3
佐伯の心拍数が安定する。多恵には、父が眠ったことが分かった。
ナースステーションから戻った彩花に問う。
「鎮静剤、どれぐらいの時間、効いているんですか?」
彩花は事務的に答える。
「あまり多くなかったし、半減期二時間だから一時間程度かな。興奮を抑えるのが目的なので、完全に眠ってはいないかもしれません」
佐伯の状態を見守っていた陣内が、最後に瞳孔をチェックして背を伸ばす。
「安定しましたね。もう大丈夫でしょう。検査結果は確認しておきます。じゃ、僕は他の患者を診てきます」そして、彩花に告げる。「絶対に興奮させないように」
そして、二人の警官を睨みつけた。
落ち着きを取り戻した多恵が頭を下げる。
「ありがとうございました」
多恵に微笑みかけた陣内が廊下に出ようとドアに手をかけた時だった。スライド式のドアが外から勢いよく開けられた。驚いた陣内が反射的に身を引く。
戸口に立っていたのは、三人の男だった。全員、サングラスにマスク姿で、凶暴さを発散させている。
先頭の男はイタリアンブランドらしい紺のスーツを身に着けている。仁科だ。背後の男の一人は、場末のホストのような崩れた身なりだ。小さなピアスを片耳に光らせていた。もう一人は、スタジャンをだらしなく着込んでいる。
陣内が気を取り直して、怒鳴る。
「何だ、君たちは⁉」
仁科が鼻で笑う。
「面会謝絶、だろう? 知ってるさ」
言いながら、陣内を押しのけてずかずかと病室に踏み込む。
不意を突かれた陣内は、バランスを崩して壁に背をついた。巽と安西が無言で前に出て、男たちと対峙する。安西が三人を追い出そうとした瞬間だった。
仁科の背後に隠れるようにしていた二人がすっと進み出ると、同時に腕を上げて彼らの首筋に注射器を突き刺した。素早く警官の背後に回ると、羽交い締めにしながら口を塞ぐ。
体制を立て直した陣内が、もがく巽と安西を見つめてつぶやく。
「何だ……?」
仁科がドアを閉め、鍵を下ろした。ポケットからサバイバルナイフを出し、刃を開きながら陣内の目の前にちらつかせる。
「ケタミン。先生なら分かるよね。しばらくは目が覚めない。先生にも打った方がいいかな?」
ケタミンはフェンシクリジン系の解離性麻酔薬で、大脳皮質などを抑制する。静脈に入れば一瞬で、筋肉注射でも数分で充分な効果を発揮し、適量であれば血圧低下や呼吸抑制などの副作用も少ない。そのために、獣医師や大型動物を扱う場所では欠かせない麻酔薬になっている。一方では、副作用として幻覚症状を起こすことから麻薬として使用されることも多かった。現在では厚労省から麻薬指定され、取り締まりの対象にもなっている。
仁科は、知り合いの獣医師からケタミンが主成分の麻酔薬、ケタラールの横流しを受けていたのだ。
巽と安西はしばらくは抵抗したが、数分で力尽き、床に崩れ落ちて横たえられた。
注射を打った二人は、それぞれ警官を引きずりながらソファーに向かう。ソファーに転がされた二人は、ぴくりとも動かない。
多恵は、侵入者たちを交互に見つめる。その背後に、長身の彩花が隠れるように身を縮めていた。
仁科が、多恵と目が合うと言った。
「お前が娘だな」
多恵が男を睨む。
「あなた方、誰? 何の用ですか⁉」
「威勢がいいな。ちょっと君と話がしたいんだ。通帳から下ろした2億円、どこに隠した? 使っちゃった訳じゃないんだろう?」
多恵の表情に困惑が浮かぶ。
「何なんですか、あなたたち……みんなで2億、2億って……そんなお金、知らないわよ……」
陣内が身を乗り出す。
「ここは病室だぞ! 出て行きたまえ!」
「逆らわない方がいい。女もいるんだから」ナイフを振って陣内を威圧すると、部下に命じた。「先生たちをそっちへ連れて行け」
二人の男が陣内を挟み込むように腕をつかみ、ソファーに押していく。一人がナイフを出し、彩花に命じた。
「お前もこっちに来い」
彩花は怯えながらも、渋々と従った。
その間、じっと多恵の様子をうかがっていた仁科が言う。
「お前、怖くないのか?」
多恵は、仁科から目をそらさない。
「何がしたいのか分からないけど、無駄です。警察にも言ったけど、私はそんなお金のことは知らないから。出て行って。お父さんをそっとしておいて」
「やっぱり、そうか」仁科の声は冷酷だ。「おまえが知らないなら、知っているのは父親だな。直接聞くしかないようだ」
多恵の目に、初めて怯えが揺らめいた。
「聞くって……どうやって? 父さんは話ができません。言葉が出せないんです」
仁科が、意外そうな素振りを見せる。
「は? 何を言ってる? 動けなくたって話ぐらいはできるだろうが!」
陣内が割り込む。
「重度の脳梗塞なんだ。身体は動かせないし、言葉も出せない。安静にしていなければ、命も危ない」
仁科が言葉を失う。
多恵が繰り返す。
「出て行ってください!」
仁科が多恵ににじり寄る。
「本当にしゃべれないのか⁉」
「話せません。首を動かす事さえできません」
「お前、金の事は知らないのか?」
「知りません」
「ミンタブの隠し場所も知らないのか?」
「ミンタブ……って? 何、それ?」
仁科はがっくりと首を落として、うめいた。
「ふざけんじゃんねよ……」と、自らを奮い立たせるように多恵を睨む。「分かった。確かめよう」
仁科は言葉が終わらないうちに多恵の肩をつかんで向きを変えると、後ろから片腕を回して腹を抑え、もう一方の手でナイフを首筋に当てた。
背後で彩花が押し殺した悲鳴を上げる。
「ひっ!」
陣内が叫ぶ。
「やめろ!」
身を乗り出した陣内の腹にピアスが拳を叩き込む。陣内は身体を折って言葉を失った。重いボディーブローが息を絞り出し、動けない。
ピアスは笑った。
「手加減しといた。医者は必要だからな、今は」
仁科は多恵の首にナイフを当てたまま、佐伯の頭の上に身体を乗り出した。抱え込んだ多恵の体を押し出していく。
ベッドの上に差し込まれていた患者用の名札を見た。
「佐伯……剛さん――か。首さえ動かせないんだってな。本当なのかね……。だが、目は見えるんだろう? これなら見えるだろう? 見ろよ! 目を開けろよ!」
佐伯のまぶたが、ゆっくりと開かれる。だが、その目はどんよりと曇り、反応が伺えない。まるで、蝋人形の瞳のようだ。
仁科は苛立たしげに叫ぶ。
「ほら、起きてんじゃねえか! 俺の言うことが聞こえてるんだろう⁉ よく見ろ! 見るんだ! これ、誰だか分かるよな。お前の娘だ。で、ナイフを突きつけてる。俺がナイフを引けば、頸動脈がばっさりだ。あんたの顔に娘の血をぶちまけようか? 別に、殺しがしたい訳じゃない。だが、できない訳でもない。知りたいことを教えてくれればいい。溜め込んだ現金とミンタブはどこに隠した? それさえ分かれば、俺たちはさっさと消えて、もう顔を見る事もない。さあ、話せよ。話せないなんて、噓なんだろう? 話せ! さもないと、娘が死ぬぞ!」
仁科はじっと佐伯の目を見つめた。まぶたは開いたままだ。
と、ほんの一瞬、まぶたの奥に憎しみと意志の強さが渦巻いたような気がした。
仁科は、鋭い眼光に一瞬ひるんだ。だが、すぐ気を取り直して陣内を見る。
「分かってんじゃないのか⁉」
背後で、陣内が呻く。
「分かっている。だが、言葉が出せないんだ……」
「今、目を開いたんだぞ!」
「まぶたは動かせる。だが、まぶただけだ。しかも、薬で意識は朦朧としているはずだ。さっき、鎮静剤を打ったばかりだ……」
「鎮静剤だと⁉ 畜生、余計な事をしやがって……。だが、確かめてみないとな」さらに佐伯の顔の上に身を乗り出す。「よう、佐伯。残念だったな。お前が話せないなら、娘が死ぬだけだ。見ろよ。見えてんだろう⁉ 娘が死ぬところを、しっかり見とけよ!」
仁科はナイフに力を込めた。多恵が息を呑んで強ばる。
仁科がゆっくりナイフを引く。多恵の首が浅く切れて、鮮血がにじむ。
仁科も多恵も、ぴくりとも動かない。ナイフの刃にわずかな血が溜まって、一滴、佐伯の口元に落ちる――。
と、仁科は不意に多恵を離し、背筋を伸ばした。身を翻して多恵を突き飛ばすと、彩花に命じる。
「動脈は傷つけてない。手当てしてやれ」
陣内を見張っていたピアスが、バカにしたようにつぶやく。
「なんだよ。殺っちまえる度胸はないのかよ」
仁科はナイフを畳んでしまうと、胸ポケットからハンカチを出した。サングラスを外して額の汗を拭いながら、再び佐伯の目を覗き込む。ピアスに背を向けたまま、応えた。
「お前らと一緒にするな。殺しは猿がやることだ。ここまで脅して反応がないなら、本当に分かってないんだ」
ピアスが叫ぶ。
「じゃあ、分け前はどうすんだよ⁉」
振り返った仁科が、陣内に言った。
「意識は回復するのか?」
「鎮静剤が切れれば、回復する。一時間ほどかかるがね」
「目を覚まさせるクスリを打て」
「今の状態で拮抗剤を投与すれば、患者が死にかねない。待つんだな」
「待てば、しゃべれるのか?」
「脳梗塞からは回復しつつある。驚異的なスピードで、だ。だが、いつ話せるようになるかは誰にも予測できない」
「どん詰まり……かよ……」
仁科は肩を落として、再びサングラスをかけた。
その時だった。ソファーに横にされた安西のポケットの中で携帯が鳴った。
*
なんだ……あたりが……さわがしい……
だれかが……みみもとで……どなっている……
だめだ……あたまが、はっきりしない……
くすりの……せいか……
わたしに……はなしているのか……
たえ……?
ナイフを……? たえが……ナイフで……おどされている……?
なぜ……だれが……どうして……
わたしを……おどしているのか……たえを、つかって……
めが……めが、みえる……おとこの、めだ……
あの、めだ……そうこに、いた……あの、おとこ……
あいつが、たえを……ころそうと……ゆるせない……
ぜったいに……ゆるせない……
ぜったいに……
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