備品庫に身を隠した美緒は、内視鏡を使って廊下の様子をじっくり探った。北側の廊下にも犯人たちの姿はない。

 美緒がつぶやく。

「誰もいないなんて、おかしくない……?」

 彩花は、美緒の背中に身を隠すような姿勢で言った。

「みんな逃げちゃったのかな……?」

「見張りが残ってたのに?」

「だよね……じゃあ、どこかに行ってるの?」

「でも、やるなら今のうちだよね」

 二人は南側の廊下に戻り、人質が監禁されている部屋の前に立った。美緒がドアを縛ったロープをほどこうとする。結び目は堅く締まり、なかなか緩まない。

 その間、彩花が廊下を見張った。

「早くぅ……」

「だって、固くて……」

 と、ナースステーションの陰から人影が現れる。彩花が声を殺して叫ぶ。

「誰かきた!」

 姿を現したのは、サオリだった。

「よかった! あんたたちも逃げられたんだね!」

 美緒は走り寄るサオリに笑顔を向けてから、ロープに注意を戻した。

「サオリちゃん!」彩花がサオリと抱き合おうとする。「やだ! 足が血だらけ! 何されたの――」

 サオリは、黙って冷たく笑うだけだった。彩花が一度も見たことがない、冷たい笑いだ。手に持った注射器が、彩花の肩に突き刺さっている。彩花はぽかんとした表情で注射器を見たとたん、膝を折って崩れた。つぶやきが漏れる。

「いやだ……なに、それ……?」

 美緒がその言葉に振り返る。

「え? なに?」

 美緒の首筋にも、注射器が突き立てられた。

 サオリはにっこり笑った。

「ケタミン。少量だから、すぐ醒めるよ。気づいた頃には、ドカンだけど」

「なんで、そんなことを……」

 美緒の腰が砕ける。

 階段に人の気配がした。仁科たちがダミーの爆薬を仕掛け終わり、戻ったのだ。先頭の仁科が倒れたナースたちを見て走り寄る。

「何があった?」

「知らないよ」サオリは、少々頭が弱そうな〝ギャル〟を演じながら応える。「なんかぁ、二人がここでコソコソやっててさ。勝手にさせてたらまずいんでしょう? あたしのこと人質だって思ってるから、近づいてあんたの注射打っちゃった。このクスリ、打ってもよかったんだよね?」

 仁科が苦笑する。

「見張り、どこに行った?」

「さあ? ナースにたぶらかされたんじゃない?」

「まあ、お手柄だ。よくやった」

 高木がサオリのスニーカーの血に気づく。

「サオリちゃん……その血は?」

 サオリが微笑む。

「なんでもないよ。ケガ人の看護を手伝ってたの。そしたらGジャンの人がいきなり血を吐いちゃって……」

 その間に夏山は、負傷した手下を入れた部屋のドアを開けていた。

「だらしねえな……全員ぶっ倒されてやがんの。何のために三人も連れて来たんだか……」

 夏山はドアを閉めてすぐに戻った。

 仁科は二人に指示した。

「よし、撤退の準備だ。ここに残る人間は全員麻酔薬で眠らせる。その後に部屋の中にアルコールをまいて、酸素を充満させる。発火装置は、廊下の洗浄用アルコールに仕掛ける。周囲にもアルコールをまいておけ」

 夏山が鼻で笑う。

「また掃除のババアの二番煎じかよ」

「事故に見せかけなきゃならないからな。あれな、なかなか美しいアイデアなんだ。いいものを真似するのに、ためらう必要はない」

「何で部屋の中に仕掛けない? その方が確実だぞ」

「現場は爆発でめちゃくちゃになるとは思うが、中から発火した事がバレるとまずい。俺たちが殺したと分かったら、韓国に逃げても逮捕される恐れが残るからな。韓国の刑務所なぞ、まっぴらごめんだ。外から火が上がって爆発したなら、俺たちの犯行だとは断定できない。しかも、残骸からも爆発物の反応は一切見つからない。ちょっとでもいいから、言い逃れができる余地を残しておくんだよ。疑わしきは罰せず、ってな。強盗の現行犯でさえ射殺されることはないのが日本だからな。全くいい国に生まれたもんだ。俺は、発火装置を準備する」

 サオリが言った。

「あたしはなにすればいい?」

「こいつらを手伝え。終わったら、一階に隠れて隙を見て逃げろ。万一捕まったら、一人で逃げ出したと言うんだ。サツには、余計なことはしゃべるなよ」

「あたし、逃げるのは得意だから」

 仁科はうなずき、人質の部屋のドアに叫んだ。

「佐伯多恵! 一人で出てくるんだ! 抵抗はするな! 部屋の奴らも、抵抗すればここにいるナースを殺すぞ!」


          *


 誰かが部屋に入る気配があった。動きを止める。

 わずかでも脚が動くようになったことは、知られたくない。切り札と呼ぶにはあまりに些細な変化だが、回復が進んだことは隠さなければ……。

 入ってくる人間は、一人のようだ。あの女だ。

 女がベッドの横に立ち、私の目を覗き込んだ。小声で囁く。

「結局、あんたに計画をことごとくぶち壊されたんだよね……。まさか、金森を呼び寄せるなんて……。動くことすらできない、惨めなオヤジなのにね……」

 女の目を睨み返した。

 女は、私の意識がはっきりしていることを知っている。私が、事態を把握していることを知っている。私が、憎んでいることを知っている。

 憎悪を隠す気など、ない。

 多恵の身が危険なのだ。金森は、怒りをかき立てることで排除できた。ならば、この女も排除する。

 叩き潰す。できるまで、怒りを燃やし続ける。

 でなければ、多恵が殺される。

 しばらく黙り込んだ女が、続ける。

「わたしが誰だか、知りたいんだろう? 話す必要なんかないんだけどさ……しぶとい男、好きなんだよね。そう、その目――あんた、すごいよ……。あいつらみたいな、クズとは違う。自己紹介ぐらい、しておかないとね。陸上自衛隊特殊作戦群、心理戦担当三等陸曹、香坂沙織。元、だけどね。ウソじゃないよ。もしあんたが生き延びられたら、報告してもいいから。もちろんわたしは、顔も戸籍も変えてるだろうけど」

 打ちのめされた。

 犯罪者たちを手玉に取る手際を見て、何かしらの〝訓練〟を受けた者だとは予測していた。だが、そこまでプロフェッショナルだったとは……。

 自衛隊上がりなら、銃器や格闘、そして戦略や戦術にも精通していると考えるべきだ。身体中が麻痺した刑事ごときが戦いを挑める相手ではない……。

「そもそも仁科と知り合ったのは、金森があいつの尻尾をつかむずっと前だったんだ。わたしは生温い自衛隊に嫌気がさして、自分の本当の能力を確かめたかった。たとえそれが犯罪でも、ね。だから、仁科に近づいた。化学者なら麻薬が合成できるんじゃないかと考えてね。で、逃げられないように心を操ってから、実際に作らせてみた。その実験で出た臭いに気づいたおせっかいが、警察に通報したんだ。臭くてね、あれ。で、来たのが金森。たった一人で。わたしは姿は見せなかったけど、金森が仁科を脅して麻薬の密造を強要した。面白いアイデアだったんで、わたしはその計画に便乗して『やれ』って命令した……」

 この女が全ての発端だったのだ。そこに金森の〝野望〟が油を注いだ。炎上した事態に巻き込まれて真っ先に燃え尽きたのは、金森自身だったが……。

「わたしは密造グループが港の倉庫で始めて顔を合わせた時から、仁科に取り付けた盗聴器であいつらの話を聞いて、事の成り行きをコントロールしていた。倉庫では、ヘッドセットで次に何をするかを指示していた。金森はきっと、警察が踏み込んだらグループは散り散りに逃げると高をくくっていたんだろう。どうせ下っ端の寄せ集めだから、分断すれば警察から逃げるだけで精一杯で、二度と表には出てこられないからね。でも、わたしはリーダーの正体を突き止めたかった。組織の成果は全部奪うつもりだったからね。だから、グループをもう一度集めるように仁科に命じたんだ。案の定、メンバーの話を付き合わせたら、金森が大金抱え込んでいたことが見えてきた。だから、病院に乗り込んだ。あの時点では、あんたが黒幕だと読んでたしね」

 脳梗塞さえ起こさなければ、病院に閉じ込められることはなかった。話さえできれば、もっと素早く警察を動かせた。動けさえすれば、この女も止められる。

 それなのに……。

「あんたがしゃべれないことはここに潜り込んですぐ分かったけど、急激に回復してることも娘が話してくれた。時間さえあればどうにかなる――わたしは賭ける覚悟を決めた。だけど、それを仁科に教えたらビビって逃げ出したかもしれない。だから、黙ってた。こんなふうに事を大きくすれば立てこもって時間を稼げるし、金を奪った後にメンバーも処分できるからね」

 この女にとっては、仁科も他の男たちも、ただの〝駒〟にすぎないのだ。ゲームに勝つために必要なら、いつでも切り捨てる。命を奪う。

「警官が射たれたのは好都合だったけど、わたしもただ偶然に任せていたわけじゃない。警察の注意を引きつけるために、認知症のばあさんの腕をねじ上げて暴れさせたりしてたんだ。フロア中の警官が集まってくるだろうからね。で、銃声がした直後に、『人質を取れ』って仁科に命令した。わたしは人質側だから、何があっても安全圏にいられる。で、最終的には在日を装った政治テロを演じさせた。仁科は、私が命令した通りに動いた操り人形。あいつが自分で考えたことなんて一つもないんだ。韓国世論のヒートアップなんて、願ってた以上だったのに……あんたさえ邪魔しなければ……」

 女はようやく動いた。私の身体の下を探ってiPodを見つけだす。床に落とすと、スニーカーの底で踏みつけた。そして、ベッドを回って点滴スタンドに歩み寄った。

 首を動かして女を目で追う。女は輸液ポンプに取り付けてある説明書を読みながらつぶやいた。

「このクスリ、ヘパリンって言うんだって。ナースから聞いた。血が固まるのを防ぐんだってね。強力なクスリだから、点滴に入れる量はこの機械で厳密にコントロールする必要があるんだとか――」女が輸液ポンプの蓋を開いて、挟んであった点滴のチューブを引き抜く。さらにチューブの途中にある部品を緩めると、透明な筒の中で薬品が滴り落ちる量が急激に増えた。「これで流量のコントロールはできなくなった。ここにぶら下がってるバッグには、まだクスリがたっぷり入ってる。いま、流れる量を最大にした。重力に任せて、一気に身体に入っていくよ。さて、どんな結果になるんだろうね? 実は、私にも分からないんだけどさ」口調が冷たく変わった。「これから、夏山と仁科をヘリに乗せる。あんたの娘を人質にする。止められるなら、止めてみなさい。……なに、大丈夫だって。すぐにあの世で娘に会えるから。それとも、あっちで娘が迎えてくれるかな」

 これが、この女の本性だ。

 女は、私の酸素マスクを外して笑いかけた。

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