立てこもりはすでに丸一日を超え、二日目の夜を迎えていた。

 大掛かりな患者の移動計画は、日本中の話題をさらう大事件に発展している。

 消防の判断により全道17の災害派遣医療支援チーム――DMAT指定医療機関へ出動要請が出され、巨大地震などの大規模災害発生時と同等の広域医療搬送が実施されたのだ。また北海道庁は患者搬送のため、自衛隊への協力要請を行った。市内の大型総合病院はもとより、高速道路沿いの中小都市の総合病院が動員された。300キロメートルも離れた名寄・函館まで受け入れを余儀なくされ、リハビリに特化した病院や個人医院さえもが入院患者の収容を迫られた。救急隊員や車両も全道から集められ、病院の玄関は一日中患者の搬出でごった返していた。重症患者はドクターヘリ、自衛隊のチヌークヘリコプター、UH―60ヘリコプターで全道各地にピストン空輸された。さらに道内での受け入れが困難な症例には、航空自衛隊所属のUS2やC1輸送機による本州への搬送まで行われた。

 その間も、救急患者は発生する。各病院の救急外来は普段の数割増の患者を受入れ、数倍の医療業務を抱える綱渡り状態に突入した。このため、北海道庁から厚生労働省を通じ全国のDMATに派遣要請が行われた。それらの病院は救急専門の医師やナースを日本中の提携病院から招集し、かろうじて処理能力を保っている。

 国元総合病院という地域医療の核が機能を奪われたことが、玉突き的に全国の医療システムを大混乱に陥れていたのだ。

 その患者移送も、ようやく終盤を迎えようとしていた。

 VIPルームでは佐伯を見守る陣内と美緒が、仁科に見張られている。

 その隣の病室には多恵とサオリを含む人質八人と、その看護を命じられた彩花が閉じ込められていた。見張りはピアス一人だ。

 さらに隣の六人部屋には、手摺から引き上げられた巽と警官二人が、いずれも両手足を縛り上げられて閉じ込められていた。口にはぴったりとガムテープが貼り付けられている。しかも手首を縛ったロープは、ベッドの手摺に固く結ばれている。三人とも意識は取り戻していたが、抵抗しようもなかった。食料も与えられず、トイレにも行けない。

 三人の衣服の上から大人用のオムツを貼り付けた夏山は、笑いながら言った。

「いい恰好だ。お似合いだぜ。家族に写メでも送ってやるか?」

 病室の中に見張りはいなかったが、夏山は廊下側からスライドドアの握りのパイプと壁の手摺をロープで縛り、内部からは開けられないように固定していた。

 長期戦を覚悟した犯人グループは、交代で仮眠を取っていた。

 人質たちが集められた六人部屋では、一台の小さなテレビが病院の中継映像を映し出していた。部屋の冷蔵庫には、一階のコンビニから警察に運ばせた食料と飲み物が充分に詰め込まれている。病室にはトイレも備えられ、四台のベッドが残されていたので、仮眠や通常の生活に不自由はない。ただ、会話は許されていなかった。

 人質たちはじっと時間が過ぎるのを待つだけだった。極度の緊張が続き、皆、疲れをにじませている。

 警察が病室内の様子を探知することができないように、細心の注意が払われていた。窓には厚い遮光カーテンがぴったり閉じられ、室内にあった六台の入院患者用の棚は窓際に寄せられて壁となり、近づくことができない。その脇には病室に残っていた医療機器や清掃員が押していたカートも集められ、警察の監視に対する防壁にされている。レーザー盗聴器で窓ガラスの振動を傍受されることへの対抗策だった。

 人質から犯人グループの人数などの詳細が漏れれば、警察が突入しやすくなる。確証が持てないうちは、SATといえどもうかつには動けないはずだ。

 ベランダへ出るドアは監視カメラの視界に入るので、そこから逃れることもできない。

 今はピアスがドアの脇の椅子に座って目を光らせている。ピアスは警官から奪った銃を持ち、病人を含む人質たちでは抵抗を試みることはできない。

 部屋の中央に集めたベッドに身を寄せた患者たちが、食い入るようにテレビを見つめていた。ショッキングな立てこもり事件は、全ての放送局で臨時中継が行われている。

『――国元総合病院では、大掛かりな患者の搬送計画が終わろうとしています。犯人グループからの連絡は今も途絶えたままで、具体的な要求も一切伝えられていません。すでにあたりが暗くなってから二時間ほどが経過し、寒さも一段と厳しくなっています。人質のいち早い解放が望まれるところです――』

 ライブ映像はすでに真っ暗で、人々の細かい動きは見分けづらい。派手さが失われた映像に変わって、今は昼間の録画画像が繰り返し流されていた。病院から運び出される患者や行き交う救急車、ヘリコプターからの俯瞰映像、宙吊りになった警察官の姿、関係者のインタビューなどがめまぐるしく入れ替わっていく。

 窓の外は常に報道ヘリのかすかな音に包まれていた。その中に、時たま救急車のサイレンが混じる。

 病院の周辺に警察関係者が集結していることは明らかだった。

 交渉の窓口はSITだが、当然、捜査一課の能力だけでは不十分だと考えるだろう。対テロリズムに備えた特殊急襲部隊、SATが展開しているはずだ。SATは狙撃を含めた高い攻撃能力を持ち、突入、鎮圧には欠かせない部隊だ。だが、テレビはそれらの情報には一切触れていない。テロリスト側に情報が渡らないように、警察からの指示が徹底しているようだ。

 屋外の監視カメラで外の状況を確かめていた高木は、一瞬、航空自衛隊のデジタル迷彩服らしいグレーっぽい姿を見ていた。インターネットで調べると、北海道警察のSATは陸上自衛隊との合同訓練を実施しているという情報が得られた。市街戦に合わせて航空自衛隊の戦闘服を流用したことも考えられた。彼らの〝敵〟は、もはや警察だけではなくなっているようだった。

 病室のドアが引かれ、肩を怒らせた仁科が入って来た。ピアスの傍らのテレビの音量を、最大に上げる。盗聴を少しでも防ごうとしているのだ。

 その後にGジャンが続く。

「誰か、メールを送ったヤツがいる」仁科は人質を見渡す。「まだ携帯を持ってるのか⁉ あるなら出せ。今すぐ出せば、誰も傷つけない。後から出て来たら、持ってたヤツを殺す……いや、隠した本人はやめておこう。その代わり、別の誰かを殺す。携帯を隠したヤツに、誰を殺すか指名させる」

 人質を見張っていたピアスが尋ねる。

「俺が見張っている間はそんな気配はなかったけどよ……。分かるのか、そんなこと? 今でも隠れてメールできるってことか?」

「いや、高木が無線LAN経由のメールはブロックした。情報漏れがないか点検させてたら、遮断する前に送られたメールの記録が出てきた。送信は昨日の夜中で、携帯を取り上げた後だ。俺たちは、メールは使ってない。今、内容が分かるかどうか、クラウド上のメールサーバをハッキングさせている。痕跡を隠しながらだし、暗号化されていれば解析にも時間がかかる……」そして、命じた。「こいつらを徹底的に検査するぞ!」

 人質たちの顔に恐怖が浮かぶ。

 テレビ画面からは、全員の注意が逸れていた。

 再び映されたライブ映像から、一人の救命隊員の姿が消えたことに気づく者など、いるはずもなかった。


           *


「やはり、まだ変化は現れないね……」

 私の眼球にペンライトの光を当てていた陣内が、犯人の一人に話しかけていた。相手は夏山だろう。

 犯人たちの名は、陣内から教えられていた。グループを先導しているのは仁科という男だ。知的で、内部を的確にコントロールしながら、外部にも充分気を配っているようだ。おそらく、ミンタブの密造を実行した男だろう。だとすれば、薬品の合成技術を持った化学者だ。当然、教育水準は高い。最も注意するべき相手だ。

 夏山はナンバー2だ。間違いなく組員か半グレで、暴力の担当だ。子飼いの部下を三人連れてきているという。警官が殺されたのは、部下の暴走のようだ。組織の中では対面販売を仕切っていたのだろう。単純で火がつきやすいが、仁科には頭が上がらないらしい。判断力も決断力も、はるかに劣ることを自覚しているのかもしれない。あるいは、学歴にコンプレックスを抱いているのか。

 他にも、ここには顔を見せない高木というメンバーがいる。ナースステーションに居座ってコンピューターを操り、病院内の機器の制御や監視を受け持っているという。いわゆる、パソコンオタクだ。陣内の話では、ハッキングの腕も相当なものらしい。ミンタブは、ネット販売も行われていたことが分かっている。そこを分担していたのだろう。記録が残りやすいネットの取引では、痕跡を消せるスキルが高い者が重宝される。

 この三人はバランスよく役割を分担している。彼らは長い間麻薬組織を維持できたのだから、理屈が通じる程度の知性は持っているはずだ。

 問題は、夏山が連れてきたらしい三人の〝兵隊〟だ。

 意気がるだけの半グレなら、粗暴で切れやすい恐れがある。事故だったとしても、実際に警官を殺している。この先、危機に瀕した時に予想外の行動をとる可能性も高い。人質に危害を与える恐れもある。

 できれば、詳しい情報が欲しい。性格から相手の行動が予測できれば、いざという時に的確な対処ができるだろう。交渉や罠を仕掛けることも可能かもしれない。

 私の身体は、ゆっくりだが着実に回復している実感がある。眼の動きも、自分ではっきり意識できるようになっている。彼らが部屋に入って来る前には、腕の動きもスムーズになっていた。実際、iPodの操作は早くなっている。彼らが来ることに気づいて、慌てて背中の下に隠すこともできた。

 何度か薬で意識が朦朧としたので、時間の感覚はあやふやだ。警官が殺されてからどれぐらい過ぎたのかも、正直分からない。だが、鎮静剤はすっかり抜けたようで、外の気配は今までより明確に感じ取れる。廊下の物音や時折聞こえるかすかな話し声で、犯人グループがこのフロアを完全に制圧したことが分かった。人質はまだ無事らしい。

 犯人たちはだいぶ前に、警官の一人を引きずって外へ行った。おそらく、要求を通す圧力に利用したのだろう。その後、戻った犯人たちは残り二人も運び去り、私だけを残した。次に戻った時は医師とナースを引き連れ、私の回復状況を調べるように命じたのだ。

 彼らの狙いは、私だ。

 金森に騙され、私が黒幕だと思い込んでいる。だから、私から金の情報を引き出そうとしているのだ。それが得られない限り、病院を去ることはないだろう。

 逆に考えれば、それまでは人質に危害を加えない。警察に踏み込まれれば想定外の展開もあり得るが、今被害者を増やしても意味はない。金森の正体を教えなかった私の判断は、今のところ被害の拡大を防いでいる。私が言葉を出せないうちは膠着状態が続くわけだ。

 陣内もそれが分かっている。私がiPodを使い始めたことを知りながら、依然として〝変化なし〟と言い続けている。時間を稼ごうとしているのだ。賢い男だ。

 今のうちに、多恵と人質を救い出す方法を見つけなければならない。心もとないが、今の私にできる手段は講じた。

 私は、まだ動けない。警察も、動けない。

 動けるのは、犯人グループと金森だ。

 利益が反する犯罪者たち。

 この二つがぶつかれば、互いに潰し合う――

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