3
仮眠を取っていた陣内が飛び起き、先頭になってVIPルームへ駆け込む。その後に、大型の除細動器を乗せた救急カートを押す美緒が続く。
バイタルサインモニターを確認した陣内が佐伯の首筋に触れて言った
「呼吸停止、頚動脈の脈拍触できず、モニター上、心室細動」そして指示を飛ばす。「150で充電」
美緒がセットした除細動器からキューンという充電音が聞こえる。その間に素早く佐伯の毛布をめくり、ガウンを開いて胸をはだけさせる。
彼らに続いた仁科が叫ぶ。その目には、恐怖に近い色が浮かんでいる。
「死なせるな! 絶対に死なせるな!」
「うるさい!」陣内は美緒から受け取った除細動器のパドルを両手で握る。電極板を佐伯の胸に当て、応えた。「医師だぞ! 分かりきった命令をするな!」
除細動器の充電メーターをチェックしていた美緒が、仁科を無視して告げる。
「チャージ完了です」
除細動器が発する音がピポピポと変わる。
「離れて!」
陣内が通電スイッチを入れると同時に、佐伯の身体がわずかに跳ねる。パドルを美緒に手渡した陣内が、すぐに心臓マッサージを始める。
一分が過ぎる……。
美緒が言った。
「波形確認します」
陣内がマッサージの手を止める。だが、モニターの波形は平坦になったまま動かない。
陣内がマッサージを繰り返しながら命じる。
「250充電、もう一度」
「チャージ完了です」
再充電したパドルが再び佐伯の胸に当てられる。
放電と同時に佐伯に胸が跳ね上がり、仁科が心臓マッサージを再開する。
さらに一分後、美緒が再び波形を確認した。モニター上の平坦な線に突起状の波形が現れる。
「心拍、戻りました!」
陣内がほっと溜息を漏らす。
「アドレナリン1ミリグラム、静注」
「アドレナリン1ミリグラム」美緒が復唱し、静脈注射にかかる。「静注します」
アドレナリンは心拍数を増加させ、心筋の収縮力を強める効果がある。
「さらにアンカロン300ミリグラムと5%ブドウ糖20ミリリットル、静注で」
アンカロンは致死的不整脈の治療薬だ。2、3回の電気ショックとアドレナリン投与後も心室細動が持続する場合に使用するが、高度な医療を行う病院でなければ常備していない事も多い。
しばらく様子を見ると佐伯は自発呼吸も回復し、気管内挿管までは行わずに済んだ。しかし、まばたきと眼球の動きははっきりとは現れない。意識は失ったままのようだ。
当面の危機を脱したことを察した仁科が問う。
「何で心臓が止まった?」
「分からない。容態は、悪いなりに安定していた。呼吸が急激に悪化する兆候は一切見られなかった」
「回復するのか?」
「緊急事態は回避した。呼吸が停止していた時間も短い。おそらく、脳へのダメージはないと思うが……」
「おそらく? 回復するのか⁉」
「希望的な予測だ。断言はできない。すでに大量の投薬が行われている。一度は心停止もした。今の循環不全が、再度の脳梗塞や脳出血の引き金になることもあり得る。脳の状態を正確に知るには、MRI検査が必要だ……」
「それなら、やれ」
「MRIは一階だ。検査技師も、君たちが追い出した。しかも、これほど容態が不安定な場合は普通より人手が多く必要になる」
「それなしでは、どれぐらい危険性が変わる?」
「MRIなら、脳の状態がかなり正確に評価できる。疾患の状況や位置を特定して治療を施せば、効果は絶大だ。梗塞と出血は症状が酷似しているが、現象が逆だ。出血を止めるべきか、梗塞を溶かすべきか――使う薬品も効果が正反対だ。症状だけを見て判断すると悪化させてしまう危険がある」
仁科はしばらく考えてから結論を下した。
「分かった、技師は呼ぶ。ただし、一人だけだ。それでどうにかしろ。つまらない抵抗はするな。佐伯が死んだら、人質も殺す」
陣内は仁科の目を睨みつけ、黙ってうなずいた。
仁科の陰から成り行きを見守っていた夏山が、ぽつりと言った。
「暖房、切ってんのか? こんなに寒くて、大丈夫なのか?」
仁科がはっと気づいて、窓際に走った。カーテンを引く。ベランダに出るドアの下に砕けたガラスが落ちていた。鍵の周囲のガラスが割られている。
「奴が来た!」陣内に向かって叫ぶ。「佐伯に外傷はないか⁉」
「あるはずがない。動けないんだぞ……」そして、気づく。「誰か入ってきたのか⁉」
「ドアが壊されている」
「誰が? なぜ?」
「お前には関係ない」
「患者には関係がある。何をされたかが判断できないと、的確な治療を選択できない。治療が原因で、逆に死ぬ恐れもある」
仁科は仕方なさそうに応えた。
「……俺たちと同じで、こいつから聞き出したいことがある奴だ」
陣内が一瞬で状況を把握する。
「やはり、しゃべれないと知らないのか……。何かを自白させようとしたなら、アンフェタミンのような薬品を使ったのかも……」ナースに命じる。「採血! 薬物の検査だ」
「はい!」美緒がカートの下部から採血キットを取り出し、パッケージを切る。「でも、院内には検査できる人がいないんじゃ……」
「警察に渡す。緊急に市立病院で検査して、データを送ってもらう」
陣内は佐伯の顔から首にかけての皮膚をじっくりチェックしていく。陣内の位置からは、背中の下のiPodがわずかに見えていた。それを、夏山に気づかれないように押し込む。
仁科が脇から覗き込む。
「注射とか、射たれたのか……?」
全身の皮膚を調べ終えた陣内が応える。
「異常な注射痕はなさそうだな……。だが、点滴チューブから注入された可能性もある。血液サンプルは、君たちが警察に手渡せ。急いで、だ。私から担当者に指示を出す」
「命令するのは俺だ」
「それなら、治療も君が行え」
わずかな沈黙の後に、仁科がうなずく。
「わかった。だが、もう一度言っておく。絶対に、おかしな真似はするな。佐伯を、死なせるな」そして、携帯を出して警察を呼ぶ。「滝川か⁉ 人質の一人の容態が急変した。大至急MRIの技師を連れて来い。検査が必要な血液も渡す。大至急検査しろ。技師を連れて来た時に、救急搬送口で受け渡しだ。監視カメラで見張っていることを忘れるなよ」
その時、高木が戸口に顔を出した。
「メールの暗号解除が終わってたんだけど……」
仁科が一方的に携帯を切って振り返る。
「後にしろ。どうせ『助けてくれ』だろう?」
「そんなんじゃない」高木の視線がベッドの佐伯に向かう。「こいつが送ったんだ。やっぱりリーダーは金森だったんだ。金森を脅して、ここに呼び寄せてる。『私を殺しに来い』って……」
「何だと⁉ こんな身体でメールだと⁉」
「『立てこもり犯もみんな殺せ』って、金森を煽ってるんだ」
「はぁ? 俺たちまで、か?」
「金森の秘密を知ってるって……。隠すには、全員殺すしかないって……。金森が来たら、僕たちも殺されちゃうよ!」
「もう、来てるんだ……。仲間を引き連れてるかもしれない。ヘタすりゃ、戦争になるぞ。お前、何で監視カメラ見ていなかった⁉」
「だから、死角もあるんだって! 少人数なら隠れられる。だけど、それほどたくさんの人間は入り込めないと思う……」
「そうか……。あいつ、もしかしたら一人で乗り込んできたのかもな……。いずれにしても、警戒は厳重にしろ」
陣内が間に入る。
「それより、大至急MRIだ! 移動用のストレッチャーを用意する!」
その隙に、美緒はiPodを除細動器の下に隠していた。
*
生きて……いるのか……?
ゆっくりと深呼吸する……
空気だ……やはり、うまい……
生きているんだ……
まわりの物音が……聞こえる……医師たちの声だ……。
危なかったようだな……だが、生きている……。
ならば、金森は去った。
犯人の声もする。奴らも、金森が来たことが分かったようだ。
ひとまず、私の狙いは当った。金森を呼び寄せることには成功した。これで、彼らは私を奪い合う。これからは、立てこもり犯たちが私を守るSPになるのだ。
こんな身体でも、やればできるじゃないか。まだまだ、できることがあるはずだ。
怒りの中に、わずかな自信と冷静さが生まれた。
反撃だ。
次はどうやって金森を攻める……?
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