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金森は、MRI室を出てからすぐに警備室に舞い戻っていた。身を潜めながら犯人たちの動きを逐一追っていたが、事態が収束するまでこの部屋を出ようとは考えていなかった。
今の課題は、どうやって病院を脱出するかだけだ。
方法は、人質が救出される際にやってくる救急隊員にまぎれ込むことしかない。どんなに時間がかかろうと、篭城はいずれ終わる。犯人が逃げようが、警官の突入で捕らえられようが、人質は解放される。待ち続ければ脱出できる道が開けるはずだった。
だが、ワンセグで確認している状況は、悪化していくばかりだ。
人質の近くで爆発があったことで、深夜にも関わらず緊張状態が高まっている。今もこの病院は世界中の耳目を集め続け、テレビ放送も中断することがない。警察の監視は厳しくなる一方で、犯行もエスカレートしている。いよいよ、逃げられるルートが狭められていく。
内部では、別の事態が進行していた。自分が追い立てられていることは分かっている。周囲を覆う刺激臭は濃くなる一方だ。
塩素ガスだ。
充分に広い空間だから、死にはしない。それでも、朝まで耐えるのは苦しい。のどと目の痛みは、強くなるばかりだ。大病院だから、酸素ボンベはさまざまな場所に置いてある。身を隠すだけなら、できない訳ではない。
だが、金森はもう一つのシナリオに思い当たっていた。
このままで何もしないでいれば、犯人グループが人質全員を殺しかねないのだ。
今、世界は、彼らが政治的な主張を持ったテロリストだと解釈している。それならば、彼らに賛同する協力者や国家が現れてもおかしくはない。現に韓国ではネットを中心に、犯人グループを英雄に祭り上げる動きが加熱している。交渉で韓国に逃亡する道が開けれれば、国家の庇護を受けられることさえ望める。
金森から見ても鮮やかな一手だ。
だがそれは、政治犯だと認められなければ成立しない。現実は、卑劣な犯罪者でしかないのだ。病院から逃げた医者は、それを知っている。当然、日本の警察も知っている。だが、韓国にその情報が届けられたとしても、民衆の熱狂は容易には醒めないだろう。
状態が今のままなら、彼らの狙いはおそらく図に当る。今のまま、なら――。
しかし、逃亡後に大量の人質が解放されれば、彼らは政治犯ではないという証言がマスコミに溢れる。人質には警察署長たちも含まれている。捜査関係者の証言を含めて分析すれば、政治的主張が偽装であることがあぶり出される。そしてすぐさま、全世界にその事実が報道される。命綱である政治犯の〝肩書き〟が消えれば、彼らをかばう国はなくなる。彼らが逃げ込める場所が消える。
人質を解放することは、その危険を冒すのと同じだ。
彼らは犯罪者だ。自分が助かるためなら、他人の命に関心は払わない。金森は、自分が犯人なら不都合な事実を知った人質は脱出の際に殺す――と考えた。彼らが同じように判断すれば、ためらわず実行する。
金森にとっては逆に、人質の解放こそが唯一生き残れる道だ。
人質は生きていなければならない。明らかに殺されたと分かれば、大規模な医師団や救急隊員がなだれ込むことはない。唯一の脱出チャンスである〝人質解放の混乱〟が消滅しかねない。
立てこもり犯は人質を殺さなければ逃げ場を失う。
金森は人質が解放されなければ逃げ道を失う。
彼らの利益は、真っ向から対立していたのだ。
金森が生き残るためには、人質を救出しなくてはならない。人質が殺される前に、犯人全員を殺さなければならないのだ。
一度は最上階まで侵入できた。侵入ルートは分かっている。しかも犯人たちは、限られた人数で人質を制圧している。廊下の監視カメラ映像から、犯人グループの配置も把握できている。人質たちが南側に集められ、北側の病室が一カ所しか使われていないことも分かっている。しかも犯人側にも、なぜか負傷者が多い。
隙はあるのだ。そこをこじ開けて、倒す。
危険は大きい。命がけの綱渡りだ。
金森はニヤリと笑って、一人つぶやいた。
「上等だ。ゾクゾクするぜ」
金森はこの病院に入った時から――いや、麻薬の密造を始めた時から、退屈な日常をぶち壊して命を賭けた勝負に出る覚悟を固めている。
*
かすかな物音がした。廊下が騒がしい。
金森か⁉
瞬間的に意識がはっきりした。
仁科から、塩素ガスを使った罠を仕掛けたことは聞かされている。別の部屋に誘い込んで、麻酔薬で眠らせると言っていたが……。
ネットラジオを付ける。
『――に、動きがありました。爆発があった最上階のVIPルームのベランダから、またしても炎が上がっています。爆発から数時間が過ぎていますが、今になって何かに延焼したのでしょうか。病院を取り囲む捜査員たちの動きも、慌ただしく――あ、再び巨大な炎が吹き上がりました。何が起きたのでしょうか! 人質は無事なのでしょうか⁉――』
これは実況中継か? たった今、ベランダから炎が上がったということか? なぜ? また、人質たちの抵抗なのか? 犯人たちから危害を加えられたのか?
いや、奴らは金森への対策で手一杯のはずなのだが……。
違う! 金森の陽動だ! あいつが動き始めたんだ!
ヤツが南側に注意を引きつけたのだ。異変が起これば警察の監視もそちらに厚くなる。その隙を突くなら――金森が来るのは北側だ! こちら側のベランダだ!
陽動に出るのは、罠を警戒しているからだ。警戒しながらも行動に踏み切ったのは、確かな情報を得たからだ。さっきも金森は、私がMRI室に入ったタイミングを逃さずに突いてきた。私の動きを把握していなければできないことだ。
だとすれば、この階の布陣を知っていて当然だ。方法は分からないが、金森は充分な情報を手に入れている!
普通に考えれば、侵入には無人の部屋を選ぶ。だが、罠を警戒しているなら、逆に無人の部屋は疑われる。実際、仁科たちはそこに麻酔を仕掛けた。北側の部屋で人がいるのは、ここだけだ。
金森が情報を持ち、犯人の裏をかこうとするなら――ヤツはこの部屋に来る!
その瞬間、ガラスが破れる小さな音がした。
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