第7章・ラン アウェイ

 空が明るくなり始めた。

 ナースステーションの中で、夏山は警察を呼び出した。

「これから、我々が所有する武器のデモンストレーションを行う」

『君たちが爆発物を持っていることは、すでに分かっている。危険なことは避けていただきたい』

「昨夜、事故を起こしたダイナマイトがまだ大量に手元に残っている。そのことを間違いなく理解させるためだ」

『わかった……』滝川は、反論を続けようとはしなかった。犯人を刺激しないことを重視した、マニュアルに沿った対応だ。『で、人質はどうしている? 危害は加えていないだろうな?』

「無事だ。窓際に集めている。今、カーテンを開けさせるから確認しろ。テレビカメラで中継させるんだ」

 そして廊下の仁科へ合図を送る。

 合図を見た仁科は、ドアに向かって叫んだ。

「カーテンを開けろ。三〇秒間だけだ。全員、窓際に立って警察に顔を見せてやれ。お前たちの姿はテレビに中継させているから、ライブ映像で確認できる。喋ったり、妙な仕草を見せたら即座に制裁を加える。命令しても閉めなければ、サオリとかいう女を殺すからな」

 夏山は携帯に言った。

「確認できただろう?」

『ありがとう。何人か、こちらの情報より少ないのだが?』

「死んではいない」

『確認させてほしい』

「こちらの言葉を信じるんだな。ナース二人と人質二名は、佐伯刑事の治療に当っている。警官四名も無事だ。だが、警察が無謀な抵抗を試みれば、彼らは死ぬ」

 仁科は人質にカーテンを閉じるよう命じ、ナースステーションに戻った。携帯から漏れる通話は、夏山の横に立った仁科にもかすかに届いている。

『撃たれた警官は生きているのか?』

「今のところは、な」

『昨夜、腹を刺された医師を救出した。彼は、警官は銃で撃たれて死んだと言っていた』

 その件への返答は、打ち合わせてある。

「誤解だ。事故で銃が暴発したのは事実だが、警官はまだ生きている。看護婦が治療し、今は麻酔で眠っている」

『その警官――村上巡査だけは解放してもらえないだろうか。先月結婚したばかりなんだ。我々が充分な治療を行いたいのだが』

「できない。彼にはこれから活躍してもらう予定がある」

『どういうことだ?』

「待て。すぐに分かる」

『そうか……』その口調は、明らかに夏山の言い分を信じていない。『絶対に死なせないようにお願いする。君たちのためにも、だ。他にも、医師から重大な情報を得ているのだが……それはまだマスコミには公表していない』

「それがどうした?」

『昨日の要求が目くらましだということは分かっている。このような事件を起こすのが本意ではなかったことも、分かっている。金森がその階に侵入したことも、赤外線カメラで確認している。君たちは、本当は何をやっているんだ?』

 夏山の怯えたような視線が、仁科に向かう。想定はしていたが、金森の名までが明らかになっているのは最悪の展開だ。

 仁科は厳しい表情で首を横に振った。無視しろ、のサインだ。

 夏山は落ち着きを取り戻して小さくうなずいた。

「は? 何を言ってんだ?」

『人質を解放し、投降していただきたい。今なら、引き返す余地はある。人質さえ無事なら、何とかしよう。少なくとも、君たちの身の安全は保証する。全ての犯罪をなかったことにするのは難しいが、このまま進んで袋小路に入るより希望がある。だが、一人でも被害者が出れば状況は悪化する。それで終わりだ。君たちは日本中から敵視される。世界中から非難される。射殺を決断しなければならないこともあり得る。絶対に、その一線を越えるな――』                                 「何を言っているのか分からないな」夏山は苛立ちを隠せない。「要求はあくまでも、昨日言った通りだ。ヘイトスピーチの完全禁止と嫌韓サイトの解体。日王の謝罪と韓国への賠償。この要求への返答よこせ。今、この場で、だ」

『それは無理だ。我々は――』

 夏山は警察の言葉を遮った。

「言い訳は要らない。要求を検討する時間は充分に与えた」

『いや、警察だけでは判断できない。これは、日本政府が決断すべき問題だ。時間が足りない』

「その答えはつまり『検討には値しない――』ということか?」

『そうじゃない! 我々だけでは決められないと――』

 夏山は一方的に会話を遮った。

「では、デモンストレーションには役者を追加するしかない」それは、あらかじめ仁科から命じられた台詞だった。「我々も、このような非道な手段をとる気はなかった。しかし、人質たちの抵抗によって我々もそれなりの損害を受けた。これ以上の被害は阻止しなければならない。これは、人質たちの反抗に対する我々の答えである。人質の命をないがしろにする日本政府への答えである」

『待て! 何をする気だ⁉ 無茶はよせ! 我々は君たちを――』

 通話を切った夏山は、屋外階段の扉に向かった。扉の前には、拘束衣を着せられた警官の死体が転がされていた。

 青くなった顔にはナースのロッカーから持ち出したファンデーションが厚く塗られ、遠目からは死体だとは判別しにくい。出血の跡は拘束衣で覆い隠されている。その拘束衣の首元から、発火装置を付けたダイナマイトが押し込まれていた。爆発すれば、最初のコンマ数秒はその圧力が拘束衣に封じられ、柔らかい人体に集中する。死体がどれだけ損傷するかは予測もできない。発火装置には、小さく『1』と書かれた紙がセロテープで貼り付けてあった。

 夏山は、屋外階段へのドアを開けてロープの端を手摺に縛り付けた。仁科とともに死体を担いで手摺の外に落とす。

 警官の死体がぶら下がったが、見た目では麻酔薬で意識を失っていた巽の時と区別はできない。仁科が病棟に姿を消すと、夏山は手摺の近くに進み、わざとらしい手つきでサングラスとマスクを外した。そして、携帯を出す。

「見えてるよな。俺の顔も、はっきり見えてるよな。きっちり電波に乗せろ。世界中に放送しろ」

『何をする気だ⁉ 村上巡査か⁉ 無事なのか⁉』

「我々が本気だと分からせる。警官は、麻酔で眠ってるだけだ。命に別状はない。だが、拘束衣の中にダイナマイトを仕込んである。手製のダイナマイトだ。不安定で、実際に昨日は爆発事故を起こした。発火装置も手製だから、完全に作動する保証はない。爆発するかもしれないし、不発かもしれない。俺が戻ったら、無線で点火する。実験だ。失敗することを祈れ。それを踏まえて、もう一度同じ質問を繰り返す。よく考えて答えろ。我々の要求を、呑むのか?」

『やめろ! そんなことをしたら、要求どころではない。テロリストとして対処する他なくなる! 我々を追い込まないでくれ!』

「この警官は日本人だ。我々在日韓国人を苦しめ続けた日本人だ。話し合いの余地はない。要求を呑むのか⁉」

『無理だ! 馬鹿なことは止めるんだ!』

「テロリストとは取引しない……ってことか?」

『頼む! 無茶な要求はしないでほしい! 人質を傷つけるな!』

 夏山はわずかな沈黙の後に、応えた。

「回答はもらった。我々も、回答を出そう」

 夏山は通話を切って、病棟に戻った。ドアを閉じて鍵を降ろす。

 仁科に向かって言う。

「要求拒否、だってよ」

 うなずいた仁科はカウンターに置いたテレビの画面を凝視していた。そこには警察を脅す夏山の表情がアップで映っていた。今は、宙吊りになった死体が画面を占めている。

 仁科はテレビを見つめたまま、高木に命じた。

「やれ」

 高木の指先は小さく震えている。

「本当に、いいの……?」

「どうせ死体だ。これで奴らは、言いなりになる」それでも高木は動かない。「やれって! お前も死体になりたいのか?」

 ひっと小さく息を呑んだ高木はPHSを取り出して、「1」の短縮ナンバーをコールした。わずかな間を置いて、鉄のドアの外で轟音が鳴り響く。

 病棟が細かく揺れた。

 テレビ画面の中に、黒煙と炎が膨れ上がる。わずかに遅れて、血しぶきが舞うのがはっきりと映し出された。その瞬間、画面が切り替わって女性アナウンサーの悲壮な声が叫ぶ。

『何ということでしょう! たった今、宙吊りにされた警官に取り付けられた爆発物が爆発しました!』

 それ以降、場面は爆発現場を写そうとはしなかった。

 手製ダイナマイトの破壊力は、彼らの予想をはるかに超えていた。

 爆発の残響が収まると、テレビを見ていた夏山が感心したように言った。

「ホントにダイナマイトじゃないか。おまえ……魔法が使えたんだな……」

 仁科がうなずく。

「化学だよ。役に立つだろう? ほれ、次の要求を出せ」

 にやりと笑った夏山が、再び携帯を出す。

「今のダイナマイトがまだ何本も残っている。昼十二時に、また同じ質問をする。次はどの警官をぶら下げるか、お前たちが決めろ」

 滝川の返事からは押し殺した怒りがにじみ出ていた。

『もう逃れられないぞ……テロリストをかばう国は、どこにもない……卑劣な殺人者なら、なおさらだ……』

 夏山の口調は事務的だ。

「追加の要求だ。こちらには脳外科医がいなくなった。札幌から、最も優秀な脳外科医を連れて来い。ドクターヘリを使って、一時間以内に屋上のヘリポートに着陸させろ。あんたらのお仲間の治療のためだ。感謝するんだな」

 そして夏山は通話を切った。

 高木が仁科を見上げる。

「でも、いいの? こんなことまでして……警察は、全部ウラを知ってるみたいなのに……?」

 仁科はうなずいた。高木を諭すように、改めて意図を説明する。

「知ってるさ。逃げた医者がみんな話している。だが、知っているのは日本の警察だ。韓国政府は、まだ知らない。知ったところで、熱狂している国民はそんな説明では納得しない。奴らに理屈は通用しない。北朝鮮寄りの大統領に熱狂している国だぞ。日韓基本条約も否定して、戦時徴用の賠償請求を始めた。そのくせアメリカと中国の間をあっちにうろうろ、こっちにうろうろだ。経済はガタガタで若い者には就職口もない。スワップが欲しくてたまらないのに日本に頭を下げれば国民が猛反発する。政府に洗脳された国民がモンスター化して、逆に政府を喰い尽くす。今の韓国は完全に詰んでるんだ」夏山を見る。「だからこいつの素性を明かした。本物の在日なんだから、使わない手はない。ネットの書き込みを見てみろ。韓国国民は、夏山の〝蜂起〟に狂喜している。俺たちは、必ず〝英雄〟として迎えられる」

 高木が必死の形相で訴える。

「そんなことどうだっていい! 僕には関係ない! たとえその通りだとしたって、日本の警察から情報が行くでしょうが⁉」

 だが、仁科は意に介さない。

「もちろん、行く。そして、俺たちが薄汚い犯罪者だと思い知る。だが、それを認めれば、韓国の国民からバッシングを受ける。今の熱狂に冷や水をぶっかけてみろ。大爆発だよ。デモ隊は一瞬で反日から反政府に変わる。韓国政府は一瞬で吹き飛ぶ。嘘と知っていようが、国際社会から非難されようが、国民に取り入るためには俺たちを受入れるしかない。『日本政府が韓国国民を騙そうとしている』と言わざるをえない。だから俺たちは、その噓をつき通す。これ以上、事実が漏れないように穴を塞ぐ。徹底的に塞いでみせる」

「それでも、人殺しだと思われたら……」

「気にしないさ。あいつらは、日本人が辛い目にあえばそれだけで満足できる。日本人を殺す者は、全て英雄なんだ」

 高木は、諦めたように肩を落とした。

「僕……韓国なんか行きたくないし……」

「行ける場所は、他にない」

「だってあの警官、事故で死んだんじゃないか……ちゃんと話せば、日本にいられるかもしれないって、警察も言ってたのに……ダイナマイトで吹き飛ばさなくたって……」

「吹き飛ばしたのは、撃たれたのが原因で死んだ証拠を消すためだ。最初から政治的な意図での立てこもりだったと思わせるためにな。しかも、警官を吹き飛ばせば韓国はさらに加熱する。あいつら、血を見るのが好きだからな」

「韓国行ったって捕まるよ! テレビカメラの前で人間を爆発させてんだから!」

「とは限らないんだ。韓国は、日本の総理大臣を暗殺したテロリストが英雄になる国だ。戦って警官を殺したなら、むしろ英雄視されるかもしれないぜ」

「そんな……でもナースとか人質とか、警官が撃たれて死んだことを知ってるし……」

「だから、危険は排除する」

 高木の困惑が恐怖に変わる。

「それって……まさか……」

「人質は、俺たちの正体を知っている。知りすぎている。生きて解放されてはならない、ってことだ。誰一人、な」仁科は冷たい笑いを浮かべた。「こんな非常時には、思わぬ事故が起きるもんだろう?」


          *


 壁の向こうで爆発音が轟いた。

 同時に女が、床に腹這いにさせられた金森の右手の小指を切り落とした。ガムテープで口を塞がれた金森がうめき声を漏らす。これで、二本目の指だ。アキレス腱は両足ともすでに切断され、金森は逃げることもできない。

 立つ力さえ奪われた金森は、さんざん蹴り付けられ、顔中アザだらけになっている。さっきは、血まみれの口から折れた歯を二本吐き出していた。

 床でのたうつ金森の背中を踏みつけた女のスニーカーは、血に染まっている。

 女が冷たく詰問した。その声は、高く澄んで、可愛らしい。

「あんたが黒幕なんだよね。金はどこ? ブツはどこ?」

 そして金森の髪を引っ張ると、ナイフを持った手で口のガムテープをわずかにはがす。

 私は、首を横にしてその光景を見つめることしかできない。

「俺は命令されただけだ……」金森が、ガムテープの隙間からうめく。「ボスは誰だか知らない」

 嘘だ。私は噓だと知っている。

「指ってさ、一〇本しかないんだよね」女はガムテープを張り直して髪を離すと、脚をどけて次の指にナイフを当てる。そのナイフの背を、軽く踏む。「残ってるのは、もう八本だけだけど。まだ八本もあるって考える? それとも、もう八本しかないって考える? どっちにしても、一〇分後にはゼロになるよ。早くしゃべっちゃいなよ」

 金森は許せない。できるものなら私のこの手で殺したいと、本気で願っていた。

 だが、なぜかその気持ちはもう消えていた。

 このまま拷問を続けさせることはできない。私は、背中に隠していたiPodを取ると、毛布の脇からを持ち上げた。

 女は私の緩慢な動きを察して鋭く振り返ると、ヒョウのように身構えた。血に染まったナイフが鈍く光る。

「何⁉」

 私はアイコンを操作して、録音機能を呼び出した。過去の録音データが、一つだけ表示される。再生して、音量を上げた。

『あんたの情報はずっと追っていた。動けない、しゃべれない……なのに、こんな脅しをかけてくるとはな――』

 金森が私を殺そうとVIPルームに侵入して来た時の録音だ。毛布越しの録音で、声は小さくくぐもっている。それでも、金森の声だと分かる。

 女にも分かったようだ。

「こいつの声? ……あ、あんた、それしか動けないんだよね。イエスなら、瞬きして」

 言われた通り、瞬きを返す。

「じゃ、聞いてみようか」

 再生が、肝心なところにさしかかった。

『――組織だって俺一人で作ったんだから、一人で逃げ切ってみせるさ。あんたが黒幕になってくれてりゃ、金とブツを全部かっさらって楽に逃げられたんだがね……』 

 これが、金森への制裁だ……。私の怒りが行き着いた場所だ……。

 望み通り、金森を殺すことができるのだ……。

 虚しい……。

 虚しく、そして恐ろしい……。

 私は、この女と同じだ……。

 それなら、この女は私と同じなのか……?

 女は軽やかに笑った。

「おっちゃん、ありがとう。わざわざ教えてくれて。あんたのベッドに仕掛けた盗聴器を聞いてれば、それ、生で聞けたってことだよね……。うっかりしてた。ずっと仁科のマイクの方に周波数を合わせてたからさ。あいつらの手綱を放すわけにいかなかったんでね」

 ベッドに盗聴器だと……。だから犯人グループは、多恵が警察に疑われていることを知っていたんだ……。気づくべきだった。この女が盗聴を続けていれば、インターネットのラジオを使ったこともバレていただろう。私は、とっくに殺されていたはずだ。

 運が私たちに味方してくれたようだ……。

 そして女は、金森の耳元に囁いた。

「あんた、全部一人でやったんだってね……。ちょっと、気が変わった。金の隠し場所、しゃべらなかったら、殺さないよ。両手両足、目、舌……残らず切り落として、生かしたまま警察の前に転がしてやる。日本の医療は高度だから、きっと生かし続けてくれるよね。この街には設備が整った大病院が他にもあるんだから。しわくちゃになって老衰で死ぬまで、芋虫みたいな姿のまんま。あ、ペニスは残しておこうか。使い道はないけど、それぐらいの楽しみはないとね。一人じゃ動けないし、食事もできない。大便も垂れ流し。犯罪者だから、みんなが蔑む。元警官なんて、刑務所じゃ一番いびられるクズだし。死ぬまで、汚物扱い。罵る言葉をずっと聞き続ける――それでも生きていたいなら、黙ってな」

 そして女は、金森のガムテープを一気にはがした。

「靴下の中に……鍵がある……」金森は言った。涙を流している。「コインロッカーだ……千歳空港の――」

「ありがとう」女は手のナイフを持ち替え、金森の背中から脊髄に差し込んだ。「これで、隠した金も浮かばれるよ」

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