人質たちが見るテレビの画面には、札幌の北大病院でドクターヘリに乗り込む医師の姿が映されていた。

『――医師が乗り込もうとしています。これは犯人からの要求で、重度の脳梗塞で倒れたまま人質になっている警官の治療のためだと言われています。一方で犯人は、手製爆薬のデモンストレーションと称して交番勤務の警官を殺害しています。マスコミも注視する中で行われたこの蛮行は、世界中に配信され、各国から非難の対象となっています――』

 警官を爆破した中継映像は、人質たちの脳裏にも焼き付けられている。テレビ局各社は、二度とその凄惨な映像を放送しなかったが、植え付けられた恐怖は犯人たちに抵抗しようという気力を完全に奪っていた。

 だが、ユーチューブなどに勝手に配信された映像は増殖するばかりだというコメントが、放送には付け加えられていた。

 犯人を二人も行動不能に陥れた中島公子は、ベッドに腰掛けたまま頭を抱えた。

「あたしのせいだ……あたしがあんなこと、しなければ……」

 隣に座った老人が公子の肩にそっと手を置く。

「そんなことはない。あいつら、言ってることが嘘ばかりだ。あんたは正しい。あの警官はとっくに死んでいた。死んだ警官をもう一度殺して、警察を脅しているんだ。噓を隠すために平気で人を踏みにじれる奴らなんだ。次は脅しじゃすまない。逃げる時にはきっと私たちみんなを殺していく。負けちゃだめだ。生き残らなくちゃだめだ……」


          *


 女は仁科を病室に入れた。

 首をひねると、仁科の姿がかろうじて見える。

 床に転がされたままの金森の死体を見て、仁科がつぶやいた。

「また……徹底的にやったもんだな……」

「必要なら、もっとできたよ」

「自業自得ってヤツか。で、金とブツは見つかったのか?」

「新千歳空港のコインロッカー」女は、言いながら鍵を見せたようだ。「おっと、渡せないな。あなたたちは、ドクターヘリで空港へ。空港に韓国まで飛べるプライベートジェットを用意しておけと要求しな。韓国政府にも受入れを要請しろと命じるんだ。わたしはブツと金を回収して、韓国で合流する」

「空港って……わざわざ捕まりにいくようなもんじゃないか⁉」

「捕まえたりはできない。病院に残った人質の部屋に、爆薬を仕掛ける。追跡していると分かったら爆発させるって脅すんだ。人質も一人連れて行く。ダイナマイトを巻いて一緒に乗せればいい。どっちにしたって、空港を経由しないと韓国には逃げられないんだから」

「本物のダイナマイトは残り二つだ。ここにあったニトロの量じゃ、それで精一杯だった。あとはただの土のかたまりだけど」

「充分だよ。警官がぶっ飛んだのを見てるんだから、警察だって冒険はしない。一階の塩素ガスをできるだけ抜いて出入り口にフェイクの爆薬仕掛けておきな。目立つ場所に、ね」

 女はその狙いや手順を詳細に説明した。 

 聞き終えた仁科が、今までとはうってかわった弱々しい声を出す。

「今まで黙ってお前の言うことを聞いて来たが……状況は悪くなる一方だ。そんなことで本当に逃げられるのか?」

「それでも、言った通りに金もブツも手に入った。韓国だって、狙い以上に熱くなっているじゃないか。いったん始めたら、最後まで徹底的に突っ込まなきゃ道は開けないんだよ。あと一歩なんだ。それとも、今度こそ本当に死にたいの?」

 仁科の目には明らかな恐怖があった。まるで、殴られ続けた子犬だ。この女を心底恐れている。死ぬ寸前まで追いやられて従属させる、暴力によるマインドコントロールが完結しているのだ。

 他人の私から見れば、女が仁科を騙していることは明らかだ。金を握った女が、わざわざ韓国に逃れる必要などない。女の正体は警察も知らないはずだ。このまま消えれば、誰にも知られない。

 その罠に、仁科は気づいていない。いや、気づいていても認めようとしない。

 私は、たくさんの犯罪を見て来た。宗教を装った詐欺の被害者や、組員やホストに騙されて風俗に沈んだ女たちも見た。死の間際まで追いつめられてもDV男から逃れられない女も見た。

 この男も同じだ。頭が弱いのではない。心が弱いのだ。他者に奪われた心は、容易には取り戻せない。破壊された心に、理性は無力だ。

 女は声をひそめた。

「分かってるよね。人質は全員処分しないと、あなたたちは生き残れないんだからね」

 生き残れないのは、この女だ。人質の中に正体不明の女がいたことを警察が知れば、追われるのはこの女だ。

 仁科が、諦めをにじませてうめく。

「もちろん、分かってる……」

 女がさらに命令した。

「ほら、そこの死体をベッドの下に隠して。他の奴らには、絶対に金森が来たって悟らせるんじゃないよ。あなたと夏山以外は、私が全部始末しておくから」

 女は、全てを独り占めする気だ。

 焦燥感が全身にあふれた。金森さえ倒せれば、多恵は救われると思っていた。結果は、さらなる窮地に追い込んだだけだ。私が追い込んだのだ。

 この女を止めなければ……。

 だが、どうやって……?

 どうすれば止められる……?

 どう戦えばいいんだ……?

 なぜ……なぜ、私はこんなにも無力なんだ……

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