高木が院内の警戒を強めた時、すでに金森はVIPルームに侵入していた。

 全身黒ずくめ。救急隊員の制服の上にゴアテックスのレインジャケットを着ている。東側の病室からベランダに出て、そこだけ区切られているVIPルームのベランダの仕切りを超えた。用意していたマイナスドライバーでドアの二重ガラスを割って中の鍵を開けたのだ。手慣れた空き巣の手口だ。

 警備会社から聞き出した情報で防犯カメラやセンサー類の死角を割り出し、ここまで上がってきたのだった。途中、注射器と薬品も手に入れていた。

 隣の病室には多くの人質が監禁されている。その周辺は警察の監視が厳しいと予測できた。が、ベランダの壁に隠れて進めば、外からは簡単に発見できない。ベランダは壁が薄いので熱感知カメラで察知される危険は残るが、顔付きまでは判別できない。警察に不審人物の動きを補足されてもやむを得ないという計算があった。『金森だ』と認識されなければ、捜査側の混乱を助長する結果になるだけだ。警察は『金森は死んだ』と信じている。その判断が揺らがないうちに姿を消せば、自分に不利になることはない。

 VIPルームへの侵入経路は、病院に入る前から綿密に組立てられていた。そのために警備会社を襲ったのだ。

 問題は、立てこもり犯の注意をどうそらすかだった。犯人グループの高木がハッキングの技能に優れていることを、金森は知っている。監視カメラを掌握されれば、それををかいくぐることは困難だ。ベランダのカメラには、ほぼ死角がない。

 金森が奪った警備マニュアルからようやく探り出した〝穴〟は、まさに監視カメラの中心である警備室にあった。そして金森は、病院への侵入を果たすと真っ先に警備室に身を潜めた。

 二階に置かれた警備室には、昼間は五人ほどの警備員が常駐する。学校の教室ほどの大きさで窓がない室内には、片側の壁に監視カメラのモニターと操作卓が並んでいる。

 多くの人が出入りする院内や駐車場では、さまざまなトラブルが発生する。職員への院内暴力や患者同士のもめ事も少なくはない。車上荒らしや盗難目的の犯罪者も院内に入って来られるし、産婦人科では新生児が誘拐される可能性さえ想定しなくてはならない。時には複雑な通路で迷った子供を捜すこともある。数多くの監視カメラで不審者を見張ることは、大型病院では不可欠な安全対策だった。モニターの画面は全て録画され、一ヶ月間保存される規定になっていた。

 部屋の反対側には暴漢鎮圧や災害時に使用する用具――サスマタや暴徒鎮圧用の盾、ヘルメット、管内巡回時に身に付ける装備などが整理されている。

 側面には壁いっぱいに各種設備の制御盤が並び、大小さまざまなランプが点滅していた。その奥には院内の情報を管理するサーバールームが置かれている。

 その警備室は、高木の盲点でもあった。

 警備室そのものには、監視カメラが設置されていなかったのだ。多くの病人が眠る大病院では、夜間こそ充分な警備が必要になる。院内を巡回する警備員の他に、深夜でも最低二人が警備室で待機する規定になっていた。決して無人になることがない警備室に、カメラは必要ないと考えられていたのだ。

 しかも、コンピューターやモニターの電源は建築当初から、一度も切られたことがない。警備には中断が許されないからだ。だから、システムを掌握した高木は無人の警備室の機器が稼働していることに疑問を抱かなかったし、それを停める必要があるとも思わなかった。

 金森も、警備会社から奪ったマニュアルでそれを知っていた。警備室に侵入できれば、犯人グループに気づかれずに全館の状態を把握できることを見抜いていた。

 金森は、機器類には一切手を触れなかった。ただ、モニターに映し出される画面を注視していただけだ。アクションを起こさなければ、システムを監視している高木にも異変を察知されない。犯人グループに全く気づかれずに、院内の現状を細かく探ることができた。

 そして警備室のモニターには、六階西側のナースステーションの映像も映し出されていた。

 高木の油断だ。システムを奪還しようと誰かが攻撃してくれば探知して排除できるという過剰な自信が、自分たちを写すカメラを無力化するという初歩的な自衛手段を忘れさせていたのだ。

 金森はモニターから、高木と仁科が仮眠に向かったことを知った。監視カメラを見張る交代要員は、夏山が連れてきたスタジャンの男だ。見るからに落ち着きがなく、案の定、すぐに居眠りを始めた。

 それを確認した金森は、VIPルームへの突入を開始したのだった――。

 佐伯のベッドの横に立った金森は、身を屈めて耳元につぶやいた。弱り切ったネズミを、さらにいたぶる猫のように……。

「あんたの情報はずっと追っていた。動けない、しゃべれない……なのに、こんな脅しをかけてくるとはな。役にも立たない正義感を振りかざしやがって……警官だからか? たかが警官が、何だっていうんだ? 面倒くさいだけの貧乏公務員じゃないか。あんたは『被害者の気持ちを考えろ』ってうるさかったが、こっちはボランティアじゃない。つまらない昇任試験で上に登ったって、大して儲かりゃしないと分かった。所詮、ノンキャリだしな。法律や常識に私生活まで縛られた安定なんて、もう限界だ。あんたは薄々気づいていたみたいだが、俺は元々性根が腐った悪党なんだよ。だが、バカじゃない。だから、警官になった。知恵が働く悪党が警官の権力を握れば、怖いものはない。警察の周りには儲かる商売の種がゴロゴロ転がってんだ。情報こそが、この時代の力だからな。ついでにあんたも利用できると思ったんだがね……」

 語りかけながら、アンプルを折って注射器を刺す。吸い上げられていくのは、モルヒネだ。薬品保管室の場所も、麻薬金庫の鍵の保管場所も、マニュアルには詳細に記入してあった。しかも今は、警備員を含めて完全に無人だ。盗難を阻止する障害はなかった。

「困ったことに、あんたは言ったことは必ずやる大バカだ……キレると何をするか分からないって噂もあるしな……確かに、殺すしかないよな……。俺をおびき出したつもりだろう? だが、見つかるようなヘマはしない。お前を殺して姿を消せば、証拠は何も残らない。殺されたと分かっても、やったのは立てこもり犯だってことになる。組織だって俺一人で作ったんだから、一人で逃げ切ってみせるさ。あんたが黒幕になってくれてりゃ、金とブツを全部かっさらって楽に逃げられたんだがね……。たかが金のことだ。ちゃんと調べれば、あんたの娘が関係ないってことだって証明できたろうに。俺は、安全に姿をくらます時間があればよかったんだ。なのに、こんなに熱くなりやがって……。なんか、証拠があるんだってな。それ、ハッタリだろう? ま、どっちでもいいや。捕まらなけりゃいいだけのことだ」

 佐伯の腕につながった点滴のチューブに、注射器を刺そうとする。

「じゃあな。あばよ」

 その瞬間だった。枕元のバイタルサインモニタがけたたましいアラーム音を発した。

「なに⁉」

 はっとを身体を起こした金森は、身を翻してベランダに向かう。

 そして、闇に消えた。


           *


「あんたは言ったことは必ずやる大バカだ……」

 その通りだ。やってみせる。

 お前は、多恵まで巻き込んだ。許せない。

 私の怒りは極限に達している。

 覚悟はとうに決めた。今の私にはこうする以外、お前に怒りを叩き付ける方法がない。

 どうせ死んだも同じ身だ。多恵が守れるなら、それでいい。

 私ができる、唯一の抵抗――。

 呼吸を止めた。 

 金森が来たと確信できた瞬間から、息をしないでいる。

 これで、モニターが警告音を鳴らす。医者も、立てこもり犯たちもやってくる。金森と鉢合わせになれば、事態が動く。金森が生きていることさえ分かれば、警察も動かざるを得ない。多恵の無実も明らかになる。運が良ければ、私も死なずにすむ――

 心もとないが、それが唯一の希望だ。それ以上のことは、今の私には望みようがない。

 このままなら、警察は多恵を犯人一味と決めつけて、事態が拡大する前に幕を引くだろう。私が〝殉職〟してしまえば、現職刑事が麻薬組織を操っていた〝スキャンダル〟を隠し通せるからだ。

 組織を守るためには、最も正しい方法だ。

 逆に、現職警官である金森が同僚に濡れ衣を着せた黒幕だったと公になれば、回復困難な深手を負う。道警にとっては絶対に避けなければならないシナリオだ。最悪の場合、多恵が一生刑務所に閉じ込められることさえ考えられる。

 あえて偽装をしないまでも、真実を黙殺する可能性は否定しきれない。自分が属する組織を信じきれないのは情けないが、事実は事実だ。

 多恵は、警察組織の手からも守らなければならない。そのためには、金森が犯罪の中心であったことをできるだけ多くに人間に知らせなくてはならない。警察に情報を隠蔽させてはならないのだ。それが、親の責任だ……。多恵を巻き込んだのは、私の責任なんだ……。

 そのためなら、死んでもいい。

 むろん、苦しい。意志で、呼吸を止める――それは、自殺だ。

 息を……息を吸いたい。生き物としての本能だ。

 だが、だめだ。闘え! 本能に負けるな! 

 早く……早くアラームを鳴らせ……

 早く……早く……苦しい……

 意識が遠のき始める……

 だが、許せない。お前は、許せない……

 早く…… 苦しい……

 だめだ……息を吸うんじゃない……

 こらえろ……

 怒りをかき立てろ! 怒りで、本能をねじ伏せろ! 金森を許すな! 多恵を救え!

 私は……死んでもいいんだ……

 こうすることでしか、闘えないんだ……

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