第3章・ロック アップ
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広々とした一階のロビーには、数多くの患者が行き交っていた。
フロアには受付や料金の支払いカウンターはもとより、案内所やコンビニ、ATM、院内レストラン、米大手コーヒーチェーン店、フラワーショップ、ギフトコーナーまでも揃っている。一階の奥にある各科の診察室には個別に待合所が設けられているが、受付にも大きな待ち合いコーナーが置かれていた。
吹抜けの天井は高い。ロビー中央には高さ3メートルはあろうかという巨大なフラワーアレンジメントが据えられていた。中庭を囲むガラス窓も曇りなく磨かれ、うっすら積もった雪とは対照的な温かい日差しを招き入れている。利用者の快適性を追求した建物は、清潔で手入れが行き届いていた。深夜にはビルメンテナンス会社の職員が常に何処かにブラッシングマシーンを走らせているのだ。
この大きな空間の中では、人間の多さは全く気にならない。ずらりと並んだ待合コーナーのソファーの一角に、注意を向ける者もいなかった。
仁科たち、六人の男が陣取っていた。そのうち三人は夏山が連れてきた半グレの仲間だ。
片耳にピアスを付けた場末のホストのような服装の大男。ジャイアンツのキャップを深くかぶった、狡猾な狐を思わせるスタジャンの男。不良少年のようなくたびれたGジャンを羽織った、落ち着きなく辺りを見回している男。色や濃さは違うが、いずれもサングラスをかけている。新参者の三人はやや離れ、夏山たちに背を向けて周囲を警戒していた。
仁科は片耳に、携帯電話用のヘッドセットを付けていた。そのイヤホンに、サオリのスマホからの連絡が入る。
通話を聞き終えた仁科が夏山に耳打ちする。
「サオリからだ。刑事の病室に盗聴器を仕掛けさせた。爆発で怪我した訳じゃなかったんだ。俺たちに会った時、たまたま脳梗塞を起こして担ぎ込まれたんだと。今はVIPルームとかで寛いでやがる。で、あの刑事、娘の通帳で金を溜め込んでいやがった。サツが身内の犯罪に気づいて、情報が漏れないように閉じ込めたんだな。奴がボスだと、サツが証明してくれたってわけだ。倉庫には、他の警官が殺されたっていう証拠もあったらしい。俺たちが倉庫に集まる前に、あの刑事が殺したのかもしれない。刑事はまだ寝たきりだが、娘が任同かけられるところだ。娘の写メも届いた」
仁科がスマホを取り出す。画面を開くと、サオリと多恵が並んだ自撮り写真が現れる。二人は頬を寄せてピースサインをしていた。街のプリクラで撮影されたような〝お友達感覚〟のスナップだ。
夏山の顔色が変わる。
「娘も関わってるのか?」
「サツはそう考えてるようだ。どうする? 署に引っ張られたら、もう手が届かないぞ」
夏山は少し考えた。
「金の行方は?」
「2億が現金化されてるらしい。刑事だから、急に金遣いが荒くなれば目立つ。たぶん、そのままどこかに隠しているはずだ。聞けた話はそれだけだ。残りはヤクのまま隠してるんだろう」
「目の前に2億もぶら下がってんのかよ……」
仁科はきっぱりと言った。
「娘をさらわれたら、指をくわえて見逃すだけだ。止めるなら、今しかない」
サングラスの奥の夏山の目に、ためらいが浮かぶ。
「バカ……止めるって、サツに喧嘩を売れってか?」
仁科は、夏山が連れてきた子分を見て言う。
「だから兵隊を連れてきたんだろう? ミンタブと合わせれば10億以上になるはずだ。娘が何か知ってるなら、サツに横取りされる。金を取り戻すまでは、渡せない。だろ?」
夏山が渋々うなずく。
「ああ……だが、お前、何か考えがあるのか?」
「見張りの警官って言っても、マスコミ除けだ。襲われるとは思っちゃいないだろう。部屋の見張りも、今は二人だけだ。他にはエレベーターホールに一人。こいつは入ってくる人間を警戒してるだけだから、病室は目に入らない」
「もっと多いって言ってなかったか?」
「急に警備が減らされたらしい。たぶん、娘を引っ張ると決めたからだろう。同僚が目にすれば、刑事がヤク作ってたっていう噂も広がる。噂はすぐ漏れる。警察の不祥事は、マスコミの大好物だからな」
「確かなのか? あのガキがそう言ってるだけなんだろう?」
「サオリの観察力は、ああ見えて確かだ。腹を減らしたノラ猫だからな。今なら人数もこっちが上だし、どっかに閉じ込めるのは簡単だ。準備もしてる」仁科は、ヒザの上に置いていたセカンドバッグをポンと叩く。「麻酔薬だ。数時間だけ稼げればいい。その間に娘から金の在処を聞き出す」
「娘は名前を使われてるだけかもしれねえぜ」
仁科は意外そうな目で夏山を見た。
「そういうことには知恵が回るんだな。だったら、娘を使って刑事を脅迫する。寝たきりだから抵抗はできない。娘が殺されそうになりゃ、話すしかないだろう? で、サツより先に金とブツを掻っ攫う。なに、強盗をしようとか誰かを殺そうとかいう、大それた話じゃない。サツだって身内の犯罪は隠したい。押収するはずだった金やブツを奪われても、みっともなくて大っぴらにはできない。あっちが勝手に事件をもみ消してくれるって。な、簡単だろう?」
夏山が乗り気ではないことは、浮かない表情に現れていた。
「だが、顔、見られるしな……」
「億単位の金が転がり込むなら、仮に顔や素性がバレても構わない。韓国にでも行って整形すりゃあ誤摩化せるし、戸籍だって買える。震災からこっち、ヤミに被災者の戸籍がごっそり出回っているのは知ってるだろう? そもそも、何のためにサングラスなんかかけてきてるんだ? まわりを見てみろ。看護婦も患者もマスクだらけだろうが」
事実だった。感染予防のため、ナースのほとんどはマスクをかけている。病院では顔を隠すのは簡単だし、不自然さもない。
夏山がようやく笑みを見せた。スタジャンを着た手下の背中をつついて命じる。
「おい、そこのコンビニでマスクを買ってこい」財布から一万円札を抜いて渡す。「一番でっかい、顔が隠れやすいやつだ。お前たちの分もだぞ」
仁科は、横に座る高木を見た。二人の計画を横で聞いていて、顔色を青くしていた。目を合わせようとはしない。膝に置いたMAC BOOK・AIRが、小刻みに震えている。
「おまえ、この病院の構造調べられるか?」
高木は、びくっと肩を引きつらせた。目をそらしたままつぶやく。
「僕……ですか?」
「ああ。おまえだ。ハッキング、得意なんだろう?」
「でも……」
「……やっぱり口だけだったか。多いんだよな、お前みたいな勘違いオタク」
あからさまな挑発だ。仁科はネットの情報から、〝ドラゴンスレイヤー〟と呼ばれる有能なハッカーが実在することを調べ出していた。それが高木なら、使い道は無限に広がる。
高木は諦めたように溜息をもらした。
「警備会社のサーバとかに、ここの設計図面のデータが入っていれば難しくないけど……」
「突っ張らなくてもいい。どうせそんな実力はないんだからな。だろ?」
「できます」
「じゃあ、証明してみろ」
「僕、警察に目を付けられてるし、あまりやりたくないんですけど……」
「やれ」
「でも……」
「やっぱりハッタリかよ」
「違います! やりたくないだけです!」
仁科は不意ににやりと笑った。世間話でもするように馴れ馴れしくつぶやく。
「夏山の手下、ガキすぎるよな。ガキの欠点って、分かるか? 歯止めが利かないことだ」そして、高木に身を寄せてさらに声を低くした。「使えないヤツは平気で殺したりするぜ」
ひっ、と高木が息を呑む音が聞こえた。
*
落ち着け。
考えろ……考えるんだ。
確かな事実は、私が持っていた多恵の通帳が使われた、ということだ。あの通帳は、多恵が小学生の時に教育資金を貯めるために作った。管理は全て私が行っていた。名義は多恵だが、多恵は通帳の存在すら知らない。
保管していた場所は……署の机の引出し。そのどこかだ。多恵が専門学校に入学する際に、預金は全て引き出して現金を渡した。残金は100円以下で、もう使うこともないだろうと引き出しに放り込んだ――のだと思う。キャッシュカードも一緒にしていたはずだ。
記憶にも残っていない。だから、無くなったことも気づかなかった。
それが使われているということは、私がいない間に誰かが持ち出したことになる。だが、暗証番号は? 私は番号を覚えるのが面倒なので、たいていの場合は警察職員番号の下四桁を使っている。つまり、職員番号を知ることができる者しか通帳は使えない。そして、そのことを話したかもしれない相手――。
署内の人間だ。
私が気づかないうちに通帳があるのを調べられるのは、常に身近にいる者――金森か?
まさか――とは思わなかった。感じたのは、犯人にたどり着いたと確信できた時の、〝あの〟感覚だ。難かしいパズルが解けた瞬間のような、達成感にも似た……。
金森なのだ。
刑事が犯罪を犯さないという保証はない。金森が犯人であっても意外な気がしない。頭が切れて冷静で行動力もある男だが、人間味を感じたことがないからだろうか――。
いや、だが、金森は倉庫で襲われて大量に出血して、生きているかどうかも分からない……。被害者のはずだ……。
そうは考えてみたが、すぐに否定する材料が頭に浮かぶ。出血だけなら、偽装は簡単だ。
血液は、少しずつ抜いて冷凍すれば保存できる。ヤク中でさえ静脈注射ができるのだから、慣れれば難しくはない。私が引出しを開ける時に通帳を目にしていれば、盗むのも容易だ。いつだったか、パソコンの複雑な設定を頼んで、暗証番号を教えたこともあった。
だめだ……否定できる材料が見つからない……。
少し遅れて、腹に堪える、重い苦さに襲われた。
金森なのだ……。
コンビを組んでいたとはいえ、私生活では疎遠だ。喫煙所で一緒になる時でさえ、他愛のない無駄話で時間をつぶすことはない。金森だけではなく、私は全ての署員と距離を置こうとしてきた。だから、金森が裏で何をしているか、分かろうはずもない。知りたいとも思わなかった。
たぶん、知ろうとすべきだったのだろう。そうすれば、未然にこの事実を探り出せたかもしれないのに……。
金森は、利己的な野心家だ。刑事という仕事を損得勘定で考え、常に出世をもくろんでいた。捜査活動よりも昇任試験の準備を重視する。警官が権力を行使することを当然と見なす反面、犯罪被害者の気持ちと正面から向き合ったのを見たことがない。コンビを組んでいる私とさえ情報を共有せずに、捜査に二度手間を強いられたことも数知れない。私の手間が増えるだけなら構わない。金森が自分の手柄を増やすだけなら構わない。
問題は、被害者に負担を与えたことだ。
交番経由でストーカーの相談に来た女性を、金森が担当したことがあった。私も知っているべき案件だ。だが、知らされなかった。そして金森は、被害者を遠巻きに見守りながらも、実際に男が女性の部屋に侵入するまで何もせずに放置していた。女性はナイフで首を切られる寸前まで追いつめられ、今もPTSDで苦しんでいる。
金森の言い分は、『犯罪行為が起きるまでは逮捕はできない』ということだった。民事不介入という立場からは正しい。だが、女性はその間の2週間あまり、男の陰に怯えて精神的に追いつめられていた。
金森はそれを知りながらストーカーに警告を発しなかったことを、後に知った。そして、金森の意図も理解した。警告だけではなく、加害者として逮捕できれば、それは金森の〝実績〟になる。それが目的だったのだ。
だが警官なら、第一に被害が起きないように予防を考えるべきだ。ストーカーが警察の介入を知れば、ほとんどは加害を放棄する。逆効果になる例外はわずかにあるが、警察が持つ抑止力とはそういうものだ。私なら、加害者の反応を探りながら、しかしきっぱりと警告する。その上で最悪の場合に備え、加害は未然に防ぐ。だから金森は、コンビである私に〝事件〟を知らせなかったのだ。
金森が犯人なら、私は倉庫におびき出されたことになる。
なぜ?
私と組織の人間を鉢合わせさせるため――か?
思い出した! 私に銃を突きつけるフリをした男は、私を『ボスじゃないか?』と言った。つまり、彼らはボスと会ったことがないのだ。組織を直接コントロールしていたのが金森なら、その上にボスがいるのだろうか。あるいは、いるように見せかけているのか。
で、私たちを集めて何をしようとした? 何が起こった?
最初は銃声らしい物音。直後に、パトカーがやってきた。そして、温風機の爆発。金森が犯人なら、どちらも奴が仕組んだことだろう。病室で聞いた安西たちの話からすると、銃で何を撃ったのかはまだ分かっていない。爆発も、倉庫を破壊したり誰かを殺せるほどの規模ではない。所詮、カセットボンベ一つだけの爆発だ。銃声で注意を引きつけた後だから、すぐに消防も駆けつける。おそらく、火災すら起こせない。
音がしただけだ。それが目的だったということか? なぜ金森は、わざわざ人の目を引くような仕掛けを重ねたのか……?
警察を集めるだけなのに――。
集めたのだ。
銃声がしてからパトカーが到着するまでは、一瞬だった。通常では考えられない速さだ。つまり、警察への通報を先に行い、到着寸前に銃を撃ったわけだ。
銃声を聞いた犯人たちは、一刻も早く警察から逃げようとするだろう。もちろん私は、彼らを捕らえようとする。脳梗塞で倒れなければ、実際に捕らえられたかもしれない。そして、大量の血痕が残っていた現場の状況を伝える。
その結果、警察はこう判断する。
麻薬密造組織が、自分たちを追う金森を殺して死体を隠し、それに気づいた佐伯と争った――。
だが、そこに多恵の通帳という〝証拠〟が登場すれば、事件の構図が一変して、私が〝黒幕〟だと疑われる。
私が組織を使って金森を殺した上に、爆発で組織の消滅を図った。だが、計画がうまく進まずに仲間割れを起こした――。
状況からはそう考えられるに違いない。
組織のメンバーが逃げれば、地下に潜って二度と姿は現さないだろう。現場で金森が死んだと報道されれば、刑事殺しの罪を負わされることを恐れるからだ。万一犯人が取り押さえられて『組織を仕切っていたのは金森だ』と証言しても、当の金森が姿を消していれば追求しようがない。しかも私は、組織員からも〝ボス〟だと誤解されている。金森は組織の中からも警察内部からも、私を黒幕に仕立て上げる罠を張り巡らせていたわけだ。
もはや、何をどう説明しても信用されることはない。金森の死体が出なくても、状況は変わらない。
私は、麻薬密造組織の黒幕にされてしまったのだ。
だが、通帳が発見されないままだったらどうなる……?
麻薬組織は地下に潜伏し、金森は殉職したことになる。それだけだ。2億円を奪った金森は、悠然と新たな人生を歩める。一方で、私を黒幕に仕立てた偽装の労力は全て無駄になる。
おそらく、何らかの形で通帳に注意を向ける工作を加える予定だったのだろう。
私は、金森は生きていると確信した。
私に黒幕の濡れ衣を着せ、組織を潰し、自らの死を装って、金森は逃げおおせた。完璧な犯罪だ。おそらく顔も経歴も変える覚悟だろう。
道警本部が中心になった捜査は、組織に肉薄していた。だから、幕引きを計ったのだ。当然、警官の身分を捨てるに値する代償も手に入れたはずだ。
そこで、疑問が湧いた。
代償が、たった2億の現金……?
一つの人生を終わりにする対価が、それだけか?
警官を続けていれば、生涯で2億以上は手に入る。一度に同額の現金が手に入ったとしても、あぶく銭は消えるのも早い。手元に残った預金を気にしながら慎ましい生活を送りたいなら、こんな危険に手を染める必要はない。金森はたぶん、もっと大きな金額を手にしている、あるいは狙っているはずだ。
金森は麻薬組織の中核にいた。〝ボス〟と呼ばれる黒幕が実在し、脅迫されて渋々加担したのだろうか? そうであってほしいとは願う。たった二年とはいえ、共に組織を追った刑事が主犯だったとは信じたくない。私を黒幕に仕立て上げようとするのも、〝ボス〟から命令されてのことかもしれないのだ……。
かすかな希望を、刑事の本能が否定する。
冷静に考えれば、可能性は薄い。金森の地位は、麻薬組織運営に都合が良すぎる。取引に精通した刑事なら、容疑者を脅して自前の組織員を集めるもできるだろう。取り締まり情報も筒抜けだから、逃げるのも容易い。組織を捨てる時のために、私を〝ボス〟に仕立て上げる布石を打っておくことも簡単だ。
金森は、そんな計算を平然と行える男だと思う。
〝ボス〟が実在しないとは言い切れない。だが、それを確信させる情報はない。〝ボス〟が金森しか知らない人物であれば、近づくこともできない。ならば、今は金森が首謀者だと考えて対策を考えるしかない。
いずれにしても、金森の目的は金だ。理由が金なら、他にも大きな利益を得られる確信がなければ帳尻が合わない。金森はおそらく、一度組織を清算して、新たな犯罪を犯そうとしている。私は、その踏み台――いや、保険だったらしい。
私だけではない。多恵の人生まで踏みにじろうとしている。
金森は多恵を陥れようとしている。
私が、多恵を巻き込んだのだ。私の、迂闊さが……。
許せない。
心の中に、炎が吹き上がる。
怒りだ。
覚えている……。私が最も恐れていた、〝あの〟怒りだ。私が絶対に避けて通らなければならない、〝闇〟だ。
それでも、許せない。許せるものか。多恵だけは、何としても守り通す。私の責任なのだ。絶対に助け出さなければならない。
かつて、幼い多恵に話したことを不意に思い出した。
警察官は、純白の縄で両手を縛られているような職業だ。犯罪者は欲に任せてどんな悪辣な行動でもとれる。しかし、彼らと戦う警察官は、法と良識によって行動を縛られる、と――。
その鉄則を踏みにじったのは、私自身だった。
多恵が幼稚園児の時だった。一人で公園に遊びに出かけた際に、変質者に車に連れ込まれたことがある。現場が官舎の近くだったので、運良く非番の仲間が目撃して犯行車両は即刻手配された。私が駆けつけた時には犯人はパトカーに取り囲まれ、多恵は何事もなく保護されていた。
多恵はあれから、私を英雄視している。私も、あえて否定しなかった。幼い多恵に理解できる事柄だとは思えなかったからだ。
だが私は、私自身の闇に気づいてしまった。
薄笑いを浮かべた犯人の顔を見た瞬間、〝それ〟は起こった。
怒りが膨れ上がり、記憶が飛んだ。気づいた時には、私を取り押さえた同僚たちの顔に明らかな動揺が浮かんでいた。犯人のあごは砕け、私の指も両手合わせて四本、折れていた。粉砕骨折だ。犯人はその後三日間、危篤状態にあった。
警官は、教育課程から格闘術を叩き込まれる。ケンカ好きと呼ぶしかない連中も育っていく。私自身がまさに〝武闘派〟だった。法の網から逃れたヤクザやストーカーに私的な制裁を加える警官グループに、進んで加担した時期もある。法律だけでは犯罪を抑止できない――そう思い知らされる現場を幾度となく体験してきたからだ。
そんな自分に、疑問を抱いてはいなかった。
しかし、拉致犯を逮捕後に殴ったのは〝過剰な暴力行為〟だ。公になれば、道警の不祥事だと騒がれる。それでも仲間内では、私に同情的な意見が大半だった。犯人が薬物使用の常習犯だったこともあって、事件は大事にならなかった。むろん、道警が事態の沈静化に積極的に動いた。私の殴打は、公式に『逮捕時の不可避な有形力行使』とされた。
だが私は、あの時、確信した。もしも銃を持っていたら、犯人を撃っていた。ためらわずに、射殺していた。考えた末の〝制裁〟ではなく、発作的な〝殺人〟に手を染めていた。
一線を越えなかったのは、手元に銃がなかったからにすぎない。
考え過ぎとして忘れようと思えば、難しくはなかった。
それでも、自分を騙すことはできない。
記憶が抜け落ちた――それが問題なのだ。犯人をどう殴ったのか、何度打ちのめしたのか、誰が止めに入ったのか、具体的なことは何ひとつ覚えていない。怒りが理性のコントロールを吹き飛ばしていた。これまで、一度たりともなかったことだ。
それなのに、殴った瞬間の感情だけは身体の中にこびりついていた。暴力を爆発させた瞬間の、あの感覚――。
それは、とてつもなく甘美な〝快感〟だった。
私は犯罪と闘うという〝大義〟に惹かれて警官になったつもりでいた。実際は、暴力に魅せられていただけなのかもしれない――と気づいてしまった。学生時代にラグビーにのめり込んだのも、警察学校時代に格闘技に夢中になっていたのも、無意識に凶暴性を発散できる場を求めていたからだと思い当たってしまった。
私は、警官になってはならない人間だったのだ――。
この仕事をしていると、誰の中にも狂気が潜んでいることを知らされる。狂気は不意に、他者をむさぼり喰らう〝牙〟に変わる。とりわけ私の中のそれは、凶暴だった。私の中には、時に人間性を破壊する力を宿した〝悪魔〟が棲んでいる。
私は、暴力そのものを愛している――。
それは、根源的な恐怖だ。
恐怖は、私を変えた。変えなければならなかった。
あの事件以来、牙を折ろうと決めた。怒りの暴発を、理性で抑えられる自信はない。抑えられなければ、いつかは狂気が私を喰い尽くす。だから二十年近く、その狂気から身を遠ざけて来た。
それが、警官であり続けようと決めた理由だ。己の狂気を抑え付けるためには、〝純白の縄〟を〝切れない鎖〟に変えなければならない。頼れるのは、警察官の規範しかなかった。厳格に従ってさえいれば、〝闇〟が解放されることはない。
だから私は、徹底的に〝良き警官〟であろうと努めた。
私はそれ以後、たとえ凶悪な暴力組織が相手であろうとも、必要最低限の実力行使しかしなかった。そのためにヤクザとの乱闘で腹を刺され、重傷を負ったことすらある。私の態度の急変は、同僚たちを戸惑わせた。臆病風に吹かれた、としか見えなかっただろう。
それでも私は己を縛り続けた。さらには、法規や規律を無意味にしかねない〝不正〟からも、可能な限り距離を置いていった。
暴力や不正そのものを嫌ったのではない。そこから鎖が解け始めることを恐れたのだ。鎖の切れ目から〝悪魔〟が放たれるが怖かったのだ。
私の頑な態度は血の気が多い仲間たちから冷笑され、嫌われていった。話の分からない堅物という評価が次第に染み付き、孤立していった。一方で、『佐伯はキレると手が付けられない――』という噂が消えることもなかった。
どちらも正しい。
どちらも私だ。だからこそ、絶対に〝あの瞬間〟に戻る訳にはいかない。
妻や娘に本当のことも告げられず、私は自分を警察官という名の〝檻〟に閉じ込めながら生きてきたのだ。
だが、今は――
私を縛っているのは〝縄〟や〝鎖〟などという生温い比喩ではない。物理的な全身の麻痺だ。この絶望的なハンディを克服するためなら、どんなことでもしなければならない。
多恵を救うために――。
それが全てだ。
わずかでも状況が好転させられるのなら、狂気をも解き放つ。必要なら法も冒す。どんなに卑劣な手段でも打ってみせる。金森を殺せる術があるなら、殺す。
くそ……だが、何ができる⁉
動くことも、話すこともできない今の私に、いったい何ができるというんだ……
だめだ。焦るな。弱気になるな!
何かあるはずだ。こんな私にでもできることが、きっと何かあるはずだ。
精神力が病気を駆逐することだってある。怒りが、麻痺を退けることだってあるかもしれない。狂気が力になるのなら、悪魔にだって魂を売ってやる。
身体を動かせ! 少しでも動かすんだ!
そして、考えろ!
どうすれば金森を叩き潰せるんだ⁉
考えろ! 考えろ!
答えが見つけられなければ、多恵が犯罪者の汚名を着せられてしまう。
考えるんだ!
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