4
仮眠室に向かう前に、美緒はシャワー室に寄った。軽く汗を流して廊下に出ると、エレベーターホールから飛び出してきた制服警官とぶつかる。
何度か見かけた、警察署長だ。
署長は美緒に詫びようともせずに、質問した。
「君、佐伯の担当の看護婦かな? 安西君を見なかったか? ここに詰めていた刑事だ」
一〇分ほど前、二人連れでVIPルームに入る後ろ姿を見かけた。
「佐伯さんのところだと思いますけど……」
「このフロアにいるんだな? じゃあ、なぜ電話に出ない⁉」
署長は投げ捨てるように言うと、礼も言わずに大股でVIPルームへ進む。
そちらへ向かっていた美緒は、署長の後を追う形になった。もごもごとつぶやく。
「なにそれ、わたしが悪いみたいじゃん。ただでさえ警察が邪魔なのに。お守りなんかしてられないわよ……」
署長は早足で、どんどん先へ行く。厳しい表情で先を急ぐ制服の警官を見て、廊下に出ていた患者やナースが飛び退くように進路を空けた。
と、同時にデイコーナーの奥から女性の金切り声が上がった。
「あーうわーいやー」
意味不明の叫びを聞いた瞬間、美緒にはそれが斉藤ツネの声だと分かった。滅多に大声を出さないツネだったが、何かを強く拒否する時に見せる反応だ。
デイコーナーを見渡すと、VIPルームの入り口近くで車椅子に乗ったツネが身体をねじって両手を振り回していた。表情は恐怖に歪んでいる。その後ろで、話し相手を頼んだサオリが困惑した表情で辺りをきょろきょろ見回している。
ツネは叫び続ける。
知らずに、ツネの癇に障るようなことをしてしまったのだろう。美緒は、素人のサオリにツネを預けたことを後悔した。二人のもとへ急ぐ。
同時に、叫び声を聞きつけた警官もサオリの方へ向かっていた。デイコーナーで警備に当っていた、交番勤務のような制服の若者だ。
デイコーナーにいた一〇人程度の老人たちと介護福祉士やナースの注目が、うろたえるサオリに集まる。
背の低い警官は途中で署長に気づき、足を止めて頭を下げた。
「署長。お疲れさまです」
署長はツネの叫びに顔をしかめながら、警官に命じた。
「ご苦労。君は一緒に来たまえ」
二人はツネを無視してVIPルームへの通路に入っていく。
美緒の姿を見たサオリが、ほっとしたように緊張を解く。
「おばあちゃん、いきなりこんなになっちゃって……」
美緒はサオリに笑いかける。
「ごめんね、面倒なことお願いして。心配しないでね」
美緒はもがくツネの傍らに屈むと手を握って、なだめ始める。
「おばあちゃん、ミオだよ。怖くないよ。大丈夫だからね……」
サオリはその姿をぼんやり見下ろしていた。
美緒のゆったりした口調に安心したのか、ツネは声を落として次第に落ち着いていった。
と、短い通路の奥から署長の声が響く。
「そこの看護婦さん!」
デイコーナーの人々の視線が、今度はその大声に向かう。
背後から声をかけられた美緒が小さく溜息をもらして、振り返る。
「わたし、ですか?」
署長は美緒を見ていた。VIPルームのドアが開かないらしい。
「合鍵を持っていないか⁉」
緊急時に備え、一般病棟のドアに鍵はない。だが、VIPルームだけは、セキュリティを優先して内側からロックできるようになっていた。そのかわり、担当のナースが合鍵を持ち、いつでも対応できる規定になっている。
美緒は立ち上がりながらポケットからチェーンにつながった合鍵を出し、VIPルームに向かった。鍵を開けながらつぶやく。
「多恵ちゃん、鍵かけたのかな……」
ドアが開いたとたん、背後で押し殺した声がした。
「しゃべるんじゃねえ」
その荒々しい口調に美緒が振り返る。
狭い通路を、いつの間にか二人の男が塞いでいた。警官たちの両脇に立つような形になっている。二人とも、サングラスにマスクで顔が見えない。だが、崩れた服装から、一目で暴力に慣れた人種だと伺えた。
一人は、手に隠し持った小さなナイフを署長の首筋に突き上げていた。夏山だ。署長はひっと息を呑んだまま、動けない。
若い警官は、Gジャンを着た男に腕を背中にねじ上げられていた。警官の目は、署長の首のナイフに向けられている。
通路の奥の出来事は、デイコーナーからは見えない。休憩所は何事もないように、いつもの風景に戻っていた。老婆が乗る車イスの傍らに立つサオリだけが、じっと彼らを見つめていた。
中からドアが開き、男が首を出す。
「入れ」
美緒が見知らぬ男だ。
「誰⁉」
その時だった。腕をねじられた警官が激しく身をよじった。反対の手で腰のホルスターを開き、拳銃を抜いて叫ぶ。
「離せ! 署長に何をする⁉ 公務執行妨害の現行犯だぞ!」
デイコーナーの動きが止まり、皆が通路を覗き込む。何が起こったのか理解できない様子だ。
警官を押さえていたGジャンがつぶやく。
「黙れ、チビが」
Gジャンが、警官の手を離す。わざと解放したのだ。
警官は身体を回して、両手で握った拳銃をGジャンに向けた。両手がブルブル震える。
Gジャンは無言だった。だが、素早い。一瞬の出来事だった。
すっと警官との間合いを詰めると、手のひらを突き上げて銃口を上に向ける。
銃を奪われそうになった警官が引きつったような声を上げる。
「やめろ!」
その瞬間、病棟に銃声が鳴り響いた。狭い通路に残響がこだまする。
警官が膝を折って崩れる。Gジャンの手には、銃口が天井に向いた拳銃が残っていた。嘲るように吐き捨てる。
「安全装置、外したのかよ」
署長は呆然と、倒れた警官を見下ろした。まるで、出来の悪い蝋人形のように血の気が引いている。
ドアから顔を出していた仁科が、署長を無視して夏山につぶやく。
「馬鹿が。何でこんなゴミ連れてきたんだ」
言われた夏山が応える。
「不可抗力、だな」
Gジャンが銃を握り変えて、警官の身体につながったコイル状のワイヤーを外す。銃口を仁科に向けて、睨んだ。
「撃ったのは、このポリだ。だが、俺をゴミ呼ばわりするなら、あんたにぶち込んでもいいんだぜ」
Gジャンはゆっくり銃を上げ、仁科の額を狙う。
夏山がうんざりしたように命じる。
「やめろ。金が欲しいんだろう?」
仁科が部屋を出て、男の手から銃を奪った。
Gジャンは、ふんと鼻で笑いはしたが、逆らわなかった。
倒れた警官の胸から、間欠泉のように血が沸き出す。急速に血溜まりが広がっていく。銃弾が、斜め下から心臓を貫通したようだ。
美緒が小さな悲鳴を上げた。それを合図に、デイコーナーでも一斉に悲鳴が上がる。ナースステーションのスタッフたちも、怯えた表情で彼らの姿を覗き込んでいた。
その中でサオリが、老婆に向かって何かを語りかけていた。
しばらく何かを考え込んでいた仁科は仕方なさそうに溜息を漏らすと、通路の人間をかき分けてデイコーナーに出た。
銃口を天井に向けて振り返ると、夏山に向かってつぶやく。
「腹を括れよ……警官撃ったら、もう逃げられやしねえからな……」
そして、引き金を引く。
二度目の銃声で、再び辺りが沈黙した。
仁科は腹に力を込めて大声で叫んだ。
「みんな、動くな! 動いたヤツはぶっ殺すぞ!」
そして、ポケットに左手を入れて振り返った。取り出した注射器の針のキャップを指先で外すと、怯えが隠せない署長の首の横に突き刺す。署長は無言のまま仁科を見つめたが、呆気なく部下の血の上に崩れた。
仁科は銃を掲げたまま、患者やスタッフを角へ追いやっていく。
「おまえら、そっちに集まれ! ほら、もっとかたまれ!」そして、夏山に命じる。「手伝え! 向こうの廊下も塞げ!」
夏山と部下たちが弾かれたように飛び出し、患者たちをナイフで脅しながら集めていく。
VIPルームから出た陣内が血だまりにしゃがみ込み、警官の制服を開こうとしていた。
「何でこんなことに……?」
彩花がVIPルームのカートからハサミを持ち出し、通路に出て制服を切り始める。
近くでは、高木がMAC BOOKを抱えて硬直している。
仁科は陣内たちを無視して、高木に命じた。
「おまえ、そっちに入れ」ナースステーションに向かって銃を振る。「奥を見て誰かいたら、こっちに追い出せ! ほら、行け! 従わないと、おまえも撃つぞ! いいか、逃げようなんて考えるな! おまえもどっぷり浸かってるんだからな」
青ざめた高木がガクガクとうなずいて、ステーションへ飛び込む。三人のナースが、奥から追いやられてくる。
廊下からその様子を伺っていたスタッフたちが、患者をかばいながらエレベーターホールへ逃げていった。
夏山が叫ぶ。
「あいつら、逃がしていいのか⁉」
「止められないだろうが」
仁科は、サオリに銃を向ける。
「おまえもそっちに行け!」
サオリはしゃがんで、老婆をかばうように抱きしめた。
「おばあちゃん!」
不意に抱き付かれた老婆は、恐怖の表情を浮かべてサオリから逃げようともがく。
仁科はサオリの頭に銃を突きつけ、耳元に口を寄せてささやいた。
「佐伯がしゃべれないって、何で教えなかった⁉」
「え? そうなの?」
「ちっ……おまえ、患者たちを落ち着かせてくれ」
サオリが小声で、さらに何事か答える。二人の会話は、老婆にしか聞こえなかった。
背筋を伸ばした仁科が、ナースステーションに銃を向ける。
「そこの奴ら! 動くなよ!」不意に、内線電話が鳴る。「出るな! 誰も出るな!」
夏山が仁科に走り寄って言った。
「どうすんだよ、こいつら集めて⁉」
「決まってるだろう。人質だ」
「人質……って、なに始めるんだ⁉」
「立てこもるしかないだろうが」
「バカ、逃げようぜ……」
「逃げ切れるか⁉ 病院中、まだ警官だらけだ! 銃声を聞いてすぐに押しかけてくる。逃げたヤツらが、今頃騒いでる」
「だって……立てこもって、どうするんだ⁉」
「何が起こってもいいように、兵隊連れて来たんだろう? 警官を撃ったのはそっちだろうが。佐伯がしゃべるようになるまで時間を稼ぐ」
「今さら、そんなこと……」
「サツまで撃って、手ぶらで帰れってか⁉」
美緒がナースステーションに向かう。
仁科が銃を向けた。
「動くなって言ったろうが!」
美緒は止まらなかった。
「道具と薬品を取ります! おまわりさん、手当しないと死にますよ!」
仁科は一瞬考えた。殺人と傷害では、罪の重さが大きく変わる。
「分かった。行け」
だが、応急処置に当った陣内の手はすでに止まっていた。呆然と警官を見下ろすだけだ。
彩花がつぶやく。
「もう無駄かも……こんなに出血してたら……」
*
なんだ……? 銃声……か?
まさか……病院で……銃声なんか……
頭がはっきりしない……靄がかかっているようだ……だが、あれは銃声だ。聞き違えるはずはない。
何が起こった……? 何が始まった……?
まさか、多恵が殺されたのか……⁉
いや、そんなはずはない……
多恵は脅されていた……私を脅す道具に使われていた……狙いを果たす前に、殺されるはずはない……
倉庫にいた男だ……あの目は、見間違えない……その後に、銃声が……今も外は騒がしい……他にも、仲間がいる……
あいつらが、また集まったんだ…… だが、何者なんだ……? 金森の手下なのか……? 金森が操っているのか……? だが、金森は姿を消しているはずだ……手下たちを切り捨てたはずだ……
分からない……
だが、誰が元凶かははっきりしている。
金森だ。
許せない。
戦わなければ……。だが、どうやって……? 怒りをかき立てたところで、何の役にも立たない……
だが、何もできなければ、多恵が犯罪者にされる……。銃まで持っているなら、本当に殺されかねない……。
多恵を守るんだ。なんとしても、守るんだ。多恵だけは。
時間がない……一刻も早く何とかしなくては……
方法は……? 方法はないのか⁉ どこにいるかも分からない金森と、どう戦う……?
畜生、集中できない……
まだ薬が効いてるのか……何だって、こんな時に……
何か、できる事はないのか……
金森は自由だ……手に入れられる物は、全て手に入れたはずだ……もはや、国外逃亡だって可能だろう……とっくに、逃げているかもしれない……
なのに、私は動けない……足取りを調べることもできない……追うこともできない……警官として当たり前のことができない……
しかも、すぐそこで犯罪者たちが銃をもてあそんでいる……
止めなくては……多恵が危険だ……
それなのに、私は……
だめだ! このままじゃ、だめだ! こんなんじゃだめだ!
これじゃ多恵が守れない!
気持ちで負ければ、誰も救えない!
畜生! 私はそんな弱気な人間じゃない! 怒りに任せて人を殴り殺せるような凶暴な男だ! 本当は粗暴な犯罪者と何も変わらない、アウトローなんだ!
怒りをかき立てろ!
狂気を解き放て!
思い浮かべるんだ! 金森の顔面に拳を叩き付けろ! 骨を砕け! 首に両手を回して締め殺す自分を思い浮かべろ! 顔面を踵で踏みつけて脳みそを潰す自分を想像しろ!
怒りを爆発させるんだ!
何かできることがあるはずだ! たった一つでもいい! できることを探せ!
考えろ! 考えるんだ! 今の私でも、できることがきっとある! できることは……
ある!
私は動けない。ならば、金森をここに来させるしかない! 奴を足止めさせる! この病院へおびき出す!
頭が急速に回転し始めた。
どうやって⁉
餌を与える――?
だめだ。奴はすでに、逃げればいいだけの立場にいる。これ以上の利益には見向きもしないだろう。
だが、遠くには行っていないという予感があった。これだけ綿密に準備をして私たちに濡れ衣を着せている以上、その結果を確認したいはずだ。もしも罠が計画通りに働かなければ、警察の捜査を誘導する必要もある。臨機応変に動けなければそれは難しい。きっとこの近くに身を潜めて、しばらくは警察の情報を探っている。
ならば、逃亡の障害になればいい! 私を殺さなければ逃げ切れないように仕向ける!
だが、それが可能だとして、動けもしない私がどう戦う?
いや、それはそのとき考えよう。金森が生きていることさえ暴ければ、ヤツの企みは破綻する。噓が明らかになれば、多恵は救われる。多恵が守れれば、それだけでいい。
とにかく、奴が生きている事を警察に知らせよう。おびき出して、捕らえさせよう。金森が黒幕でなかったしても、必ず黒幕につながっている。それさえ暴ければ、多恵は無事でいられる。
まず、金森が生きている事を……だが、話もできないのに、どうやって⁉ どうやって意思伝えれば……iPodだ!
iPodをどこにやった? 確か、操作を教えられていた途中で、安西がやってきて……多恵が任同をかけられて……探そうとしたが、私は鎮静剤で眠らされて……あれから、どうした⁉ iPodをどこにやった⁉ 誰かに取り上げられたのか……?
探すんだ。まだ手元にあるかもしれない。腕が動ける限り、探すんだ! 周囲を探れ……
あった! 感じる! 背中の下だ! 冷たい金属の手触りだ! iPodの感触だ!
よし、握れ……握れ……。握れた!
顔の前へ持ち上げろ……よし、見えた! 大丈夫だ、しっかり握れている!
これで、文字が打てる!
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