しばらく備品庫で何かを探しまわっていた仁科がナースステーションに戻った。

「空調、コントロールできるか?」仁科は高木に尋ねた。「全部の部屋の酸素バルブも止めたい」

 高木は、医療用のペンチを器用に使って発火装置を作っていた。テーブル一面に、壊された懐中電灯やPHSが散らばっている。その手を止めてうなずくと、MACのキーボードを操作して空調の図面を表示する。ダクトを指でたどりながらつぶやく。

「あぁ、できそうだね。それぞれの階が独立している。で、吸気も排気も最終的に屋上に集まっていて……あ、ここにフィルターが着いてるね……。なんでこんなにややこしい空調にしたんだろう……?」

「パンデミック対策だろう」

「あ、エボラみたいなやつか。で、何がしたいの?」

「一階から上に向かって、順番にガスを入れていく」

「ガスって、そんなものどこに……あ、あの塩素ガス?」

「掃除のババアに感謝、だ」

「設計図によると、フィルターは光触媒だけど……これって、塩素ガスにも効果があるのかな?」

「有機化合物なら分解するだろう。念のために光源の電源を切りたい。できるか?」

「メンテナンスモードにすれば簡単。その上で吸気ファンにガスの発生源を入れれば、狙った階だけ汚染できるね。シャッター類は全部閉めてあるから、中にガスが充満する」

「塩素ガスは下に溜まる。たかが洗剤じゃ死ぬほどの濃さにはほど遠いが、刺激臭を感じればじっとはしていられない。一フロアにガスを行き渡らせるのにどれぐらいかかる?」

「どうだろう……正確に計算しないと割り出せないけど、何しろでかい病院だから……この換気モーターの出力から考えたら三〇分ぐらいかな……」

「全館がガスまみれになれば、金森は上がって来るだろう」

「酸素ボンベも結構いろんなところに置いてあるけど?」

「ロックできる部屋は全部封鎖してあるよな」

「言われた通り、逃げ込める場所は極力減らしたけど」

「逃げ場は少ないし、あのガスは目にも来る。ベランダに出て壁に隠れても、コンクリートは薄いからサツに気づかれる。赤外線カメラを使ってるだろうからな。この階に上がってくる可能性は高い。階段は屋上まで上がれるようにしておけ。一度は窓から侵入したヤツだから、たぶんまた窓から来る。爆破された南側はサツの監視が厳重だろうから、避けるだろう。北側の部屋の暖房機にセボフレンをぶちまけておく。気化させて使う麻酔薬だ。無臭だから、気づけない。部屋に踏み込んだら、動きが鈍る。そこを抑える」

「確実じゃない予測ばかりだね……」

「狩り出せる人数がないんだ、仕方ない。できれば生け捕りにして、金の在処をしゃべらせたい。だが金森を逃がしても、塩素ガスはサツの突入を遅らせる役に立つ。ここは俺が見ている。備品庫に業務用の濃縮洗剤がごっそりあるのは確かめた。塩素系カビ取り剤の原液に粉末の除菌クリーナーを混ぜる。沸騰したように塩素ガスを出すはずだ。ファンの中にぶち込めばしばらくはガスを発生させる。やってくれ」

「えぇ、僕が? 屋上に出ろって? 一人で? SATに狙撃されちゃうよ!」

「人質がいるんだから、手は出せない。できるヤツはお前しかいないんだ。図面を読んで下の階から順に仕掛けていかなきゃならない。間違ったら金森を追い出す効果が薄くなる。夏山の頭でそんな込み入った作業ができるか? できなければ、逃げられない。サオリを連れて行け」

 高木の顔にわずかな笑みが浮かぶ。

「え? 何であの子を……?」

「案外器用だから、役に立つ。災害備品庫に酸素ボンベとガスマスクもあった 消防が使うようなヤツだ。ガスにやられるとまずいから、かぶって行け」


          *


 少し眠ってから、iPodで時間を確かめた。三〇分ほどしか過ぎていない。

 度重なった疲労と緊張がせめぎ合い、熟睡もできないのだ。

 多恵のことは心配だ。

 だが金森の登場で、私と犯人たちの対立関係は大きく変わった。今は、金森を捕らえることが互いの利益だ。

 多恵もそれが分かっている。危害を加えられることはないだろう。

 私は、わずかに眠っては意識を取り戻し、その度にiPodを見た。ずいぶん長い時間、小康状態が続いている。

 午前五時半。もうすぐ、夜明けだ。

 明るくなれば、事態が動く――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る