金森は、屋上の手摺に張ったロープにぶら下がって北側ベランダに降りた。唯一、使われている西端の部屋の前に立つ。警備室のモニターで、この病室に佐伯のベッドが収容されるのを見ていたのだ。

 犯人たちが他の病室に薬瓶を投げ込む姿も、廊下のモニターで確認していた。麻酔薬のような薬品をばらまいたようだ。うかつに踏み込めば、たぶん意識を失う。あれからベッドが動かされていなければ、この部屋に同じ罠はないはずだ。

 犯人グループの配置も分かっている。

 ナースステーションの中には仁科と高木がいた。二人で携帯電話に細かい加工を加えている。その横には、空き缶を加工したようなものがいくつか置かれていた。

 仁科は化学者だ。姿を消していた間に、おそらく爆発物を作ったのだろう。だとすれば、携帯を起爆装置にしようとしている。ずらりと並んだパソコンの監視カメラ画面には、時おり視線を向けるだけだった。

 夏山とその部下は、南北それぞれの廊下を見張っている。残り二人は負傷して動けない。

 つまり、佐伯の部屋には犯人グループはいない。麻酔薬のトラップは念のために仕掛けただけで、これ以上襲われる危険はないと警戒を緩めているようだった。

 この配置がしばらく変わらないことに賭けて、金森は行動を開始したのだった。

 耳には、スマホのイヤフォンを付けていた。ニュースの実況で、ベランダから炎が上がったことが分かる。屋上からベランダに降ろした〝時限爆弾〟が弾けたのだ。

 燃料は、病室の入り口に置かれている消毒用アルコールが三本。それをサージカルテープで束ねて、時限装置として火がついたタバコを貼り付けた。屋上の壁に身を隠しながら作業ができる上に、タバコの火は小さい。警察が監視していても、見逃す可能性は高かった。仮に発見していたとしても、大きな影響はない。

 医師が逃げた時点で、警察は金森が病院に侵入したことを知っている。まだ報道はされていないが、政治テロが偽装だということも見抜いている。だからといって、人質の命が危険なことに変わりはない。むしろ、犯罪者が相手なら危険が増す可能性もある。

 金森が何かを始めたと分かっていても、静観する他はない。人質を取られている以上、手の出しようがないのだ。

 発火のタイミングは予想より遅かったが、その分、充分な準備ができていた。ドライバーでドアのガラスを割り、ロックを外す。そっと、病室に踏み込む。

 部屋の照明は暗かった。患者の視覚を休ませるための配慮だろう。中にはベッドが一つ。壁側に点滴や医療機器が集められ、そこから延びたチューブが寝かされた佐伯につながっている。プラスティックの酸素マスクも鼻に差し込まれたチューブも、外されていない。

 ナースたちが慌てて機器をセッティングしたのか、ベッドは乱れていた。反対側の手摺が降ろされ、だらしなくかけられた毛布がずれて、裾がだらりと垂れ下がっている。

 佐伯は首をわずかに傾げ、目を見開いていた。

 金森を睨んでいるのだ。薄暗い部屋の中でさえ、金森に叩き付けた怒りははっきりと見て取れた。

 だが、動かない。やはり、動けない。

 金森は哀れむように、にやりと笑った。

「惨めだな……そこまで俺を憎んでも、何もできないとは。今さらあんたが死んでも、大した意味はないんだがね……。俺が黒幕だって、とっくにバレてるしな。でも、ここまで来たんだ、けじめはつける」陣内の血が付いたままのナイフを拡げて、佐伯ににじり寄る。「あんたのおかげで、とんでもない苦労をさせられた。無駄な罪も重ねた。責任は取ってもらう。今度こそ、サヨナラだ」 

 と、ナイフを掲げた金森の口から、唐突に悲鳴が漏れる。

「いっ!」身体がぐらりと揺れ、姿勢を立て直すこともできずに床に倒れ込む。

 金森自身、何が起こったのか理解できなかった。が、足首に強烈な痛みが走り抜けていた。身をよじって足首に触れると、ぬらぬらと濡れている。床に血が広がっていた。

「何だよ、これ……」

 ベッドの下に気づいた。垂れ下がった毛布の陰で、大きなナイフが光っている。毛布をまくり上げて、その下から人影がゆっくりと現れた。

 本当の罠は、ここに仕掛けられていたのだ。

 立ち上がった華奢な人影が、金森を見下ろして言った。

「アキレス腱を切った」人影は、サオリだった。「ここにはしばらく誰も来ない。わたしが命じたから。あんた、どこかでわたしたちが仕掛けた罠を見てたんだろう? 塩素ガスも病室の麻酔も、全部フェイク。お前をここに誘い込むためだったんだよ。さあ、金とブツの在処を話してもらおうか? 話すまで、切り刻むよ」


          *


 ドアが開いた気配があった。

「奴が来たのか⁉」

 押し殺した声。仁科だ。

 小さな声で応えたのは、女だ。子供のような、若々しい声。

「こっちは任せろ。もう逆らえない。これからしゃべらせる。お前は何事もなかったように振る舞え。夏山には、気づかせるな」

 女が、仁科に命令している。多恵が友達になったと言っていた女のようだ。人質の中に身を潜めていたのだ。

 組織をコントロールしていたのは仁科ではなく、この女だったのか……。

 金森に向けてかき立てていた怒りが、一瞬で冷めた。

 この女……いったい、何者なんだ……⁉

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