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佐伯が反応を見せたという連絡を受けて病院に駆けつけた安西は、しかしデイコーナーの椅子でがっくりと肩を落としていた。回復は見せているものの、まだ話すこともできない。期待にはほど遠かった。
病棟の端に設けられたデイコーナーは、ナースステーションの正面の廊下と一体となった休憩所で、二〇人ほどがくつろげる場所だ。退院した患者が健診やリハビリを受ける際に、介護福祉士のケアを受けながら長時間滞在できるシステムにもなっている。三台の自動販売機が据え付けられ、普段は患者の家族が休憩が取れるスペースとしても使われている。五台のテーブルが置かれ、軽い飲食も許されていた。
六階の脳外科病棟は、大まかに二つのブロックに分けられていた。東西方向に細長いフロアを半分に分け、それぞれの端にナースステーションとデイコーナーを置いている。基本的にはそれぞれ独立した〝分割型ナースステーション〟で、いわば二つの病院が同じフロアに併存するような形になっている。
一つの病棟に看護拠点を複数分散配置したのは、きめ細かいサービスを実現すると同時に看護師業務を軽減させるためだった。業務を細分化することでスタッフと患者の関わり方が濃密になり、自然に細部へと目が届くシステムでもある。それは、事務的で非効率になりがちな大病院の欠陥を解消する有力な方法となっていた。
フロアの中心にはエレベーターホールと階段が配置され、隣接してシャワールームやトイレ、各種倉庫やスタッフルームがあり、この部分は二つのブロックの共用部分となっている。ナースステーションは両端に配置され、廊下が共用部分と二つのステーションをぐるりと囲んでいる。東西の廊下の端が広がった部分がデイコーナーとなっているのだ。病室は廊下に沿って並び、建物の南と北に面する形になっている。
佐伯が収容されたVIPルームは、南面の西端にあった。デイコーナーに隣接して人が集まる騒がしい場所ではあるが、最も陽当たりのいい位置を元首相が指定したためだ。そのかわり、VIPルームのドアは目立たないように二メートルほどの通路の奥にあり、『PRIVATE』のプレートが貼られている。デイコーナーを利用する患者だけではなく、普段はスタッフからも無視される地味な外観をしていた。
その横には六床のベッドが収容できる大部屋がずらりと並んでいる。
安西の意気込みは空回りし、佐伯から事件の詳細は聞き出せなかった。確かに佐伯は、弱々しく手を握り返してきた。担当医が示唆したように、意識がはっきりして思考力もあるように感じられる。だが、酸素マスクに覆われた口からはうめき声すら出てこない。事情を聞こうにも、意思を疎通する方法がなかったのだ。
事件の朝、現場を目撃した刑事が、何が起きたのかを伝えようとしている。現場にいた犯人たちと直接会っているはずだ。警察はその情報を求めている。それなのに、互いをつなぐ手段がない。長い刑事生活でも、経験のない事態だ。どう対処すればいいのか分からずに肩を落とすしかなかった。
DNA型鑑定の結果、倉庫に残されていた大量の血液は98%以上の確率で金森のものだと判定された。さらに精密な鑑定方法で検証が進められているが、結果に変わりはないだろう。金森の居所は相変わらずつかめない。時間を追うごとに殺された可能性が濃厚になっていく。出血量が多く、生きていても瀕死の状態のはずだ。犯罪組織に拉致されているなら、直ちに救出しなければ確実に死ぬ。
だが、麻薬密造組織の捜査過程を熟知している佐伯から話が聞けなければ、彼らの全貌がつかめない。手柄を立てようと狙う刑事は同僚にも安易に捜査状況は漏らさないものだ。加えて、道警本部で〝問題視〟されていた佐伯は、苫小牧東署内でも浮いた存在だ。佐伯自身が他の署員を寄せ付けない雰囲気があり、コンビを組む金森以外には親しい署員もいない。安西に上がってくる報告も表面的なものばかりで、実際にどこまで内偵が進んでいたのかは本人たちしか知らないのが現実だった。
デイコーナーに、署長が現れた。珍しく単独行動だ。
署長は安西の姿を見ると、奥の席へ向かいながら手招きをした。盗み聞きをする人影がないかを確認するかのように、辺りを見回す。
安西は席を移りながら言った。
「署長。わざわざお疲れさまです」
そうは言うものの、署長が一人で現れた理由をいぶかっていた。普段は部下を運転手にして肩をいからせている。署とは車で五分ほどしか離れていない病院だとはいえ、連絡もなしに部下を見舞うのは似合わない。佐伯の様子を知りたいなら、電話をすれば済む。
署長は、小声で言った。
「座って」
自分も、安西の横に座る。不自然なまでに安西に身体を密着させて、声を落とした。
「手帳か何かに情報を残していないかと佐伯君の机とロッカーを調べさせたんだが……妙な物が見つかった」
安西は署長の態度を横目で観察していた。安西よりひと廻りほど年下の署長は、ポーカーフェイスを保てるほど熟してはいない。ひどく困惑している。何か重大な問題が持ち上がったのは確実だ。
「何ですか?」
「預金通帳とキャッシュカードだ」署長の声がいっそう小さくなる。「名義は佐伯の娘さんの物だ。通帳の記帳がいっぱいで一年半ほど前から未記入だが、五〇万程度の小額の入金と引出しが繰り返されている。全取引の詳細を銀行に照会したところ、トータルで億単位の金が口座を通過していると伝えてきた……」
「億単位……?」安西には予期せぬ情報だった。「だいたいどのくらい?」
「2億強。それを現金化している」
普通の刑事が持てる金額ではない。持てるとすれば、特権を活かして不正を行った者だ。だが、捜査情報を売ったところでそれほどの金額にはならない。しかも、娘名義の口座を使っているという。不正な金なら、記録が残らないように現金でやり取りするだろう。
安西には、そんな金の動きを説明できる理由が見つからない。佐伯がそのような大金に絡んでいるとも思えない。
「署長はどうお考えですか?」
「佐伯は、薬物の密造を追っていたのだろう? 逆に、組織に取り込まれてしまっていたなら、金の説明がつく。だとすると、金森は……」
署長は、佐伯自らが部下を殺した可能性を指摘している。
確かに、薬物取り締まりを行う佐伯なら、組織から金を受け取ることはできる。だが、わざわざ証拠となる通帳を残しておくのは不自然だ。ましてや殺人など、考えられない。
「佐伯に殺された……と? それはないでしょう」
「最悪の想像だ」安西の顔を見ようともせずに、署長は言った。「だが、もしこれが事実なら、絶対に外部には漏らせない。君も、万全の注意を払ってくれたまえ。VIPルームを押さえたのは正解だった。廊下の監視も強化する。君はなるべく病院を離れるな。人手が必要になったらすぐ都合できるように手配しておく。ついさっき、本部には連絡を入れた。担当者がこちらに向かっている。彼らが着いたら、指示に従うように」
担当者とは、警察の内部犯罪を調査する監察だろう。署長は、この件を外部から遮断するために直接安西に念を押しに来たのだ。
署長の意図を読んだ安西は、かすれた声を絞り出すように言った。
「分かりました。報告は頻繁に、署長に直接行います」
*
ナースやスタッフが親身になって世話をしてくれていることは痛いほど分かる。実際、彼らの手助けがなければ私は生き続けることができない。
それでも、クラゲのようにぐにゃぐにゃした身体をねじ曲げられて身体を拭われ、汚物まみれの大人用オムツを若い女性達に交換されるのは屈辱だ。唾液を吸い取るために口と鼻の孔から突っ込まれるチューブは、まるで心臓に叩き込まれたナイフのように思える。
抉られているのは、自尊心だ。床ずれを防ぐために数時間置きに身体の向きを変える時も、彼らは力を振り絞った後に軽い溜息をもらす。言葉は優しく親しげだが、重くて扱いにくい患者に辟易していることは隠せない。
若い頃はラグビーで鍛えた筋肉質の身体が、今は疎ましく、情けない。だが回復が遅れれば、この歳まで維持してきた筋肉がどんどん萎縮していく。軽く、扱いやすく、骨と皮と脂肪だけの役に立たない病人へと変質していく。鼻のチューブから栄養を注入され、糞尿を垂れ流す病人……。
たった数日の入院が、私におぞましい未来を見せつけていた。
犯罪者から市民を守ることに自分の価値を見出していた私には、死よりも悲惨な未来だ。私には〝良き警官〟であり続けなければならない理由がある。でなければ、人として生きる意味さえ失いかねない。
いや、このまま回復できないのなら、もはや人とすら呼べないのか――。
だめだ! 弱気になるな! やらなければならないことがあるんだ!
知っていることを仲間に伝え、金森を救出しなければならない!
陣内は言った。この症状は後遺症の程度が予測できないことが多い。絶望的だと思った患者が回復した例もある。治療には全力を尽くす。あとは、蘇りたいと願う精神力だ、と。
私が諦めれば、それで終わりだ。たとえ一生動けないとしても、言葉だけは出さなければならない! それも、できるだけ速く!
どうすれば良いかなど、分かりはしない。だが、希望を失ってはならない。今は、意志の力を信じるだけだ。
右手を握ることはできた。つまり、こちらの神経は働き始めている。腕も動かせるに違いない。次には、声帯も動かせるようになるだろう。
希望はある。自分の力を信じろ!
首はまだ上げられないから、自分の腕を見ることができない。動いても、確認できない。
ならば、腕を見える場所に動かそう。何とか、顔の前に持ってきたい。
力を込めてみる。
力を入れているつもりだが、身体が動いている気がしない。幽霊にでもなったようだ。
だが、諦めるものか。指は動いた。腕だって、きっと動く。
動かしてみせる。喋ってみせる。
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