VIPルームの家電は全て無線LANによる遠隔操作が可能で、iPod touchから制御することができた。照明の点灯や明るさの調整、テレビやブルーレイレコーダーの操作はもちろん、エアコンの設定やカーテンの開け閉め、電子レンジの操作、冷蔵庫の温度調整まで可能な部屋だった。

 多恵は、疲れた佐伯が休んでいる間に専用のアプリをインストールして、その機能を一通り身につけた。父親に説明するためだ。iPodがあれば、身体が動かなくてもテレビや照明をコントロールできる。指先を動かすことで脳に刺激を与え、リハビリにもなる。担当医師の陣内からも勧められたことだった。

 佐伯がiPodを握ってから、すでに四時間ほどが経過している。始めは握力も弱々しく、100グラムにも満たない重さのiPodを何度も落とした。それでも指が動く範囲が広がるに従い、しっかり握りながら文字盤をコントロールできるようになった。ただ、集中力を持続するのは辛いらしく、佐伯は疲れると腕を降ろして目を閉じた。

 佐伯の意識が眠っている状態かどうかは、枕元の計測機器――バイタルサインモニターにはっきりとは現れない。表示されるのは心電図、呼吸数、血圧、直腸温、脈拍数、そして酸素飽和度の数値だけだ。だが多恵には、佐伯の意識が覚醒したことが直感的に感じられた。目を覗き込むと、返事をするように三度、瞬きをする。多恵は微笑み、iPodの操作の説明を始めた。

 佐伯がiPodを操作する様子を、陣内と二人のナースがじっと見守っている。

 中里美緒と泉彩花を含んだ四人のナースが、佐伯担当として病院での泊まり込み勤務を始める事が言い渡されたばかりだった。実質、一日十二時間以上の勤務で、可能な限り病院で寝泊まりして、外へは出ないように要請されている。しかも四人が一人の患者にかかり切りになる、極めて異常な勤務体制だ。通常では決してあり得ない。道警本部から直接、強力な要請がなされた結果だ。警察は病室から情報が漏れることを恐れ、佐伯に関わる医療担当者を最小限に抑え、〝隔離〟したかったのだ。そのため、佐伯には関わらないスタッフのシフト変更が、病院全体にまで及び始めている。

 実際は、ナースたちも不定期な勤務を歓迎していた。この不自然な勤務が何日続くかは未定だったが、想像以上の臨時手当を提示されたためだ。彼女たちがこの病院で働く大きな理由は、勤務時間が比較的守られる職場だからだ。その分、給与は他の病院より劣る。

 彼女たちは、全国有数の病院の、重症患者がひときわ多い脳外科病棟を任されてきたプロフェッショナルだ。あからさまな引き抜きも多かったが、それでも彼女たちは職場を変えようとはしなかった。だが、それは収入をある程度犠牲にした上での選択だ。短期間の勤務延長で大幅に収入が上がるなら、拒否する理由はなかったのだ。ただし、陣内を含む担当者全員が、機密保持に関する物々しい誓約書にサインを求められていた。

 多恵は、佐伯の視界に入る場所にiPodを掲げてリモコン機能を説明した。その間、佐伯は特別な反応を見せなかった。多恵は、佐伯が操作を理解しているかどうかが不安だった。だが、いったんiPodを握らせると、佐伯はゆっくりだが、かすかに震える指先で確実にタッチパネルを操作した。そして、教えた操作を再現した。首を回して画面を見ることはできないのに、テレビのチャンネルや音量を変えてみせたのだ。

 一通り操作を覚えると、今度は文字を打ち始めた。多恵は、ベッドの横に屈んで佐伯が持つiPod touchに現れる文字をじっと見つめていた。

 ひとつ文字が現れると、佐伯の指はゆっくりと位置を変え、次の文字を探す。その動きは、相変わらず蜂蜜の壷に落ちた蟻のように緩慢だ。だが、確実に前に進んでいる。着実に回復している。

 新しい文字が、表示されていく。

『た・え・あ・り・が・と……』

 堪えきれずに、多恵の目に涙があふれる。iPodを持つ父親の手を両手で包むと、言った。

「いいんだよ。いいんだよ。ずっとここにいるから……」

 傍らに立つ長身の泉彩花が、二人を見下ろしていた。ぽつりとつぶやく。

「すごいな……iPodって、こんなふうにも使えるんですね……」

 診察を終えた陣内が横でうなずく。

「経費で何台か導入してもいいね。指を動かすだけでも、脳へのいい刺激になる」さらに、ナースに指示する。「君たちは順に休憩を取りなさい。勤務時間が長くなったんで、しっかり休まないとミスが出るから。最初は中里君からだ」

 そう言われた美緒は、ほっとしたように言った。

「そうします」カラオケの後の〝お持ち帰り〟で睡眠不足気味だったのだ。陣内は、それを見抜いているようだ。「アヤちゃん、二時間ぐらい休んでくるから」

 彩花がくすっと笑う。

「おつかれー」

 美緒がデイコーナーにつながるドアをスライドさせる。

 開いた戸口から、長い通路越しに車イスの老婆を押す少女が見えた。少女が部屋の中の多恵に気づき、声を上げる。

「あ、タエちゃん! 病室、こんなとこだったんだ」

 多恵は振り返って、笑顔を浮かべた。

「サオリちゃん」

 多恵は休憩所の自販機を使う際に、車いすを押すサオリに会っていた。年齢が近そうなこともあって、ひとしきり世間話をして別れたのだ。見かけに反して人なつこく話しかけてくるサオリは、多恵の落ち込んだ気分も明るくした。

 美緒はドアを開けたままサオリに笑いかけて、ナースステーションに向かう。

 サオリは老婆に言った。

「おばあちゃん、ちょっと待っててね!」そしてずんずん病室に入ると目を丸くした。「わぁ、大きな部屋! なあに、ここ⁉ ホテルみたいじゃん! 芸能人みたいだね。タエちゃんとこ、すっごいお金持ちなんだ」

「そんなんじゃないんだけど……」

 サオリは多恵の横に立ち、ベッドの端に手をついて佐伯を見下ろした。

「お父さん、大変だね……」

 多恵は立ち上がって微笑んだ。

「でもね、少しずつ良くなってるの。ほら、こうやってiPodで文字も打てるんだよ」

 サオリの顔にも笑顔が広がる。

「えー、そんなの使えるの⁉ すごいじゃん! 全然動かなかったんでしょう?」

 イヤホンを付けたまま病室にずかずか入り込んだ少女を、彩花が怪訝そうに見る。

「お友達?」

 サオリがうなずく。

「さっき友達になったの。あたし、ツネさんの知り合いなんだけど、今日だけ付き添いしてるんだ」

 彩花の表情が柔らかくなった。

「あ、あなたが。中里さんから聞いてたわ。ありがとうね」

 と、慌てたように戸口に数人男が現れた。佐伯が入院してからずっとデイコーナーにたむろしている警官たちだ。

 先頭に立つ安西が、サオリに言った。

「君は、どなた?」

 答えたのは多恵だった。

「私のお友達です」

 安西の鋭い視線が多恵に突き刺さる。

「ここには部外者を入れないようにお願いしたはずだが。お友達には席を外してもらいたい」

 多恵はため息を漏らして、サオリに言った。

「ごめんね、また後でね。時々休憩所に行くから」

 サオリは軽く手を振って言った。

「あたし、おばあちゃんの部屋にいるから!」身を翻して部屋を飛び出すと、車イスの傍らにしゃがんで老婆の両手を握る。「おばあちゃん、ごめん。お友達のとこ行ってた!」

 老婆が、ニコニコと答える。

「おや、どちらさまでしたかね……」

 だがサオリは、すでにVIPルームに入り込んだ目的を果たしていた。佐伯のベッドの下に、小さな盗聴器を素早く貼り付けていたのだ。

 サオリが去ると、安西が陣内に言った。

「診察は終わりましたか?」

「はい。予想以上のスピードで回復しています。ですが、再び悪化する危険がないとは断言できません。相変わらず、話はできませんし……」

 安西が佐伯の手に握られたiPodを見る。

「文字はどの程度打てるように?」

 陣内は警察が筆談での聴取を求めていることを察し、機先を制した。

「だいぶ慣れてはきています。しかし、まだ指や腕の筋力は非常に弱いですし、動きのコントロールが困難です。いわゆる失調症状があります。筆談が可能になるとしても時間がかかるでしょう。重度の障害が後遺するだろうという状況で、身体を動かすことも不可能――しかも意思疎通困難があります。この状態では過度のストレスがかかりますから」

 安西は、意外にもあっさりうなずく。

「それは了解しています。無理はしません。しかし……。みなさんも、ちょっと席を外していただけますか?」

 警官たちの表情は重苦しい。緊迫した雰囲気があった。

「何か?」

「多恵さんにお話が」

 陣内たちはうなずいて立ち去る。

 多恵は心細そうにつぶやく。

「何でしょうか……」

 医師たちが部屋を出ると、安西の背後にいた巽がドアを閉める。

 安西が言った。

「佐伯多恵さん、こんな時に何ですが、私たちと一緒に署に同行願いたい」

「え? わたしが? なぜです? ここにいちゃいけないんですか? 父さん、まだ危ない状態なのに?」

 安西は事務的な口調で言った。

「あなたの口座で不正が疑われる資金の移動が確認されました。事情をお聞きしたい」

 多恵は一瞬、息を呑んだ。

「……はい? 口座って……何のこと?」

「佐伯のロッカーから発見された通帳です。2億円以上の金額が通過し、現金化されていました」

「2億円って……何を言ってるんですか?」多恵には全く理解できなかった。だが、父親が非難されていることは分かる。「父さんが何か悪い事をしたって言うんですか⁉」

「あなたは、それを知っているんじゃありませんか?」

「何のこと……?」

「もう一度言います。口座の名義は、佐伯多恵さん、あなたのものなんです」

「何よ、それ……?」

「それを伺いたい。ゆっくりで構いませんので、荷物をまとめてください。ただし、これからは100パーセント警察の監視下に入っていただきます」


           *


 なんだ⁉ 何のことだ⁉ 多恵を任意同行だと⁉ 監視するだと⁉

 2億円⁉ 何の話だ⁉ 私のロッカーだと? どういうことなんだ⁉

 何が起こったんだ……⁉

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