ナースステーションには高木を交えた三人が集まっていた。

 夏山が警察に、プライベートジェットと韓国への着陸許可を要求した。その通話を切った後に、仁科は『金は諦める』と宣言した。

 夏山が怒りをにじませて噛み付く。

「金は無しだってか⁉ じゃあ、手ぶらで韓国まで逃げろっていうのか⁉」

「収穫はゼロじゃない。黙っていたが、ダイナマイトを作った時に、麻薬金庫も破って中身を奪った。モルヒネ、コデイン、フェンタニル――鎮痛剤、手術用、持てるものは全部かっさらって来た。これだけの大仕事には見合わないが、ゼロよりはましだろう?」

 夏山の目が輝く。

「いくらになる?」

「分からない。新しく販路を開拓しなくちゃならないからな。だが韓国までたどり着ければ、俺たちは英雄だ。この程度の金があれば、不自由はしないだろう。腹は立つが、金森にはもう手が届かない。まだこの病院に潜んでいるとしても、結局罠にはかからなかった。そろそろヘリが着く。逃げるチャンスは、今しかないんだ。警察も本格的に動き出す。先手を打たなければ、追いつめられる」

「だけど、ベランダで火を放ったのは金森だろう? 佐伯を殺しに来たんじゃないのか?」

「ヤツの狙いが何だったのか、今となっては分からない。警察の注意をこっちに引きつけて、その間に病院から逃げたのかもしれない。隠れたままだとしても、もう時間切れだ。生き残るためには、脱出を優先するしかない」

 高木がデイコーナーを見渡してつぶやく。

「何にためにこんな馬鹿な真似を……。それでも、人質を殺していくって……?」

 仁科がうなずく。

「お前、いい加減自分の立場を認めろ。俺たちは、すでに重罪を犯しているんだ。死刑になるか、逃げおおせるか……中途半端なエンディングなどない。甘ったれるんじゃない。次の手を打つぞ。一階のガスは排出は終わってるのか? 三人で出入り口にダイナマイトを仕掛けにいく」

 高木がMACを操作して状況を見る。

「ガスはだいぶ前に発生しなくなってるし、排気口にはガスモニターが付いているから分かるけど……もう、人間が入っても大丈夫な濃度になってるね。だけど、今さらダイナマイトなんか……」

「これから脱出だ。ドクターヘリを使おうとしていることを警察に悟らせたくない。爆発物が見えれば、突入もためらう。大勢で下に行けば、こっちが手負いだってことも誤摩化せる。ここは見張りが一人いれば充分だからな。時間稼ぎにはちょうどいい」

 

          *


 金森は死んだ。女は部屋を去った。

 だが、危機は高まるばかりだ。

 女の言葉に、私が決定的な考え違いをしていたことを思い知らされた。

 最初私は、金さえ奪えれば犯人たちは人質を解放すると踏んでいた。ドクターヘリを使って空港へ飛び、反日行動を起こした〝テロリスト〟を英雄視している韓国に逃亡するのだ――と。空港に残した金は信頼できる人間に取りに行かせればいい。

 しかしそうする場合でも、国内で逮捕される恐れが完全に消えたわけではない。国境を越える前に捕らえられて殺人を暴かれれば、罪は極端に重くなる。一方で、今のところ死んだのは警官だけで、それは事故のようなものだ。テロリストを装うのも成り行きで、これ以上の死人させ出さなければ、罪としての殺人は加味されない可能性もある。

 だからその時の保険として、人質は無傷で解放しなければならないはずだ――と考えていた。

 犯人グループが彼らだけなら、おそらくその通りになっただろう。

 だが、仁科を通じて女が陰からコントロールしているなら話は全く変わる。

 女が犯人一味にいることは誰も知らない。警察も、人質も、もしかしたら犯人の仲間でさえ知らない者がいるかもしれない。

 ここで人質を解放すれば、その中に正体不明の女が交じっていたことが明らかになる。警察は、当然それが誰かを追求する。女にとって不都合な事態を招く可能性は高い。

 だが、犯人と人質の全てを殺してしまえば、自分が病院にいたことは誰にも知られない。全ての犯罪は、夏山たちの責任にされる。金森の金を奪って、誰からも追われる心配のない将来を迎えられるのだ。

 危険性は、ゼロ。

 それなら、あの冷血な女は全員を殺すことを選ぶ。殺す意思と、力を持っている。

 そして、それに気づいているのは私だけだ。

 夏山は、仁科の言いなりだ。仁科は、女に操られている。か弱い少女を演じながら人質に紛れ込んだあの女が、結局は全てを企て、支配し、奪っていく――。

 止めなければ、人質が死ぬ。多恵が死ぬ。当然私も殺される。

 止められるのは、事実を知っている私だけだ……。

 無力な自分を哀れんでいる場合ではない。

 行動しなければならない。

 動くんだ! 動かなくちゃならないんだ!

 全身に力を込める。込めたつもりだ。……だが、動かせるのは右腕一本と、首が少しだけ。

 こんな私に、何ができる……⁉

 全身が、焦燥感に囚われる。悔し涙がにじむ……。

 無力だ……あまりにも無力だ……。

 こんな私に……

 いや、だめだ! 諦めるな! 金森は仕留められた! 私の怒りが、金森を殺した。

 ならば、あの女だって必ず止められる! 

 諦めるな! 諦めれば、皆が殺される。やるんだ!

 こんな非道が許されるはずがない! 怒れ! 人の命を何とも思わない犯罪者どもを、憎め!

 弱気になれば、力が湧かない。奴らを憎めば、気力は奮い立つ。気力があれば、身体も動く。動かしてみせる!

 私があの女と同類だというなら、事実を受入れよう。心の底まで卑劣な殺人者になってみせよう。狂気に身を委ねよう。それでみんなを救えるなら……私は……ケダモノにでもなってやる!

 それで救えるなら……

 右腕をベッドに突いて、下に押す。身体が、少し傾く。もっと! もっと力を! 多恵を救うんだ!

 だが、そこまでだった。

 がっくりと、ベッドに沈み込む。虚しく天井を見つめる。

 いや、もう一度だ。諦めるな! 身体が動くまで、何度でも、何度でも!

 今後は、腕を突っ張りながら、首を思い切り上へのばした。身体は、さっきより傾いていそうだ。このまま傾けていけば、ベッドから転がり落ちることができるかもしれない。ここから出られるなら、腕一本ででも這ってみせる。そして、人質たちに危機を警告する。

 警告?

 どうやって? 声も出せないのに、どうやって⁉

 だめだ! 弱気になるな! 私は、平気で人を殺せるアウトローなんだ! 人を傷つけることに快感を感じる化け物なんだ!

 怒りをかき立てろ! あの女を殺せ! 先のことなど考えるな! とにかく、この部屋から出るんだ! できなければ、皆が殺される!

 そしてもう一度腕に力を込めようとした時に、気づいた。

 右ヒザが、わずかに曲がっていた。

 ウソだろう……ほんの数センチだが、ヒザが動いている――

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