3
脳外科病棟は、患者の体温や血圧を測定するラウンド業務と朝食を終え、慌ただしさが少し落ち着いた時間帯に入っていた。
エレベーターから、金髪でイヤホンを付けた女が現れる。その姿は、朝の病棟の中では浮き上がって見えた。服装は、十五、六歳の少女のようだ。音楽に合わせているのか、軽く身体を揺らしながら廊下を行き交うナースや病院支給のガウンを着た患者を眺め、ゆっくりと歩いている。時おり、開けっ放しになった病室の中やドアの横の患者名を確かめる。だがその目の奥には、獲物を探す飢えた猫のような鋭い光が揺らめいていた。
デイコーナーでは、車椅子に乗せられた老婆がナースに押されていた。老婆は、わずかに傾けた首を頭を振りながら、意味をなさないうめき声をたてている。見るからに、認知症を患っている。
女は老婆を見ると表情を明るくして走り寄ると、傍らにしゃがんでイヤホンを外した。
「あ、おばあちゃん!」女は老婆のシワだらけの手を両手で包んだ。「サオリだよ、分かる⁉ 覚えてる?」
老婆はサオリの顔を見ると、揺れる首を止めてにやっと笑った。小声が漏れる。
「ああ……きょうも……いいおてんき……ですね……」
サオリの狙い通りだった。
「ほら、いつも遊んでもらってた、サ・オ・リ。分からない……?」
「どなた……だったかね……? ごめんなさいね……」
車いすを押すナース――中里美緒が言った。
「あの、お見舞いができるのは午後からなんですけど……」
と、老婆がつぶやく。
「おひさしぶりですねぇ……」
美緒が苦笑を漏らす。
「ま、いっか。斉藤さんのご親族……ですか?」
サオリはしゃがんだまま美緒を見上げ、首を横に振る。
「親戚じゃないけど、昔、近所に住んでたの。小さな頃から、おばあちゃんにはかわいがってもらったんだ。久しぶりにウチに帰ったら、入院したって聞いたから」
「そう……ツネさんのご家族、近頃あんまり来ないから、助かるわ。このところ急に症状が進んじゃって、話し相手になってくれる人がいたらなって思ってたの」
美緒は、一瞬でサオリに気を許していた。
サオリは老婆の手を握りながら、ゆっくりと、子供に話すように語りかけた。
「そうなんだ、おばあちゃん。家族も来てくれないの? さみしいねえ……」
老婆が小声でもごもごとうめく。
「おや……こんにちは……ごきげんは……いかがかね……」
美緒はその声を聞き取ろうとするかのように、耳を近づける。
「あら、ツネさん、分かるのね⁉ 喜んでるみたい」
サオリも笑顔を浮かべた。
「わたし、今日ヒマなんだ。だからお見舞いにきてみたんだけど、しばらく一緒にいてあげていいですか?」
「え、いいの? こちらこそお願いするわ。できれば、昔の話をしてあげて欲しいの。共通の思い出をお話してくれると、記憶がよみがえって症状がすこし良くなる場合もあるし。そうやって手を握ってくれれば、ツネさんも安心すると思う」
サオリは立ち上がった。
「うん、わかった。夜まで一緒に居させて。病室って、どこ?」
「こっちよ。個室じゃないけど。不穏状態になったり大声を出したりしないし、付き添いしてくれると助かるわ。横にいてくれれば大丈夫だから」
「お散歩もいいの?」
「ツネさん、社交的だったから、みんなの顔が見られるデイコーナーが大好きなの。他のナースにも話しておく。でも、このフロアからは出ないでね。病室を空ける時はナースに一声、お願い」
サオリは笑顔で応えた。
「了解!」
*
見えた! 自分の手が見える! 腕が上がっているんだ!
多恵! 腕が動いたぞ!
多恵の声が聞こえた。はっきりと聞こえた。
「父さん! 腕、上がってるよ!」
多恵が、目の前に上げた私の腕を握った。
「先生! 看護婦さん! 誰か来て! 父さんの腕が!」
病室がざわつくのが分かった。
これで一つ、壁を乗り越えた。私には、まだまだ力が残っている。次は言葉だ。
何としても金森を助け出す。
次の壁を乗り越えれば、それができるかもしれない。できなければ、金森はきっと死ぬ。
私が殺すことになる……。
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