多恵はナマケモノのようなゆっくりとした手つきで、衣類をボストンバッグに詰め込んでいた。まだ乾燥が不十分で、湿り気が残っている。警察に急かされ、洗面室の洗濯乾燥機で洗っていたものを中断したのだ。

 わざと動作を遅くして、時間を引き延ばそうとしていた訳ではない。状況が理解できず、頭が真っ白になっていたのだ。自分が何をしているのかさえ意識できない、混乱状態に陥っていた。

 2億円という金額だけが意識を占め、それが何の金で、何を意味するのか想像もつかない。そもそも、警察が言う自分名義の通帳の存在すら知らない。

 だが、警察が断言する以上、その通帳は実在する。それは認めるしかない。ならば、通帳を作ったのは父親以外に考えられない。その通帳が犯罪に使われていたのなら……。

 父親が犯罪者だということになってしまう。

 信じられない。今まで見続けてきた父の姿とは正反対だ。百歩譲って、たとえ父が犯罪に手を染めたとしても、娘の名前を悪用することなど絶対にない。

 多恵にとっては、あり得ないことが重なっている。何を信じればいいのか、どう考えればいいのか、全く手がかりがない。

 巽はそんな多恵の後ろ姿を、苛立たしげに睨みつけていた。安西が多恵を守るように、その間に立っていた。

 その時だった。佐伯の枕元に置かれたバイタルサインモニターが甲高いアラーム音を発した。

 巽が叫ぶ。

「何だ⁉」

 多恵が振り返り、佐伯に駆け寄る。

「どうしたの⁉ いやだ、呼吸が!」

 呼吸数と心拍数が急激に上がっていた。多恵はナースコールに飛びついてボタンを押す。

 佐伯の胸は小刻みに上下し、顔色もわずかに青みを帯び始めていた。

 安西と巽もベッドサイドに歩み寄る。

 同時にドアがスライドし、泉彩花が部屋に飛び込む。無線LANでつながったナースステーションのモニターでも異常な数値が警告音を発していたのだ。

「はい、場所を空けてくださいね」

 落ち着いた声で言いながら多恵の横に立った彩花は、モニタのアラームを休止させると佐伯の顔から酸素マスクを外し、耳元に語りかけた。

「はい、落ち着いてくださいね。ゆっくり息を吐いてください。もっと……もっと吐いて……今度はゆっくり吸ってくださいね……ゆっくり、ゆっくり……」

 そっと胸に手を添え、呼吸のタイミングをガイドする。

 陣内が早足で部屋に入った。仮眠に入ったばかりなのか、眠そうな目をこすっている。

「どうした?」

「血圧、心拍数上昇しています。過呼吸のようです」

 モニターの心拍数は180を超えていた。

 陣内はモニターを見つめてから、佐伯のガウンを開いて皮膚表面を調べた。ゆっくりと彩花に指示を出す。

「あまり良くないな。モニターではST変化も心房細動もない。血圧と酸素飽和度も低下なし。両下肢の浮腫、熱感なし。チアノーゼ軽度。心肺疾患の有無は一応調べておこう。採血と十二誘導、胸部ポーターも準備するように。念のためCK―MB・トロポニンT、BNPも。救急カートと除細動器は病室に準備しておいた方がいいな。まずはドルミカム10ミリグラムに生食8ミリリットル、トータル10ミリリットルにして、2ミリリットルをゆっくり静注」

「はい」

 彩花は治療の準備にナースステーションに向かう。

 多恵が問う。

「危険なんですか⁉」

 陣内は穏やかに言った。

「頻脈、頻呼吸、血圧上昇のみで他の徴候は安定していますが、持続すると負担になります。しかし、鎮静剤で抑えれば問題ないでしょう……ですが、今まで安定していたのに、どうして急に?」

 そして多恵の顔色をうかがう。

 多恵はうつむいて、答えなかった。

 口を開いたのは安西だった。

「佐伯は、私たちの話を聞いているんですか?」

「言ったでしょう? 身体は動きませんが、意識は普通と変わりません。眠っていなければ耳は聞こえるし、話も理解できます。正常時と全く同じように、考えることもできます。何か興奮するようなことを?」

 答えようとする安西を巽が制する。

「あなたは治療に専念してくれればいい」

 陣内は冷たい視線を巽に向ける。

「佐伯さんは回復過程にあります」佐伯の容態を気にしながら、小声だが、きつい口調で言った。「だが、未だに危険な状態であることに変わりはない。現在は投薬で危険因子を抑制していますが、再び動脈閉塞や出血を起こせば一生身体が動かせなくなる場合もある。まだ、どっちに転ぶか分からない。興奮は絶対に避けなければならないんです。治療に専念するためには、あなた方を部屋に入れるべきではなかったようですね」

 巽が身を乗り出す。

「意識があるなら、証言も可能なのか⁉」

 陣内の口調が厳しさを増す。

「あなたは何を聞いてるんだ⁉ 話せないんだ。証言など、できるはずがない。興奮すれば、こうして命が危険に晒される」

「スマホで文字が打てるんじゃないのか?」

「だが、興奮する。それが危険なんです!」

 そこに彩花が薬品を乗せたカートを押して戻る。採血を終えると、陣内の指示を復唱する。

「ドルミカム10ミリグラムに生食8ミリリットル、トータル10ミリリットルで、2ミリリットルをゆっくり静注します」

 点滴チューブの途中にある三方活栓から注射器を使用して、鎮静剤を注入する。

 病室は緊迫した沈黙に包まれた。しばらく皆が見守っていると、血圧や心拍がゆっくりと下がっていった。

 陣内が安堵の溜息をもらし、彩花に言った。

「君はまだ仮眠を取らなくて大丈夫?」

「ええ。全然平気ですけど」

「良かった。検査の手配が終わったら、中里君が起きるまで二、三時間ここにいてくれるかな? 経過を見守ってほしい」

「分かりました」

「この警官たちを見張っていないと、佐伯さんが殺されかねないからね」


           *


 止めろ!

 薬は入れるな! 眠るわけにはいかない!

 犯人は金森なんだ! 伝えないと……何としても、伝えなくては……

 iPodは……? iPodはどこだ……?

 多恵が……たえが……

 伝えなければ……

 ……ねむるわけには……いか……ない……

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