佐伯の予測通り、犯人グループは分散していた。

 仁科とスタジャンを着た手下は、キャスターが付いたベッドごと廊下を搬送される佐伯と陣内を見張りながら、エレベーターへ向かった。彼らが通過すると、一時的に開けていた防火シャッターを高木が降ろす。仁科は先頭で銃を構え、周囲に注意を払いながらエレベーターに乗り込んだ。

 金森の襲撃を警戒していたのだ。

 夏山に叱責されたGジャンは、警官の部屋を監視させられていた。警官たちの意識は戻っているが、逃げられる状態にはない。本来見張りは必要なかったが、それは指示を守らなかったGジャンへの懲罰のようなものだった。

 高木は、ナースステーションの〝要塞〟で院内の監視に集中している。その目が届く場所で、緊張と疲労に圧し潰されそうになっていた美緒が仮眠を取り始めていた。患者用のベッドを移動して、横になっていたのだ。

 夏山とピアスは、六人部屋で人質の監視に当っている。

 ひと固まりになった人質たちは、立てこもり事件を放送する小さなテレビ画面に見入っていた。緊迫した全国の状況が伝えられている。

『――日本各地で在日韓国人の排斥活動が活発化しています。各地の韓国人街では若者の集団と地域住民たちとの睨み合いが続き、一触即発の緊迫感が漂っています。また、朝鮮学校の周辺では夜になっても抗議活動が収まらず、生徒は私服登校をするよう指導され、警察の厳重な警備活動が継続されています。特に在日韓国人・朝鮮人のみなさんには、不要不急の外出は控えるように呼びかけられています。一方、朝鮮総連と韓国民団からは、立てこもり犯人たちとは一切関係がないとの声明が正式に発表されています――』

 彼らが巻き込まれた立てこもり事件は、日本全国に波紋を広げ、国際的な〝政治的抗議事件〟へと発展し始めている。

 人質の先頭には清掃パートの中年女が座らされていた。最も反抗的な者として、厳しい監視が行われていたのだ。

 人質を見張る二人の背後で、ドアがノックされた。夏山が振り返って、ドアをわずかに開く。

「何だ?」

 高木が顔をのぞかせる。

「正面玄関に誰かが来た」

「検査装置の技術者のはずだ。俺がモニターを見ながら確認しろと言われてる。玄関だけ、ロックを外せるんだよな?」

「できるよ」

 夏山は高木とともに廊下へ出た。ピアスが、扉を閉めようと背を向ける――。

 その瞬間だった。清掃パートの女がだっと飛び出し、ピアスの背中に体当たりした。バランスを崩したピアスが廊下に飛び出す。

 清掃員は入り口を閉じ、太いパイプ状のドアの握りに身体を寄せた。太めの身体をステンレスパイプにぴったりとくっつけ、踵を枠にかけてドアを肩で押す。身体全体をつっかい棒の代わりにしてドアを塞いだのだ。そして、窓際の清掃用具を指差して叫ぶ。

「そこのモップ、持ってきて!」

 彩花が反応した。清掃用具のカートからモップを抜き出して運ぶ。

「これ⁉」

 ドア越しにピアスの声がする。

「何をする! 開けろ!」

 夏山の叫び声が続く。

「何やってんだ、間抜け! さっさと開けさせろ! 俺はやることがあるんだ!」

 ドアが激しく揺さぶられる。

「開けろ!」

 人質たちは、何が起きたのか理解できずにすくんでいる。

 清掃員がピアスの力を押し返しながら、彩花に命じる。

「そのモップ、つっかい棒にして!」

 多恵も進み出て彩花を手伝う。

 清掃員の身体の後ろにモップを差し込み、ドアの握りのパイプに噛ませる。ドアががたがた揺さぶられたが、モップがそれを押さえる形になった。

 清掃員はドアから離れると彩花に命じた。

「モップが外れないように押さえておいてね」

 サオリがベッドでヒザを抱えて座ったままつぶやいた。

「怖いよ……変なことしないで……」

「黙ってたって、何されるか分かんないんだよ! あんただって思い知ったでしょう!」

 清掃員は二の腕の脂肪を揺らしながら自分のカートに向かうと、重ねたバケツを取り出して二つを並べた。一方に、液体洗剤の蓋を中蓋ごと外して、どぼどぼと注いでいく。

 多恵が清掃員に近づく。

「何をするの⁉」

 清掃員は、別の漂白剤を多恵に渡して命じる。

「こっちのバケツに中身を出して」

 多恵は、命令に従いながらも尋ねる。

「でも、逆らったら、本当に殺されちゃうかも……」

 清掃員の返事は落ち着いている。

「あいつら、ほんとにテレビで言ってるような連中だと思うかい? あたしには、欲に目がくらんだチンピラにしか見えない。あたしらは、それをずっと見てる。正体が分かってるんだ。解放されたら、みんな話しちゃうよ。だからあいつら、人質は殺す。あたしたちが生きていたら、嘘がみんなばれちゃうからね。今抵抗しなかったら、必ず殺される」

「どうしてそんなことが……?」

 清掃員は、多恵の目を見た。

「あたしも、在日なんだよ。確かに一人はコリアンだと思う。でも、他はみんな違う。何が良心的な韓国人さ、ふざけんじゃないわよ! 全部デタラメなんだよ! たとえホントだったとしても、こんな馬鹿な騒ぎを起こしたら、あたしたち在日への風当たりが強くなるだけじゃないか。北も韓国もバカなことばかりやってるから、ただでさえ身を縮めて生きているのに。あんな連中の好き勝手にさせちゃいけないんだ」

 バケツには、二種類の液体が波打っている。

「でも、こんなもので何を……」

「混ぜるな危険、ってね。看護婦さん、合図したらつっかい棒を外して」

 ドアががたがたと揺さぶられる。モップを押さえる彩花の目にも恐怖が浮かんでいる。

「いいの⁉」

 清掃員はカートから二本目のモップを抜き出して、多恵に渡す。

「バケツの中身をぶっかけるから、すぐに私に手渡して。看護婦さんはすぐにまた閉める準備をしとくんだよ。よし、外して!」

 彩花は、モップを外して身体を脇に寄せた。ドアが、勢い良く開かれる。サングラスを外したピアスの目には、怒りが渦巻いている。

「畜生! ふざけた真似を――」

 清掃員はバケツで二つの洗剤を混ぜた。その中身を、ピアスの顔面にぶちまける。ピアスは悲鳴あげて両腕で目を覆った。清掃員はバケツをピアスに投げつけて、多恵が差し出すモップを取る。後ずさったピアスの腹にモップを突き立て、体重をかけて押す。ボディブローを食らったピアスが、バランスを崩して廊下に尻餅を突いた。

 清掃員が彩花に命じた。

「ドア締めて!」

 彩花はドアを閉めてモップのつっかい棒を戻した。

 廊下には、塩素系と酸素系の洗剤を混ぜて生じる塩素ガスが広がっているはずだった。

 清掃員が多恵に命じる。

「そこの棚を動かすよ! ドアが開かないようにするから!」

「はい!」

 顔面を紅潮させた清掃員は、ドアに向かって思い切り吠えた。

「掃除のおばちゃんを舐めるんじゃないよ!」そして、人質たちに命じる。「換気で窓を開けるからね! 寒いから、毛布かぶってなよ!」


          *


 足を先にして、ベッドが押されていく。煌々と輝く天井の照明が視界の下から上へと通り過ぎる。エレベーターに乗ったのも分かった。振動を感じる。

 この通路を進むのは二度目だ。一階のMRI検査室へ向かっているのだ。

 エレベーターから出ると、仁科の声が聞こえた。

「ここで待ってろ。技師を連れてくる」

 陣内が応える。

「私も行く。血液検査の項目を指示したい」

「ふん、逃げる気か? だめだ。血液は渡すから、検査の内容は後で電話しろ」

 犯人グループが、次第に分散していく。どこかで金森が見ているなら、今が私を襲うチャンスだと判断するはずだ。

 いや、見ているなら――ではない。

 犯人グループに気づかれずに最上階まで侵入できたのは、詳細な内部情報を手にしているからだ。警察のみならず、犯人の監視さえ鮮やかにすり抜けている。方法は分からないが、金森は正確な情報をリアルタイムで握っている。そして、私を殺そうと決意している。危険を厭わない覚悟もある。

 金森は今、確実にこちらを監視している。

 そして、必ず襲ってくる。

 最も危険なのは、検査中だ。

 警告したい。だが、どうやって……?

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