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最上階に戻った仁科は、肩から大きなドラムバッグを下げ、ガラス瓶が大量に乗ったカートを押していた。ぶつかり合う瓶がガチャガチャと鳴る。
シャッターが開いて奥の惨状を見たとたん、仁科は溜息を漏らした。
「考えていた以上の被害だな。……これを、本当に清掃員がやったのか?」
デイコーナーには破壊されたドアや備品が散らばり、廊下の端にも使いかけの消火器が何本も転がっていた。塩素の臭気はまだ周囲に立ちこめている。
夏山たちはナースステーションに集まった。重傷を負った二人は警官の隣の病室で彩花の治療を受けている。佐伯は北側の病室に移され、美緒と多恵が看護していた。
カウンターに置かれた小型テレビでは、深夜にも関わらず病院の中継画面が放送されていた。闇に包まれた森を背景にしてこの病院が煌々とライトアップされ、彼らが立てこもっている最上階の西側だけがカーテンを引いて暗くなっている。警官隊の突入を警戒して、全ての照明を点灯しているためだ。ライトアップも警察に指示したものだ。
画面は時々切り替えられ、海外の反応なども各地から中継されている。繰り返し挟まれるのはVIPルームの爆発や昼間の患者移送風景だ。各テレビ局の通常番組はおおむね中止され、緊急に集められたコメンテーターやタレントが特別番組で持論を展開していた。
在日韓国人の政治テロを装ったことが、日本が抱える政治と歴史の暗部に火を放ったのだ。炎は瞬く間に広がってタブーとされてきた事柄を照らし出し、東アジアはもとより全世界に延焼し始めている。ただでさえ日本周辺の政情は、中国や北朝鮮の横暴によって不安定さを増している。そこに各国のナショナリズムを煽る事件がわずかな圧力を加えれば、政治や軍事のバランスが一気に崩れる恐れさえ孕んでいた。
だが、俎上に載せられている仁科たちの関心は、そこにはない。金を奪い、安全に脱出することが全てなのだ。
夏山が、多恵たちから聞き出した〝反乱〟の経過を仁科に説明した。だが多恵は、着火にiPodを使ったことだけは隠していた。iPodは多恵の背中にサージカルテープで貼り付けてある。
「たかが洗剤にボコられてんのかよ」聞き終わった仁科は、うめいた。「お前の手下が馬鹿な真似をしたから、怯えて噛み付いてきたってことだろうが。黙って見張ってりゃあ済んだものを……こっちにも重傷者が二人って言うのは、シャレにならない」
「人質を何人か絞めるか?」
「時間の無駄だし、意味がない。向こうが勝手に閉じこもってるんだ。放っておけば、これ以上邪魔はしないだろう。ただ、警察とは連絡が取れないよう、しっかり監視しておけ。で、怪我した奴らは、まだ役に立つのか?」
「もう、ただの足手まといだ」
「参ったな……死ぬのか?」
「一人は危ないかもしれないんだと。ナースに看させている。何か、道具とか薬品が必要だって言ってるんだが」
「どんな道具だ?」
「じょさい何とかとか、喉の中を見る機械とか。ガスで目と気管がやられたらしい。もう一人は骨折がひどくて呼吸が弱い。骨折の応急処置は終わってる……ってか、ここじゃこれ以上手当しようがないとさ」
「道具は渡してないのか?」
「そこの備品庫にあるようだが、まだ入らせていない。何を持ち出すか分からないからな。妙な薬を持っていかれても、俺じゃ分からない」
「もたもたしてると、お前の手下が本当に死ぬぞ」
「ナースも、他の病院で手当てさせろって言ってる。だが、そりゃ無理だ」
「だな。ここで治療する。死んだら、その時のことだ」仁科は苛立ちを隠さない。「道具は渡そう。下の階まで行かせるのはまずいが、そこなら俺が見張る。ナースを一人、連れて来い」うんざりしたような溜息をもらす。「それにしても……どこまで間抜けなんだか……」
夏山が、仁科の言葉の刺に過敏に反応した。いきなり苛立ちを剥き出す。
「俺の責任だって言うのか⁉ お前こそ、何をもたもたやってたんだ⁉ お互い様だろうが!」
仁科は落ち着いている。ドラムバッグをナースステーションのカウンターに置くと、中から缶コーヒーを取り出す。空き缶を加工したようで、上部がガムテープで封をされていた。
「武器が要るって言ったろう? ダイナマイトだ」
夏山が思わず身を引く。
「は? ダイナマイトって……?」
「知らないのか? 爆弾、だ」
「そりゃ知ってるが……だから……そんなもん、どこから?」
「作ったんだよ」仁科は平然と言い放った。「材料は、医療用のニトログリセリン。狭心症の薬だ。こんな大病院なら、ごっそり備蓄してる。普通は踏んでも燃やしても爆発なんかしない。しないように添加剤を加えている。だが、アメリカあたりじゃ医薬品のニトロも兵器扱いで、敵対国には輸出を禁止している。性質を知ってりゃ、ニトロだけ分離できるのさ。だからそこらの機材を集めてラボを作って、抽出したニトロを壁土の珪藻土に染み込ませた。缶に詰め込んで密封すれば、安定したダイナマイトの出来上がりだ」
「おまえ……そんなこともできるのか……?」
「化学者だからな。やり方を知ってる分、ミンタブを合成するより簡単だ。だが、ちょっと手元が狂えば大爆発だ。そうはならずに済んだ」
と、傍らで会話を聞いていたスタジャンが、隠してた銃を仁科に向けた。
「俺は嫌だ! ダイナマイトだと⁉ お前ら、何をやる気か知らないけど、これ以上巻き込まれるのは嫌だ!」
夏山が身を引く。
「お前、そんな銃、どこから……?」
だが、仁科は動じない。鼻先で笑う。
「嫌だよな。俺だって嫌だ。さっさと片付けて消えるつもりだったんだからな。だが、こんなことになっちまった。今や世界中が俺たちに注目している。後戻りはできない。嫌だろうが何だろうが、あたり一面サツだらけだぞ。高木の話じゃ、かなりの数の自衛隊まで来てる。市街戦の訓練を積んだ、本物の対テロ部隊だ。お前一人でどう逃げる? 病院を出たとたんに蜂の巣にされるぞ。軍隊相手に、そのリボルバーで戦うってか? 金森から奪ったんだろう? よこせよ」
銃を向けたまま、スタジャンは小刻みに震えていた。そのまま一分が過ぎる――。
と、スタジャンはがっくりと肩を落としてカウンターに銃を置いた。
「何でこんなことに……」
その場の緊張が解けた。
「ひどいよな……」仁科は他人事のように言った。「それより、金森は佐伯に何をした? 銃で脅して、何かしゃべらせようとしたのか?」
スタジャンが、目をそらしたままつぶやく。
「いきなり後ろから殴られたから、倒れてぼんやり見てただけだが……問答無用で殺そうとしてたみたいだ。脅迫とかそんなんじゃねえ。質問もなしだ。まるで組の出入りだ。そしたら機械がすげえ音で動きだして、ヤツがぶっ放したんだ」
仁科がうなずく。
「やっぱりな。佐伯のメールのせいだ……。金森は、本当に俺たちを皆殺しにする気だ……」
「とにかく、あいつは銃を捨てて逃げていった。医者を刺して、もう一人のヤツが刺された医者を外に連れてって……ってか、それより、俺の傷を看護婦に手当てさせてくれ……」
頭の傷は、夏山がガーゼをテープで留めただけだった。出血は止まっているが、痛みはまだひどい。
仁科は投げやりに応える。
「順番待ちだ。病院なんだから、当たり前だろう?」言いながら、カウンターの下に集めてあったPHSを調べる。全部で一〇台ほどあった。高木に言う。「お前、電子装置はいじれるか?」
彼らを怯えた表情で見つめていた高木が言った。
「え、僕? 大体の理屈は分かってるけど……どんなもの?」
「そこらの部品を集めて起爆装置を作れ」PHSをかざす。「こいつにコールが入ったら、熱線を加熱する装置だ。懐中電灯の豆電球を割って、フィラメントに電気を通せればいい。できるか?」
「それぐらいなら。でも、ダイナマイトを爆発させるなら、着火用の火薬も少し必要だと思う」
「その銃の弾丸をバラせ。五個ぐらいは作れるだろう」そして夏山に命じる。「お前たちは、人質をしっかり抑えておけ。人質の部屋は、こっち側からもドアを縛れ。夜が明けたら、警察相手にダイナマイトの実験をする。俺は金森を狩り出す方法を考える。諦めてくれればいいが、あいつがウロウロしていると何をされるか分からない」
夏山がうなずきながら、カートを見る。
「で、その瓶は何なんだ?」
「セボフレン。揮発性の吸入麻酔薬だ。割れやすいガラス瓶に詰め替えた。警察が突入して来たら、投げつける。足止めぐらいはできるだろう」そして、唇を歪めて笑う。「止めてどうなるかは、分からないがな」
その時、テレビの内容に気づいた高木がボリュームを上げた。
『――ただいま、新たな情報が入りました。韓国政府報道官から正式なコメントが発表されました。深夜にも関わらずこのような声明が出されることは極めて異例です。
「韓国政府は卑劣で非人道的なテロリズムを断固として非難いたします。事件解決に関してできることがあるとすれば、日本政府への全面的な協力を惜しみません。また、人質になった方の一早い解放をお祈りいたします」ということです。
しかし、韓国の主要都市では今回の事件をきっかけに大規模な暴動が起こっています。多くはテログループの主張に賛同するもので、慰安婦合意日韓問題、戦時徴用などに関しての抗議が巻き起こっています。韓国警察および軍は、組織を総動員して暴動の鎮圧を試みていますが、深夜であるにもかかわらず暴動参加者は増える一方だとの情報もあります。ソウル中心部でも夕方より暴動が発生し、未確認情報ではありますが、数人の日本人観光客が襲われて病院に搬送されたとも伝えられました。
ツイッターなどにはテログループを英雄視するコメントが溢れ、犯人たちに賛同する論調が強まっています。
状況は中国でも同様で、一部では2012年の反日デモ以上の被害をもたらすのではないかと危惧されています。未確認ながら、一部都市では反日デモが反政府活動に変質し、軍や警察と民衆との大規模な衝突が始まっているという情報もあります。
日本政府は国家安全保障会議を緊急召集して対応に追われ――』
しばらくテレビに見入っていた夏山がつぶやく。血の気を失っている。
「どうするんだよ……騒ぎを大きくするって言っても、やり過ぎだろうが……もう、収まりがつかないぞ……」
仁科は、にやにや笑いながらつぶやいた。
「おやおや……予定通り――いや、予想をはるかに超える成功じゃないか。こんなに都合良く事が運ぶとはな。立てこもり事件なんかどっかにぶっ飛んじまったな……」
「ふざけてんじゃねえよ! 世界中、敵だらけになるだろうが! 逃げる場所もなくなる!」
「逆だな。これでようやく逃げ込める場所が確保できたんだ」
*
多恵が、私の手を握った。温かさがしみ込む。
こんな身体なのに、まだ生きていられることが不思議だ。だが、危機は少しも去っていない。最も危険な金森も、まだ自由に動き回れるはずだ。
なんとしても、多恵を守り抜く方法を考えなければ……。
私たちは、爆発で破壊された部屋と反対側の病室に移されたらしい。今は、犯人たちもいない。
点滴や投薬も再開され、再びつなげられたモニター類も正常に作動しているようだ。ナースは、バイタルや神経症状には異常は現れていないと言った。
首の動きがスムーズになって来たことは、自分でも分かる。まだ声は出せないが、回復は確実に進んでいる。
と、多恵の小声が聞こえた。
「これ、また持ってて……」
iPodの感触だ。犯人たちから隠しながら、ここまで運んできたのだ。これがあれば、意思を伝えやすい。変換する手間を省いて、ひらがなで打つ。
『けがは していないか』
「わたしは大丈夫。父さんは?」
『すこし くびが うごく』
多恵はわずかに涙をにじませ、さらに強く手を握った。
娘は、救わなくてはならない。何物に替えても。
切り札を明かす時だ。
『はんにんの りーだーを よべ
はなしがある』
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