と、故人を送るための言葉、自己を戒め、奮い立たせるための誓い。

自分が応えるとすれば、ほぼ最後のものになる』


「・・御剣様、お眠りになっていらしたのでは?」


『確かに眠っていた。

今のこの言葉は、約4000年後の未来から掛けている』


「・・・」


『力を授ける前の君は、ただ神に祈ってばかりだった。

ほとんど選択肢がなかったとはいえ、祈るだけで、行動を起こそうとはしなかった。

だが、それからの君は、日々力強く一歩を踏み出していた。

今もそうだ。

ただ助力を乞うのではなく、自分ができることを精一杯やっていた。

・・済まなかったな。

自分はあの時(眠りに入る直前)、情けなくも他者を気遣う余裕がほとんどなかった。

本来なら眷族として迎え入れるつもりでいた者達を、そのまま放置してしまった。

エリカに励まされ、紫桜に叱られながら、過去の自分を見つめ続けた4000年。

その甲斐あってか、今の自分はこれまで以上に融通が利く。

世界や人の進歩がどうとか悩むくらいなら、自分が助けたいと思った者に手を差し伸べる。

・・受け取るが良い。

我が眷族の証。

力と誇りの象徴である、このリングを』


私の右手、その薬指に、いつの間にか嵌められた銀色のリング。


それが輝きを放ち出し、その光に包まれた私の身体に変化が起きる。


細胞という細胞が活性化する。


全身に魔力が漲り、今にも溢れ出しそうに、私の体内で駆け巡る。


外見にも変化が見られ、老いた身体が、10代の少女のように若返る。


『今はここまで。

あとは我が目覚めた未来で語ろう。

・・マリーも済まなかったな。

お前の出番を奪ってしまった』


そのお言葉に驚いて周囲を見遣ると、後方に在る家の陰で、彼女が私を見ていた。


「わたくしは寧ろ嬉しいです。

でも、そう感じてくださるなら、1つ貸しということで。

お目覚めを心からお待ちしています」


微笑む彼女が、魔法陣の中で消えて行く。


『護衛兵達の拘束を解いたその10秒後に、世界の時を戻す。

見せてやれ。

我が教団の力を』


「はい!」


いきなり蒼一色の世界に包まれ、動揺した四人に、私は鋭く言葉を発する。


「盾を構えて、己の大事なものを想いなさい!

ただそれだけで良い!」


よく訓練された四人の兵達は、疑うことなくそれを実行する。


「究極時限魔法。

『蒼き守護の盾』!」


世界の時間が戻る。


今将に、四人に対して放たれた斬撃や魔法が、彼らの放つ蒼い光によって全て跳ね返される。



 『立派な体躯たいくですね。

これまで嘸かし努力なさってきたのでしょう。

あなたのような方が、我が教団を護ってくださるなら安心ですね』


まだ新兵として教団にお仕えしていた頃、周囲から乱暴者と見做されていた俺を、リセリー様はそう言って称えてくれた。

俺だって、ただ闇雲に暴力を振るっていた訳ではない。

貧しい者、弱い者を虐げる人物にしか、拳を振り上げてはこなかった。

だが、それだけでは駄目なんだということを、御剣教が教えてくれた。

理由があっても、他に取れる手段があるなら、先ずはそれを優先すべき。

武力は、その理由を備え、代替手段が存在しえない時、初めて”力”として作用する。

己だけの正義で以て振るっても、それは暴力でしかないと教えられた。



 『・・済まない。

今月はこれだけしか稼げなかった』


『何だい、これっぽっちじゃ、ろくな薬を渡せないよ?』


病弱だった妻の為に、毎日必死に働いても、その大半は妻の薬代に消えて行く。


治る治ると言われ続け、空腹を我慢しながら薬師に貢いでいた私は、寝たきりの妻と共に、心中を図る一歩手前だった。


あの時、セレン様に出会わなければ、私達の人生はそこで終わっていた。


今この時、教団の宿舎で妻が元気に過ごせるのも、全ては御剣教があってこそ。


この希望の光を、決して絶やしてはならない。



 『お父さんは、今度はいつ帰って来るの?』


生まれつき身体の弱かった娘が、装備のブーツを履く、私の肩に甘えてくる。


これまでは、ベッドからただ首を動かすだけの、ぎこちない挨拶しかできなかった娘の、その温かな温もりを直に感じ、幸せな気分に浸る。


どんな治癒師に診せても治らなかった、娘の病。


それは家族の暮らしにまで影を落とし、その看病で疲れる妻と、彼女に気を遣う自分とで、家の雰囲気は悪くなる一方だった。


そんな自分達を、セレン様が救ってくださった。


それだけではない。


何時発作を起こすか分らない娘のために、ろくに働くことのできなかった私達二人に、仕事まで世話してくださったのだ。


御剣教は、この不安定な世を照らす、一筋の確かな光。


その輝きを、決して曇らせてはならない。



 『救助の場で、もし倒れて動けない人がいたら、その手をしっかりと握ってあげなさい。

意識がある人なら、それだけでも随分と気が楽になるのよ?』


子供の頃、僕が病気でとこに臥せると、決まって母は僕の手を優しく握ってくれた。


大人になってから、疑問に思って尋ねた僕に、母はその理由を教えてくれる。


難産で苦しんだ母の手を、ずっと握り締めながら、声をかけ続けてくれた人がいたことを。


助産婦の方が僕を取り出して直ぐ、弱り切っていた母に回復魔法を施し、二人を祝福してくれたセレン様のお話を。


僕が教団兵に志願した時、母はとても喜び、この言葉を贈ってくれた。


戦うだけが、兵士の仕事ではない。


時にはむを得ないこともあるけど、出来る事なら、僕は人を励まし、護る立場でいたい。


御剣教は、そんな僕の儚い夢を叶えてくれる。


僕はこの教団が大好きなんだ!



 四人の身体から無限に放たれる蒼い光は、やがて敵の全てを包み込み、消滅させていく。


その光が収まった時、私達の前に敵は存在しなかった。



 その後の細かな点については、本当に色々あり過ぎて、ちょっとここでは説明が難しいかな。


少女のように若返った私を見て、教団の人々がどう思ったかとか、リセリーさんやミューズさん達にお茶会という名の軟禁をされて、お眠りになっているはずの御剣様について根掘り葉掘り尋ねられたとか、思い出すだけで疲れそう。


今私は、造りはしたが、取り立てて使い道のない地下室の掃除に励んでいる。


大聖堂の掃除は御勤めの一環でもあるから、浄化は使わず、全てが手作業だ。


ここをご覧になったマリー様は、『旦那様がお目覚めになれば、きっと宝箱を置こうと仰いますよ?だってここ、旦那様がなされていたゲームで見た場所と、そっくりですもの』と仰って、クスクス笑われた。


アンリさん達から勧誘を受けた、『御剣様ファンクラブ』の会合にお試しで参加した時も、何だかよく分らない単語が飛び交っていて、偶に置いてけ堀を食った。


この世界には、まだまだ私の知らない事が沢山ある。


右手に光るリングのお陰で、時間だけは無限にあるから、何時かその全てを理解できる日がくるかもしれない。


モップ掛けの最中、つい以前の癖で、痛くもない腰をトントンと叩く。


「セレン、お茶にしましょう。

アンリが珍しくケーキを持って来たわよ!」


リセリーさんが、嬉しそうな声で私を呼ぶ。


「はあい、今行きます~」


ここでは今日も、いつもと変わらぬ穏やかな時間が流れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る