多恵はベッドサイドに椅子を置き、VIPルームに移された佐伯の手を握っていた。

 部屋は広かった。通りがかりに廊下から覗ける六人部屋よりもはるかに広く思える。何より異質なのは内装だ。まるで老舗旅館が外国人向けにアレンジしたスイートルームのような、品の良い和風の部屋だった。病院にはまるで似つかわしくない。

 部屋の半分は数人の家族が寛げそうな豪華な設備で占められている。ベッドとしても使える本革のソファーセットは高級ホテルでも使用されているドイツ製で、部屋の中央には巨大な無垢板のダイニングテーブルが据えられていた。傍らには天然大理石のカウンタートップのシステムキッチンが備えられている。壁際のテレビは100インチを超え、キッチンの電子レンジも最新式だ。冷蔵庫の脇には日干し煉瓦の小型ワインカーヴまで置かれている。

 この部屋には、もう一つ仕掛けが施されていた。隣接する六人部屋と行き来できる隠し扉が設けられているのだ。必要な場合は六人部屋のベッドを全て入れ替え、家族や関係者が宿泊できるようにするためだった。

 それは、この病院の立て替えに際して一〇億円を超える寄付したと噂される地元政治家からの要望だった。日本有数の資産家で元首相である政治家の、〝万一〟の際への備えだ。マスコミから逃れて家族や秘書とともに〝緊急入院〟できる場所を確保しておきたかったのだ。空き部屋になっていることが多いVIPルームは、スタッフの間で『総理室』と揶揄されている。それでも、彼の寄付が病院の設備を飛躍的に充実させたことは誰もが認めている。

 VIPルームの内装は、その政治家が懇意にしているインテリアデザイナーが手がけていた。元首相が和風を好むことを熟知していたデザイナーは、日本中から最高級の材料を集めて腕を振るった。四隅には飾りとして太い越後杉の柱を配し、壁は黄色みを帯びた土佐漆喰で塗り上げている。備えられた浴室は総檜づくりだ。大型総合病院には不似合いな部屋なのだが、一歩その中に入ると、逆に室内の医療機器のほうが異様に感じる世界に包まれる。

 この部屋に寝泊まりするよう指示された多恵は、豪華な内装に驚いて真っ先に支払いを心配した。

 安西は言った。

『ご心配なく。金銭的なことは全て警察が負担します。佐伯は、命を賭けて犯罪者と戦った我々の鑑ですから。事件を嗅ぎ付けてマスコミが押しかけるかもしれませんが、ここなら避けられます。多恵さんも、なるべくこの部屋を出ないようにお願いいたします。記者連中は、ずる賢い手を使って情報を聞き出そうとしますので』

 警察の内部事情を少しは知っている多恵は、直感的に警察が父親の入院を隠そうとしているのだと見抜いた。

 佐伯が倒れた状況は安西から説明されたが、刑事が殺されているかもしれないというのは大事件だ。警察が神経質になるのもうなずける。だが、それで父親が充分な治療を受けられるなら、拒否する理由はない。

 佐伯の姿はICUの時とさほど違いはなかった。

 右腕には血圧測定のマンシェットが巻かれ、左腕には二本の点滴が刺されている。鼻からは栄養補給のチューブが点滴スタンドに伸び、左の指先は酸素飽和度を検知するセンサーに挟まれている。さらに、耳たぶまでもが炭酸ガスモニターのセンサーで挟まれていた。それは高度医療センター以外では使用されることが少ない装置だが、浅い呼吸が原因で炭酸ガスが蓄積して昏睡になる危険を防ぐための措置だった。ベッドの傍らでは、心電図を刻むモニターに刻々と変化する数字が並ぶ。呼吸抑制、心疾患、肺塞栓、痙攣、消化管出血や出血性梗塞など、あらゆる異常をいち早く検出できる万全の体勢だった。

 アルテプラーゼ使用後に24時間以上経過してから使用される血栓溶解剤――ヘパリンを点滴するスタンドには、輸液ポンプと呼ばれる装置が取り付けられていた。ポンプ内部では点滴チューブがローラーに挟まれて点滴液を送り出し、時間当たりの投薬量が数値で厳密にコントロールされている。足には深部静脈血栓症予防の弾性ストッキングを着用していた。

 佐伯が生死の境をさまよう重病人である事に変わりはないのだ。

 それでも、無骨な医療機器に取り囲まれたICUとは、雰囲気が違う。落ち着いた和式の内装と暗めの照明のおかげで、緊迫感は和らいでいた。

 多恵は不意に、重苦しい溜息を漏らした。

 医師やナースたちが去って父と二人きりになって、本心をさらけ出すことができたのだ。

 父親が聞いているかどうかは分からない。それでも、言葉にしていた。

「父さん……ごめんね、私が付いててあげられられなくて……」父親に単身生活を強いたのは自分だという後悔があった。「お母さんが、あんなだから……。父さんなら、一人で大丈夫だと思ってたし。こんな病気になっちゃうなんて、考えもしなかった……」

 多恵にとっての父親は、物心ついてからずっと〝犯罪と戦うヒーロー〟だった。

 幼児期は病弱で家で静養することが多かった多恵は、父親が家にいる時は寝物語をせがんでばかりいた。無骨な父親が話せることは、警察の仕事の他にはない。当然、聞かされる出来事が全てが分かるわけではなかったが、多恵にとってはどれもが心躍るヒーロー物語だった。

 署内で孤立しがちだった佐伯は、多恵が成長しても警察の内幕を話すことをやめなかった。それが二人にとって、最も自然なコミュニケーションの方法になっていたのだ。そして佐伯にとっても、心の澱を吐き出せる数少ない場だった。

 だから多恵は、佐伯が抱える問題を常に自分のこととして見つめていた。それは決して他者には漏らしてはならない秘密だと、幼い時から理解していた。佐伯が自分を信頼しているからこそ話してもらえる、〝特別なご褒美〟なのだと知っていた。一般的に刑事は、家族にさえ捜査情報を話さない。それに気づいたのは、中学生になってからだ。

 多恵自身は詳しく覚えていないが、二人の間にはもう一つの秘密があった。

 多恵が幼稚園の頃、不審者に拉致されそうになった事件があったのだ。その恐怖感だけは、今も記憶にこびりついている。大事に至る寸前で救出してくれたのは、父親だった。だからこそ父親は、多恵にとって真のヒーローであり続けたのだ。

 佐伯はその事件を思い出したくなさそうだった。事件はいつの間にか触れてはならない話題となり、多恵の記憶も薄れていった。

 だが一方では、佐伯の愚直な刑事魂が、長い時間をかけて夫婦の間に溝を刻み込んでいた。妻の心をじわじわと追い詰めていった。

 その過程も、多恵は身近に見つめてきた。断片的に語られる父親の言葉と、それに応える母の表情から、皮膚に突き刺さるように感じてきた。

 すれ違いは、佐伯が不正を嫌ったために起きた。

 不正は、外にだけあるのではない。大きなものだけでもない。明らかなものだけでもない。警察にも、一般社会と同じように広大な〝グレーゾーン〟が広がっている。

 階層社会の歪みのような裏金づくりや、特定の業界への不適切な情報提供など、大小さまざまの〝疑惑〟は否定しきれない。暴力組織を相手にすることもあった佐伯のまわりにも、誘惑は多かった。政財界とのつながりや、歓楽街での治安維持には特に危険が多い。その淀みの中でしか得られない情報や、人間関係もある。ある種の〝裏金〟がなければ、捜査が頓挫しかねない現実もある。

 佐伯も、グレーゾーンでの情報のやり取りを日常的に行っていた。行わなければ職務が果たせない。だが、決して一線は越えなかった。そこを見誤らないないように、臆病なまでに神経を研ぎすませていた。だが、利権に取り込まれていく仲間が目に入っても、非難したことはなかった。

〝必要悪〟だと諦めていたことを、多恵は知っている。

 完璧な組織などあり得ない。自らの手を純白な縄で縛れば、犯罪とは戦えない。目的は犯罪の抑止だ。そのためであれば、多少の汚点には目をつぶる他ないのだ。それでも佐伯自身は、決して不正が疑われる案件には近づかなかった。

 それが父親の〝掟〟だということを、多恵は知っていた。だが、その〝掟〟が組織の中では許されないことまでは、知らなかった。

 事の起こりはほんの小さな出来事だった。

 衆議院選挙で当選した保守系議員が暴力団関係者との接点を持っていたことを、道警が意図的に無視したのだ。それは佐伯にも予測できていたし、やむを得ないことだと黙認もした。だが、その議員が私的に設けた食事会に参加することはなかった。そのささやかな意思表示が、組織を刺激した。それまで佐伯に向けられていた変わり者を見るような視線が、敵意を含み始めたのだ。

 不正に呑み込まれた者とっては、信念を貫く者が疎ましい。組織としても、裏金を暴きかねない〝正義漢〟は目障りだ。佐伯はいつの間にか孤立を深めていった。危険な現場ばかりを任せられることになった。

 実際、ヤクザとの乱闘で重傷を負ったこともある。佐伯は単なる部下の連絡ミスが原因だったと言ったが、母親は同僚たちが仕組んだ〝罠〟に違いないと怯えた。多恵自身も、本当は何があったのかと佐伯に問いただしたが、気にするなと一蹴されただけだった。

 その時多恵は、全てを自分一人で呑み込んで現実を受入れようとする父親の〝覚悟〟を感じた。だが、事は佐伯一人では終わらなかった。

 母親もまた、警察官の妻たちの輪からはじき出され始めたのだ。そして母は、佐伯ほど強い意志を持った人間ではなかった。そんな絶え間ない不安と孤独感が、母親の心を圧し潰していった。

 別居は、妻が鬱病と診断された直後に、佐伯自身が切り出した。自分が側にいること自体が妻を限界に追い込んでいると認めるしかなかったのだ。妻は今、恵庭の実家に戻って両親と多恵と共に暮らしている。

 多恵もまた、家族の崩壊を見続けていた。だから、壊れていく母の元を離れることができなかった。父親は決して間違っていないと確信しながらも、他の道は選べなかった。

 結果、積み重ねられた二年間が佐伯の身体をも蝕んでいた。父親もまた、強いふりをしていただけだったのだ。

 生身の人間だ。ヒーローなどではない。

 多恵は、かすかな涙を流した。

「ごめんね、父さん……一緒にいられなくて……。でも、良かった。父さんが生きていて。それだけでいい。父さんと組んでた刑事さん、殺されたかもしれないって……。現場に、すごい量の血が残ってたって……連れ去られたようだって……」

 そして、父の手を強く握りしめた。

 ほんの少しの間を置いた後だった。多恵の指にかすかな圧力が加わる――

「え?」

 もう一度、かすかな圧力。指が、動いている。手を握り返している。

 多恵は腰を上げて、両手で父親の手を包んだ。

「父さん! 分かる⁉ わたしが分かる⁉」

 そして、息を殺す――

 指がまた曲がった。弱々しく、しかし、確実に。

 多恵ははっと身を起こして、ナースコールのボタンを押した。そしてまた父の手を両手で握り、涙を溢れさせる。

 病室のドアがスライドして、中里美緒の間延びした声が聞こえた。

「どうしましたぁ?」

 振り返った多恵は叫んだ。

「今、指が動きました!」

 美緒はわずかに背筋を伸ばす。

「麻痺の回復は、指先から始まることが多いんです! 先生呼んできます!」


           *


 ありがとう……

 ありがとう、多恵……

 分かる。お前の気持ちは分かるよ。

 指、動いたみたいだな……

 ありがたい。これなら、回復できるかもしれないな……

 だが、金森は? 

 現場には、確かに血だまりがあった。あれだけの出血があったら、命も危ない。

 金森の血だったのか……? あいつは先に現場に着いて、組織に襲われたのか……?

 どこに消えたのか分かっていないのか? 組織に拉致されたのか?

 無事ならいいが……。

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