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防火シャッターの手前の病室に残っていた患者たちは、ベッドごと廊下の先に移動させられた。ナースステーションに捕らえられていた五人が、その患者たちの管理のために同行を指示される。デイコーナーからも、症状が不安定な患者が解放された。
残ったのは十一人。五人の患者と清掃員、二人のナースと陣内、そして多恵とサオリだ。患者からは、さほど手がかからない症状で、抵抗する危険が少なそうな女性と老人が選ばれた。清掃員は、病人の世話を補助するために残されていた。
高木はナースステーションの中央に七台のパソコンを並べ、自分の〝要塞〟を築き上げていた。真ん中に置いたMACのモニターにはエヴァンゲリオン風の制御盤が表示されている。システムの異常や侵入者があった時には警告を発し、ターミナルでダイレクトに対策を打つための中心機だ。その脇のモニターには、各階の監視カメラの画面が細かく映し出されている。高木が椅子を回して右端のウインドウズマシンを操作した。そこには病院設備の操作が割り当てられている。
と、廊下の防火シャッターがゆっくりと下り始めた。これで、六階西側の区画はエレベーターホールと階段から遮断される。南に面するVIPルームと三室の六人部屋、北側の五部屋が病院から切り離されたのだ。
両側の廊下のシャッターが降りきったのを確認した仁科たちは、VIPルームの隣の大部屋に人質たちを集め、ピアスとGジャンに監視させた。
陣内とナースは、別の個室でスタジャンに見張られている。
デイコーナーは無人になっていた。
仁科はナースステーションの物品庫から白い拘束衣と大型のペンチ、革手袋を探し出した。病院の日常業務で拘束衣を使用することは皆無だったが、重症精神病患者の自傷他害を防ぐ場合に備えた一着が備品室に眠っていたのだ。
夏山に命じる。
「本部のデカをこっちに出して、拘束衣を着せておけ」
夏山とピアスが、VIPルームから巽を運び出す。
仁科はペンチを持って、無人になった北側の個室へ向かった。
病室の外側には幅一メートルほどの回廊状になったベランダが付けられている。転落防止のために、大人の胸ほどの高さまで壁が作られ、その上部が開放されているのだ。重症ではない患者の気分転換を図るために設計された構造だった。また、火災の際にはいったん外に出て、延焼していない区画へ逃れる待避路にもなる。豪雪地帯には不向きな設計だが、積雪が極めて少ない太平洋沿岸だという地の利から選ばれたデザインだった。それでも、出る者がいない真冬のベランダには、角に深い雪の吹きだまりができている。
仁科は最初に窓の周辺をチェックした。ベランダに出入りできるのは壁の端のガラスドアだけで、各病室の窓は嵌め殺しになっている。換気のために両サイドの一部が蝶番で開くが、その隙間から人が出入りすることは難しい。警官隊が突入する場合は、窓ガラスを破って一気に襲いかかってくるはずだ。
各ベランダには10メートル置きに『降下型避難装置』が備え付けられている。太さ5ミリのワイヤーロープに付いたベルトで人間を吊り、ブレーキをかけながら地上に降ろす昇降機だ。地上に着いた人間がベルトを外せばロープは自動的に巻き上げられ、繰り返し使用できる構造になっている。装置自体の重量は20キロ弱だが、30メートルの高さから降下できる能力を備えていた。
仁科はベランダに出ると避難装置の外箱を開き、ベルトをつかんで隣の装置までロープを引き延ばした。ベルトを別の装置に引っ掛けると、ロープの根元に戻ってワイヤーをペンチのカッターで挟む。ワイヤーロープは簡単には切れない。ペンチを回しながらわずかずつ切り込みを深くし、汗をにじませながら切断した。
ベルトが付いた約10メートルのロープを手に入れた仁科は、デイコーナーに戻った。巽は拘束衣の装着を終えていた。ロープの端のベルトを拘束衣の上から締め付ける。
デイコーナーの北端には、屋外階段が設置されている。三人は屋外階段へ出る鉄製の非常ドアを開き、踊り場へ出た。西側に面する階段には強い風が吹き付け、手摺の間でうなりを立てていた。踊り場の角の吹き溜まりから、雪が舞い上がる。
屋外階段の踊り場は、病院の裏手になっている。正面の大通りからは見えない位置にあった。仁科がアスファルト舗装の屋外駐車場を見下ろす。三台のパトカーがすでに待機していた。その横に放送局のロゴを付けたランドクルーザーが一台停まっている
テレビ局は、仁科が110番通報の直後に呼んだのだ。
『国元総合病院を占拠して、患者を人質にした。これから、ささやかな革命を起こす。多くの人に知らせたい。必ず取材カメラをよこすように』
テレビスタッフたちは半信半疑で機材を用意したものの、警察の布陣を見てただ事でないと察したのだろう。ディレクターらしい男が警官たちと押し問答を繰り広げていたようだ。踊り場に出た三人が人間を抱えているのを見上げたとたん、彼らの動きが急激に慌ただしくなった。
ランドクルーザーから報道スタッフがわらわらと飛び出し、大型のカメラを運び出す。
警官たちも階段を見上げて無線で報告する。
それを確認した仁科が、かすかに笑い声を漏らした。
彼らに見せつけるように、手摺の太い支柱にロープの一端ぐるぐる巻いてから結びつける。手摺は凍り付きそうに冷たい。革手袋をはめていなければ、難しい作業だった。ロープの長さは、手摺の上から三メートルほどになるように調整した。
仁科は携帯を出し、再び110番に通報した。
「我々が本気だという証拠を見せる。交渉の窓口を決めておけ」
仁科は、夏山に向かってうなずいた。
夏山は、躊躇なく巽の身体を担ぎ上げ、手摺の外に投げ出した。落下のショックをでロープのゆるみが締まり、手摺がきしむ。手摺自体もびりびりと揺れた。手摺に凍り付いていた雪の固まりがはがれ、落ちていく。
仁科が手摺の外を覗き込む。巽の身体が宙吊りになっていた。ベルトで吊られ、雨に濡れた照る照る坊主のような状態だ。落下のショックで意識が戻ったのか、巽の目がうっすらと開いたようだ。
仁科は手摺から身を乗り出し、巽の後頭部に向かって言った。
「ほら、カメラに顔を向けてやれよ」
巽は自分が宙吊りになっていることに気づいたのか、急にもがき始めた。だが、拘束衣で全身を固定された状態では、逃げる術などない。
仁科が再び携帯に話しかける。
「吊られているのが誰だか、分かるだろう? 監察っていうのは、道警の嫌われ者らしいな。こいつが落ちたら喜ぶ奴らもいるんじゃないのか? 他にも、何人かお仲間を抑えている。調べれば、すぐ分かるだろう」
返事があった。
『道警本部捜査一課、特殊班の滝川だ。交渉を任された。目的を聞きたい』
「SITだな。焦るな。長期戦を覚悟するんだな。まず、要求を遂行しろ」
『たった一時間では全患者を移動できない。これだけの大病院で、病室には重症患者があふれている。今、近隣の病院にあたっているが、受け入れ先が充分に確保できていない』
「ならば、時間は延びても構わない。ただし、限度はある。我々の忍耐力が切れるか、警察の不当な介入があれば、人質も死ぬ。最初はこいつだ。ロープをほどけば落ちる。何もしなくても、凍死だ」
『目的を聞きたい』
「まず、病院を無人にしろ。要求はそれからだ。こちらは、病院全体の監視システムを掌握している。監視カメラは、中にも外にもごっそり完備している。各出入り口、全フロアの廊下、ベランダにもカメラが設置されている。カメラを無効化したり、鎮圧部隊を送り込んだりすればすぐ分かる。電源を切ったりするなよ。すぐに予備電源に切り変わるし、その時点でロープをほどいてこいつを落とす。これからはマスコミを敷地内に入らせるな。ドクターヘリ以外は、半径1キロ以内に飛ばすな。だが、望遠カメラでの撮影は一切規制するな。全てをテレビで中継させろ。我々を騙そうとするのは止めておくよう忠告する。人質の命が危険になるだけだ。もちろん、死ぬのは警官からだ。患者の移送が始まったら、こいつは部屋に入れてやる。完全に無人になった後に、要求を伝える。以上だ」
仁科は携帯を切った。
地上でカメラクルーに指示を出していたディレクターが携帯に叫ぶ声が、風に乗って聞こえた。
「ヘリだ! 中継の準備、大至急!」
仁科たちは病棟に戻ると、非常ドアをロックした。
夏山が小声で問う。
「ヘリとか中継とかって、日本中大騒ぎになるだろうが。逃げられるのか?」
「逃げ道をこじ開けるためにやってるんだ。だが、その前に片付けることがある。佐伯の意識が戻るまで時間を稼がなきゃならない。その点でも、騒ぎはでかいほうが有利だ」
「だからってよ……。計画はあるんだろうな?」
仁科が、不意に話を変える。
「おまえ、在日だろう?」
夏山がいきなり声を荒げる。
「何だと⁉」
「図星、か? 喜べ。これからは、お前がリーダーだ」
*
打ち終わった……。そもそもスマホには慣れていないし、指先もまだ思い通りに動かない。時間はかかったが、それでも何とかやり終えた。
必死に考えた末の一手だ。
『金森は生きている。麻薬組織の黒幕は金森だ。証拠がある。病院を襲ったのは麻薬組織だ。佐伯』
だが、これをどうすれば署に送れる?
画面を調べる。下の方に、ゴミ箱のアイコンが描いてある。その横に、四角から矢印が出ているアイコンがあった。書類を送る絵か? アイコンを押さえてみると、『メールで送信』という別のアイコンが出た。メールが送れるのだ。記憶しているアドレスは少ないが、宛先に署の代表メールを打ち込む。送信ボタンを押すと……かすかに、何かが飛んでいくようなシューという音が聞こえた。
送信できたようだ。だが、このメールが届いたところで、宛先は誰でも使える公開アドレスだ。信用されるとは限らない。それでもいい。狙いは、金森なのだ。
画面は自動的に元に戻っている。さらに文章を付け足す。
『これを署に送る。立てこもり犯もお前が生きていると知っている。金森という名も、私と同じ署の刑事だということもバレている』
ハッタリだ。証拠があるというのも噓だ。だが、金森は犯人グループにも正体を隠していた。隠していたからこそ、死の偽装が成り立ったのだ。
だから金森に、こう信じ込ませたかった。
――立てこもり犯が捕まれば、麻薬密造組織のリーダーが金森だったと暴かれる。偽装工作が破綻する。次の犯罪プランが根本から崩壊する――
その危険を消すには、ここに来て彼ら全員を殺す他はない。さらに念を入れて、私自身を狙わせたい。続けて打ち込む。
『お前の正体が暴かれる前に決着を付けよう。逃げ切るには全員を殺すしかない。私は動けないし話もできない。だが回復している。殺しに来い。来なければ後悔する。私はかつて多恵を拉致した変質者を半殺しにした。多恵を巻き込んだ者は許さない。どこへ逃げようが、顔や戸籍を変えようが、必ず狩り出してお前を殺す。必ず殺す』
そして、金森の携帯に送った。
私の過去は隠蔽されているが、一部で噂になっていることは知っている。
『佐伯はキレると手が付けられない――』
金森もそれを聞いたことがあるなら、恐れるはずだ。恐れれば、今のうちに危険を取り除きたいと考える――そう考えて、この病室に来てほしい。
そうでなければ、多恵を救う手段を得られない。
私の怒りを叩き付けることができない。
事実、私の中には憎しみが静かに、しかし激しく燃え上がっている。警官であることなど、もはや些細な問題でしかない。
金森を殺せるものなら、ためらいはしない。
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