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ドアが開く。入って来たのは、麻酔薬の瓶を持った高木だ。
サオリが甘えるような声で言った。
「高木ちゃん、入って」高木の腕を軽く引いて、ドアを閉じる。「ここは麻酔しなくても大丈夫だよ。この人、どうせ動けないから」
二人は北風に晒されながら長時間、屋上で塩素ガス投入の作業をしていた。その間にサオリは、高木の心にがっちりと絡み付いている。
高木はサオリに気を許していた。
「サオリちゃん、でも……」高木が口ごもる。「言われたから……」
「仁科に? 何でもあいつの言いなり?」サオリは高木の腕を放さない。「高木ちゃん、頭いいのに。何であんなヤツに使われてるの? ここのコンピューター乗っ取っていろいろやってたんでしょう? ハッカーってやつでしょう? 爆弾の仕掛けだってどんどん作っちゃうし。すっごい、かっこいいよ。こんなに才能あるんだから、もっと大きな事できるはずだよ。あんな下品な悪党の命令を聞かなくても大丈夫だって」
「そういう君だって……」
「仁科のこと? やだ、あんな男、どうでもいいわよ。ただ、お小遣いをくれるから引っ付いてただけ。高木ちゃんなら、もっとスゴイんじゃない?」
「スゴイって、何が……?」
「頭いいもん」サオリは高木の腕を抱き込み、やんわりと乳房を押し付けた。「わたし、頭のいい男が好き! あんたなら、もっといっぱい稼げるんじゃない? ねえ、仁科なんか出し抜いちゃおうよ!」
「出し抜く、って……?」
「わたし、知ってるよ。あいつ、病院から盗んだ麻薬をごっそりバッグに入れてる。あれ、盗んじゃおう! 別のバッグに入れて隠しておけば分かんないって。あいつら、偽爆弾で警察を脅かしながらヘリで逃げるつもりでしょう? でね、ホントの爆弾を渡しちゃうの。飛んでから、ドカンって」
息を呑んだ高木の顔は、恐怖に引きつっている。
「だって……そこに僕も乗るんだし」
高木を見つめていたサオリが、身体を離して目を伏せる。
「乗せてもらえると思ってるんだ……」声が急に冷たく変わる。「あんたやあたしは、乗れないよ。その前に、殺されるよ。だってあいつら、性根が腐った悪党だもん」
「ウソだ……」
「なぜそう思うの。あいつらがそう言ったから? あいつらは、噓をつかない?」
わずかな沈黙があった。高木も目を伏せる。
「だよね、僕なんか……」高木の中でスイッチが切り替わった。「じゃあ、どうすれば……? どうすれば生き残れるの?」
サオリは再び高木の腕にしがみついた。
「爆弾入れ替えたら、すぐにどこかに姿を消すの。時間がないから、あいつらだってきっと追ってこられないよ。病院は広いから、隠れるところはいっぱいあるし」
「どうやって警察から逃げるの?」
「仁科は人質を殺す気でしょう? ヘリで飛んでから殺す仕掛けを作ってるんでしょう? あたし、その仕掛け使えなくするから。あいつらは、ヘリでドカン。そしたら、人質を助ける。警察とか病院の人とか、一気に入って来るはずだから、その人たちに混じって逃げればいいじゃん。お医者さんの服なんていっぱいあるんだから、簡単に化けられるって。あたしは人質だと思われてるから、大丈夫。もしもあんたが捕まったら、仲間を裏切って人質を助けてくれたのはあんただって証言してあげるから」
高木の頭で、全ての計算がかみ合う。
「それ、できるね……」
二人は細かい手順を打ち合わせ、部屋を出て行った。
*
サオリという女が話さなかった事実がある。
あいつは病的なサディストだ。自分もそれに気づいている。それを楽しんでいる。
安全に退却したいだけなら、私にも麻酔をかけるのが定石だ。サオリは、あえてそれを止めた。多恵を乗せたヘリを爆破すると、わざわざ聞こえるように打ち合わせて……。
私を挑発しているのではない。動けないと知っているのだから。しかも強力な薬が異常な勢いで身体に流れ込んでいる。血液の凝固作用を弱め、血栓を溶かす薬品だ。私には、脳出血の危険もあると聞かされている。こんな薬を入れられた上に脳の血管が破れれば、血は止まらず、硬い頭蓋骨の中で脳は潰れる。下手に動こうとして血圧が上がれば、出血の危険も高まる。
こんな私が抵抗できるとは考えてもいない。ただ、私を苦しめたいのだ。自分の計画をぶち壊した私に、どうすることもできない絶望感を味合わせたいだけなのだ。
そして、狙い通りになった。
私は、重苦しい屈辱感を噛み締めるしかなかった……。
いや、だめだ! 諦めるな!
私はいい。私は死んでも構わない。だが、多恵は救う!
何があろうと、多恵は救い出す!
まず、点滴を外すんだ。薬を入れすぎてはまずい! 点滴を外して、ここから自由になるんだ!
血圧のことなど気にするな! 動けなければ、どうせ殺される! みんなが殺される!
身体をねじる。動く右手を、左腕に刺された点滴に伸ばす。だめだ、届かない! なぜ届かない⁉
あとたった数センチの距離なのに、なぜ届かないんだ⁉
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