第4章・カウンター アタック

 人質たちは、デイコーナーに集められていた。数はおよそ十五人。ナースステーションには、五人のナースが固まって座っている。ステーションの両側には東方向に向かって伸びる廊下があり、廊下の中央がエレベーターホールと階段につながっている。

 そこからはすでに、多くのスタッフと動ける患者が逃げ出していた。病室に残っているのは、機敏に動けない病人ばかりだ。警察が事態を察して上がってくるまで、数分の猶予しかない。

 仁科は、南側の廊下の端に立っていた。サオリを前に抱え、こめかみに銃を突きつけている。北側の廊下は夏山が押さえていた。美緒の腹を背後から抱え込み、首筋にナイフを当てている。人質の中にいる健康な男は、陣内一人だ。他は老人と病人ばかりで、二人の女を押さえられては抵抗を企てることはできない。

 南側廊下の中央に制服警官が現れる。銃を向けているが、狙いは定まらない。

「君たち! 何をしているんだ⁉」

 その声も震えていた。

 仁科が叫ぶ。

「人質を取った! 警察はこのフロアに上がってくるな! 人質が死ぬぞ!」

 そして、銃口を警官に向ける。

「待て! 話を聞こう!」

「要求は、こちらから連絡する。窓口を決めておけ」

「バカな真似をするな!」

 仁科が笑いを漏らす。

「バカはおまえだ。下っ端が、偉そうに。おまえ、どんな立場で言ってるんだ? 人質が殺されても、責任が取れるのか? 上の人間に話しをつなげ!」そして、さらに声を張り上げる。「そら! 引っ込め!」

 青ざめた警官は、弾かれたように身を引いた。

 仁科は身を翻す。

 デイコーナーでは、それぞれにナイフを持った部下が患者とスタッフを見張っていた。患者たちは怯えを隠せない。その中には、患者の容態を気遣う多恵と陣内の姿もあった。

 VIPルームには、動けない佐伯とケタミンで意識を失った三人の警官が残されている。撃たれた警官も形ばかりの応急処置を受け、人質を刺激しないようにVIPルームの床に寝かされていた。

 人質の中から、不意にサオリがか細い声を上げた。

「トイレに行かせて……」

 仁科が、あえてみんなに聞こえるように言う。

「我慢しろ!」

「ムリ……行こうとしてた時に、急にあんたたちが……」

 仁科はデイコーナーの反対側にいる夏山に言った。

「おまえ、こっちに来い。代わりに誰かそこに立たせておけ。こいつをトイレに連れて行く。警官はしばらく来ないだろう」

 夏山がうなずく。

 仁科はサオリを押しながらVIPルームへ向かった。二人はトイレに入り、今後はサオリが人質の中に紛れ込んだまま事態をコントロールしていくように打ち合わせた。

 数分後、デイコーナーに戻った仁科はサオリを人質の中に戻し、夏山に歩み寄って耳打ちした。

「警官、死んでたぞ」

 夏山が声を落とす。

「本当か?」

「それぐらい、医者じゃなくても分かる」

「まずいな……」

「人質には知られないようにしろ。おまえの兵隊にも、だ。逃げ出されたら厄介だ」巽や署長の身分証から、考えもしなかった大物を人質にしてしまったことも分かっている。状況は、悪化するばかりだ。もはや、後戻りはできない。「もう、崖っぷちだ。警官を殺したんだ。今までとは状況が違う。ただの人間を殺したのとも違う。サツ殺しは、徹底的に追われる。しかも、人質が警察の偉いさんだ。今更降参したところで、下手すりゃ死刑だ」

 高木はナースステーションの中にMAC BOOK・AIRを置き、素早くキーボードを操作している。仁科から命じられた病院の建築図面をハッキングするのに熱中していたのだ。視線はモニターに注がれたまま、短く太い指先がピアニストのようにキーボードの上を走り回る。

 そのモニターは、黒い画面に浮かんだ記号で埋め尽くされていた。何行にも及ぶ文字の羅列が、画面の中をゆっくりと上へ流れていく。『ターミナル』と呼ばれるアプリケーションの画面で、ここからUNIXで運営されるサーバをダイレクトに制御することが可能なのだ。MACはウィンドウズとは全く違う独自の操作感を持ったOSを備えているが、その基本はUNIXで構築されている。根幹が同じUNIXとの親和性は抜群だった。

 高木は病院のネットワークに侵入し、ファイヤーウォールとの戦いに集中していた。コードを読み、プログラマーが仕掛けた防御線や罠を見抜き、穴がなければそれを作り、パスワードの暗号を解読して、こじ開ける。壁は厚かった。だが、いったん侵入できれば中の情報は取り放題だ。病院全体を一台のMACから制御できる。他者を閉め出す防御壁として逆用することも可能だ。

 攻防は佳境を迎えていた。

 仁科は、人質たちに向かって怒鳴った。

「携帯やスマホを持ってる奴! 今から仲間が回るから、渡せ。隠すなよ。隠した奴は、命はないと思え」そして、高木に命じる。「お前、集めろ」

 高木はキーを打つ手を止めない。モニターを前にした高木は、人が変わったように自信に満ちて生き生きとしていた。

「もうすぐセキュリティが破れるんだけど……」

 仁科がナースステーションのカウンター越しにMACを覗き込む。

「で、何ができる?」

「破ってみないと、何が入ってるか分からない。患者やスタッフの情報は丸裸だろうね。病院だとは思えないほど厳重なシステムだから、建物の構造とかの図面も出てくると思う。建物が新しいし、照明とかドアロックとか、電動の場所はたぶん全部このMAC一台でコントロールできる」

「監視カメラは見られるか?」

「初歩だね」

「じゃ、続けろ」そして、傍らに来ていたピアスを見上げる「ケータイはお前が集めろ」

 ピアスが夏山の顔色を伺う。

 夏山は不満そうな表情を見せながらも、小さくうなずいた。

 ピアスはナースステーションのカウンターから書類が入ったトレーを取り、逆さまにして中身を捨てた。その音に身をすくめた患者の間を回りながら、スマートフォンや携帯を奪ってトレーに集めていく。

 サオリが声を上げる。

「これ、携帯じゃないよ!」

 ピアスがイヤフォンを取り上げようとしていた。その先には、真四角で小さな赤いiPodがつながっている。

 ピアスはサオリのあごをつかんでねじ上げていた。

「うるさい!」

 サオリがそれでもピアスの手首を押しのけようもがく。

「いやだ!」

 それに気づいた仁科がピアスに命じる。

「それは取らなくてもいい。そんなもんじゃ写真も写せないからな。ガキにわめかれるとうるさいから、音楽くらい聞かせておけ」

 仁科を睨んだピアスは、フンと鼻で笑いながらサオリを軽く突き飛ばした。次の人質から携帯を取り上げていく。

 サオリに必要なのはiPod本体ではなく、イヤフォンの方だった。仁科と情報をやり取りする〝通信機〟に使っていたのだ。通信器本体はトイレに入った際にいったん仁科が預かっていた。隙を見てまた渡せば、仁科から指示を送ることができる。人質が抵抗した時には、サオリも制圧する助けにできるのだ。

 と、スタッフの中から陣内が進み出た。

「君たちの望みは何だ?」

 仁科が陣内を見つめる。

「動くな。話はするな」

 陣内は引かない。

「ここにいるのは病人ばかりだ。私は医者だ。黙ってはいられない」

「自分の命を落としても、か? しばらく待て。お前が患者を黙らせろ。俺たちを邪魔するような事をしたら、個室に残ってる患者を殺す」

 陣内は何も言い返せなかった。

 夏山が仁科に歩み寄ってさりげなくささやく。

「ほんとにどうする気なんだ?」

「ちょっと向こうへ行こう」

 仁科は、二人の様子をうかがっていた高木にも目配せする。高木はMACを抱えて従う。

 三人はVIPルームの隣の、無人になった病室に入って扉を閉めた。

 高木が言った。

「ファイアウォール、破れたよ」

 仁科がうなずく。

「で、何ができるか分かったか?」

「警備システムに組み込まれていることは、全部。予測通り、玄関のドアとかあっちこっちにある防火シャッターも制御できる」

「ほう……やるじゃないか。このフロアのこっち側を、他から遮断しろ。階段からサツに突入されたら困る。それと、病院中の監視カメラをナースステーションで見られるようにできるか?」

 高木が目を輝かせてうなずく。まるで、コンピューターゲームを楽しむ小学生のようだ。

「そこらじゅうにパソコンがあるから、集めて繋げれば簡単」

「他に何か思いつくことはあるか?」

「何か、って?」

 仁科は、高木を操る〝鍵〟を思いついていた。それを試す。

「コンバットゲームだと思え。お前なら、どうやってここに攻め込む? どうやってそれを防ぐ?」

 案の定、高木は身を乗り出してきた。

「SITとかSATとかが動くだろうけど、まだ時間はかかるよね……。それまでは市内の警官を集めて外を固めて、内部の様子を探る……こっちとしては手の内を知られたくないから、病院に残っている患者はさっさと追い出すべきでしょう。病院全体、空にするのがベスト。人質が多すぎても、まとめきれないしね。いいとこ、一〇人ぐらいかな。カーテンは全部閉めて、人質はなるべく外の壁から離す。赤外線カメラとかレーザー盗聴器とかで探られるから……って、この街にそんな装備があるのかどうか、知らないけど」

「同意だ。その線で守ろう。攻められた時はどう凌ぐ?」

「この区画を防火シャッターで隔離すれば、簡単には破れないし、攻撃されてもすぐ分かる。そもそも、廊下や待合室、それからベランダにも監視カメラがあるしね。病室一つ一つには付いていないから一人二人なら死角を縫って動けるかもしれないけど、突入部隊全部は隠しきれないよね。念のために、病院中の照明は全部付けておいた方がいいね。明るければ、それだけでも隠れにくくなるから。廊下からは攻めて来ないでしょう。来るなら、窓。篭城が長引くなら、屋上からロープで降下して夜明け前に突入っていうのが一般的だよね。でもベランダのカメラに映るから、突入前には必ずこっちの注意をそらす。僕だったら……いきなりスプリンクラーを作動させるとか」

「そんなことができるか? システムはおまえが握ったんじゃないのか?」

「消火系は自動的に反応するから。先に一人潜入させて、防火シャッターの向こう側で小火を起こす、とかね。こっちには消火液が出なくても、いきなり警報が鳴れば慌てるでしょう? その隙に突入する」

「防げるか?」

「たぶん。消火システムを詳しく調べるのに少し時間がかかるけど」

「やれ。他にも警察の突入を止める方法があれば、全部やっておけ。それから、監視カメラの録画を止めて、過去のデータも全部消せ。俺たちが写ってたらまずい」

 じっと聞き耳を立てていた夏山が、こらえきれずに苛立ちをあらわにする。

「立てこもり前提かよ⁉ だから、この先どうすんだって⁉」

「前提、じゃない」仁科の口調は反論を許さない。「確定なんだ。やらなきゃならないのは、佐伯に金とヤクの在処をしゃべらせることだ。佐伯は動かせないし、しゃべれない。回復を待つしかない。だから、待つ。ここまで来て、逃げるか? 捕まらなくても、一生追われるぞ。その上、何ひとつ手に入らない」

 高木が不意に現実に引き戻され、不安げにつぶやく。

「でも、僕、やっぱり逃げたい……」

「それは残念だったな。諦めろ。で、どうする、夏山。何も得られないまま、サツ殺しで逃げ回るか? それとも、10億以上の金を狙って勝負をかけるか。ここから脱出できたとしても、今、国外逃亡できる金を持っているのか?」

「そんなもん、あるかよ……。むしろ、勝手にミンタブ売り捌いていたから、組に疑われてるし……」

「奴が隠しているミンタブを奪えば、組と交渉する材料にできる。製造再開のメドが立てば、逆に組に守ってもらえる。サツとも渡り合える。一時的にみんなで国外に飛んで、身元をキレイにすることもできる。その時は、必ず俺たちも連れて行くんだぞ」

 夏山の答えは簡単だった。

「だよな……。捕まれば、余罪がわんさかだ。どうせ、ムショから出られないか、組に追われるかだしな……これも、運命か。デカイ賭けができるチャンスだってことだな。分かった、勝負だ」

「じゃ、いいな。俺たちは、政治的な思想を持ったテロリストだってことにして、騒ぎをデカくする。佐伯が回復するまで、めいっぱい時間を稼ぐんだ」

 高木が怯えた声を絞り出す。

「デカくして、どう逃げるんだよ……僕、そんなの嫌だよ……」

 仁科はなだめるように言った。

「あのな、泣こうが喚こうが、もう遅いんだ。黒幕は隣で寝込んでる佐伯だ。俺たちを操っていたリーダーも刑事だと考えていい。刑事しか知らない捜査情報を利用して俺たちを脅して、組織を作った。お前だって、奴から脅迫されてこの話に加わったんだろう? 俺たちがせっせと金を貢ぐ飼い犬だったうちは、奴はサツから組織を隠していた。だが、ヤクが作れなくなったら用なしだ。それどころか、明らかにお荷物だ。だから、俺たちを切り捨てようとした。情報はとっくに筒抜けのはずだ。この場は誤摩化せたとしても、夏山と一緒に国外に逃げなければどっちみち助からないんだよ」

「でも、そんなに巧くいくはずないじゃない……ゲームじゃないんだし……」

 仁科は言い切った。

「ゲームなんだよ。そう思え。日本はテロに甘い。スパイ防止法どころか共謀罪すら作れない軟弱な国だ。しかも、人質は病人だ。早く決着をつけないと人質の命が危ない。だからこっちの要求が通りやすい。これから脱出の方法を考えて、要求する。なるべく立てこもりが長引く理由をこじつけて、その間に何とか佐伯にしゃべらせる。お前、エレベーターは止められるか?」

「メンテナンスシステムにも入れる。電源、切れるけど……」

「それもやれ。それから、サオリにはこのまま人質に紛れ込めと言っておいた。情報源になるからな。そのつもりで、気安く声をかけたりするなよ」

 高木は冷や汗を拭いながらMACを広げ、その場で操作を始める。

 夏山が言った。

「だけど、政治的って、何を言えばいいんだ?」

「何だっていい。警察が信じれば、な。これから考える」

 そう言った仁科は、さっさと病室を出て陣内のもとへ向かった。厳しい視線を向ける陣内に問う。

「佐伯は、いつしゃべれるようになる?」

「言ったろう? 分からない」

 仁科は美緒の腕をつかんで引き寄せ、銃を頭に突きつけた。

「いつしゃべれる⁉」

 陣内は、落ち着いていた。

「脅されても、答えは同じだ」

「しゃべれるようになるまで、監禁は続くぞ」

「急速に回復していることは確かだ。当然、できる限りの治療を進める。こんな状況では、できることは知れているがね。だが、約束できるのはそれだけだ」

 二人は睨み合い、辺りは一瞬、沈黙に包まれた。

 と、背後で何かが倒れるようなかすかな音が響いた。廊下の中央、エレベーターホールからのようだ。

 身を翻した仁科は反射的にホールに向かって走り、壁の角に身を隠す。

 ホールから出てきたのは、洗剤や掃除用具をぎっしり乗せた大きなカートだった。太り気味の〝掃除のおばさん〟が、落ちたモップを抱えてカートを押してくる。

 仁科は中年の女の脇腹に銃を突きつけて命じた。

「騒ぐな。デイコーナーに行ってろ」

 息を呑んで怯えた目で銃を見つめた女は状況を把握すると、がくがくとうなずいてカートを押していった。

 仁科は病室から出てくる高木に言った。

「エレベーター、動いてるぞ!」

「今、停まったばかりだから」

 と、ナースステーションから電話のコールが聞こえた。

 仁科が叫ぶ。

「誰も出るな!」そして、高木につぶやく。「建物の平面図をプリントしとけ。内線電話も止めろ。防火シャッターも降ろせ。外からこっちのことが分からないように情報を遮断しろ。ネットも使えなくしろ」

「無線LANはつなげておいてほしいな。こっちも外の状況が分からなくなるから」

「確かに、それも困るな……」

「誰かがシステムに侵入してくれば、僕からは見えるから、簡単に閉め出せる」

「任せる。ナースステーションに機材を集めて情報を管理してくれ」

「分かった」

「おまえ……やっぱり本物だったんだな。期待したよりはるかに役に立つ」そして仁科はナースステーションに近づくと、カウンターに置かれていたスマートフォンの山の中から旧式の携帯を取り出して、電池の残量を確認した。「携帯の方がバッテリーが保つからな。残りの電話、完全に使えなくできるか? 俺たちの写メとかのデータが残っていたら困る」

「壊していいの?」

「構わない」

「それなら、電子レンジでチンすればいい。レンジ、どこかにあるでしょう?」

「じゃあ、それもやれ。全部終わったら、警察のデータをハッキングしろ。俺たちのリーダーだったヤツを知りたい。倉庫で殺されたって刑事……金森って名前らしいが、俺はそいつがリーダーだと思う。佐伯が殺したなら、あいつが金もブツもさらったのは間違いない。確かめる必要がある。写真を出すんだ。佐伯と同じ署から調べ始めろ」

 高木は不満そうだ。

「それ……いやだな……」

「できないのか?」

「じゃなくて、やりたくない……」

「なぜだ? おまえ、リーダーが何者か知りたくないのか?」

「警察にはケンカ売りたくない……怖くて、試したこともないし……」

「バカが。今やってるのはテロだぞ。ケンカどころのレベルじゃない。お前はこれから、日本国に牙を剥いて国際指名手配犯になるんだ」

「そんな……」

「さっさと言われたことをやれ。このままじゃ人質を抑えられない。始めるぞ」そして、手にした携帯から110をコールした。「警察に告ぐ。この通話を録音をしろ。もう連絡が行っていると思うが、国元総合病院を占拠した。最上階の患者を人質にしている。警察署長の身柄も抑えた。我々がいる区画以外を一時間以内に無人にしろ。病人も全て他の病院に移動させろ。こっちは本気だ。しばらくしたら証拠を見せる。最上階の非常階段を見ていろ」


           *


 奴ら、何をしてる……?

 多恵も連れて行かれたようだ。かすかな物音は聞こえる。さっきまで時たま聞こえた悲鳴も、なくなった。一度、何人かが入ってきてトイレを使ったようだが、話し声は私まで届かなかった。それ以後は、妙に静かだ。不自然に静まり返っている。絶え間なく感じていた病院の喧噪が消え去ってしまった。

 意識がはっきりしてきた。鎮静剤も、あまり強いものではなかったようだ。

 病室の中にも、物音はない。人の気配もない。無人なのか? 奴らの目的は、私ではないのか?

 金森が私を黒幕に仕立て上げた事は間違いない。警察もそれに欺かれ、多恵まで疑っている。だから奴らも騙されて、私から情報を聞き出そうとしたのだ。

 目的は、金森が隠した金だ。

 ならば、なぜ今、私を放置する?

 私が言葉すら出せないと分かったからか?

 それは、奴らの誤算だ。身体は動かせなくても、話ぐらいはできると決めつけていたに違いない。だが私も、奴らの勘違いを正すことができない。金など知らないと、説得することができない。金森が生きていることも教えられない。

 さっきの銃声は何だ? 何のために銃を使った? 患者たちを脅すためか? 篭城して、私の意識が回復するまで時間を稼ごうというのか? そのために銃を持って病院に乗り込んできたのか? 

 いや、そんなことで発砲するのは大げさすぎる。警察が厳しく警護していると分かっている病室を襲うなど、自殺行為だ。

 いったい、何が起こっている……?

 敵の考えが読めなければ、対策の打ちようもない……。

 せめて、この部屋の中がどうなっているのか知りたい。扉が開いたままなら、外の様子も確かめられるかもしれない……。だが、首を上げることさえできない。もどかしい。

 外が見られれば……。

 iPodがある! 多恵は、これはスマホのような機械だと言っていた。スマホは使ったことはないが、カメラ機能も付いているはずだ。

 iPodを視界に上げる。見えた。電源を入れる。文字を打つ時には、メモ用紙のようなアイコンのアプリを使った。画面には、カメラのレンズのアイコンもある。触れてみる。

 見えた! いきなり、ディスプレイに天井が映る。これなら、室内が見える。

 ゆっくり腕を動かす。広い病室だ。

 何だ、この部屋は……?

 純和風のしつらえで、一目で金がかかっている事が分かる。病院のはずなのに、まるで高級旅館じゃないか。ピンと来た。元総理の地元政治家が、ごり押しして作らせたという噂があった部屋だろう。この病院には、本当にそんな部屋があったんだな……。

 だが、なぜ私がそんな特別な個室に入れる? 一介の所轄刑事でしかないのに……。

 それも、麻薬密造組織の件を考えれば納得できた。警察は私が黒幕だと疑っている。部下を殺したと思っている。前代未聞の内部犯罪は隠し通したい。だから厳重な警備が付けられる部屋に閉じ込めて、マスコミから隔離しようとしているのだ。

 扉が見えた。閉じられている。もちろん、人影はない。と、床に何かが……。

 警官だった。制服が切り裂かれ、治療の痕がある。胸一面に血糊がべったり張り付いている。だが、全く動いていない。かすかな呼吸もしていない。

 死んでいる……。

 銃声の理由が分かった。奴らと乱闘になって逆に撃ち殺されたのだ。わざわざ警官を殺し、事を大きくして得られるものなどない。奴らの狙いは私から金の在処を聞き出すことだ。それさえ分かれば、素早く病院を立ち去って金を奪えばいい。

 あえて警察に牙を剥く理由はない。

 これは、一種の〝事故〟なのだろう。その事故が、犯人グループをのっぴきならない立場に追い込んだようだ……。

 反対側は見えないものか? 画面の上部に、カメラの絵の中に回転する矢印が描かれている。触ってみると――画面が切り変わった。

 いきなり自分の顔が映し出される。前面のカメラの画像に切り替わったのだ。鏡を見ているようだ。

 バットで殴られたようなショックがあった。

 映った顔はまるで他人だ。プラスティックの酸素マスク。無精ヒゲに覆われた、やつれた顔。ひどく青白い。鼻には、透明なチューブが差し込まれて――。

 まぎれもなく病人の姿だ……。

 これが現実なのだ……。

 死の一歩手前まで追いやられ、体内に大量の薬品を流し込まれ、大勢の介護を受けて辛うじて生き延びている病人……動くことはおろか、話すことすらできない廃人……

 こんな男に、銃を持った犯罪者たちに抗えというのか……? 現実に警官を射殺している奴らと闘えというのか……? 不可能だ……

 こんな男に、多恵を守ることなどできるわけがない……

 多恵を……

 だめだ! 気持ちで敗れれば、そこで終わりだ! 決して勝つことなどできない!

 できるかどうか、ではない。やらなければならないのだ。

 やらなければ、多恵を救えない。

 多恵を巻き込んだのは私だ。私には、多恵を救う責任がある。

 それだけが現実だ!

 自分の姿など見るな! 忘れろ!

 怒りを思い出せ! 闘争心をかき立てろ! 狂気に身を任せろ!

 まずは、現状を把握するんだ!

 iPodをわずかに立てる。部屋の反対側が映った。角度を変えると、全体が見渡せそうだ。大きなソファーがあった。人間が寝かされている!

 制服警官――署長だ! 殺されたのか⁉ いや、呼吸はしているようだ。意識はなさそうだ。薬を射たれたのだろう。その横に別の男が倒れているようだ。ズボンの脚が見える。靴は……安西のものだ。よく見ると、もう一人倒れている者がいるようだ。ソファーの陰になっているが、わずかに腕らしいものが見える。

 三人の男が倒れていることになる。薬で意識を失わせて、警官を排除したということか……。

 私の予測にぴったりとはまる。彼らは見張りの警官を眠らせ、その間に情報を得て逃げようと計画した。だが、私がしゃべれない上に、警官を射殺して筋書きが狂った。病院には多くのスタッフと患者がいる。私の警備に警察が集まっている。発砲騒ぎを起こせば、気づかれない訳がない。警察はすでに、この病院を封鎖しているはずだ。

 奴らも、逃げられない。追いつめられている……。

 こんな事態になる前なら、全ては金森の策略だと知らせれば撤退したかもしれない。iPodの筆談で私が金の在処を知らないことを告げれば、長居をせずに金森を追っただろう。奴らが私を信用すれば、ではあるが……。

 だが、もはや警察の網を逃れて病院を出ることは不可能だ。今さら金森が黒幕だと教えても、事態が好転する保証はない。金が手に入らないと分かれば、部下たちがヤケになって仲間割れを起こす恐れもある。人質を盾にして脱出を図れば、犠牲が出るかもしれない。

 もう少し様子を見るべきだ。

 奴らは、今、何をしているのか……? これからどうしようというのか――? 

 そのとき、扉の方向に人の気配がした。

 iPodを握った腕を下ろし、背中の下に隠す。

 奴らが来るのか? 私は意識もなく、動けないと思っているはずだ。今は、そう思わせておきたい。その間に、集められる情報は全て集めなければならない。

 いずれ、奴らにも油断が生まれる。集めた情報が役に立つ時が、きっと来る。準備を怠ってはならない。

 追いつめられた犯罪者は、簡単に暴走する。そうなれば、もっと多くの犠牲者が出る。

 防がなければならない。

 多恵や私だけではなく、今や病院全体が危険に晒されている。

 やらなければならないのだ。

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