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佐伯多恵は激しい動悸を抑えようと深く息を吸った。
父が倒れたという連絡がiPhoneに入ったのは、動物飼育を学ぶ専門学校のイベントの準備で徹夜をした朝だった。警察には、父の連絡先として自分を指定していたのだ。その際に、おまかな状況は伝えられている。
事態は深刻だった。脳の血管が詰まったため、すぐに血の塊を溶かす薬を点滴しなければならないが、その治療には出血などの危険性が伴うという。そのために、家族の同意取得が必要だと説明された。
多恵はそのまま一睡もせずに、高速バスに飛び乗った。
広い面談室の中で、陣内はパソコンのモニターに表示された画像をボールペンの先で示しながら淡々と説明した。
「この、白く見える点――小さな3ミリくらいの部分が、脳の中心の動脈に詰まった血の塊です。脳底動脈という、脳幹に血を供給している血管です。この画像は脳血管造影CTのもので、脳底動脈が脳塞栓症により途絶していることが確認できます」
多恵は陣内の言葉を遮った。
「危篤だって聞いたんですが……」
まだ父親の顔は見ていない。病院に着くなり、多恵の到着を待っていた警官たちに付き添われて、担当医からの説明を受けることになったのだ。
今も、安西という上司が背後で黙って医師の説明を聞いている。
陣内がうなずく。
「ICU――集中治療室で治療中で、今は状態が落ち着いています。梗塞の原因となった血栓を溶かす薬品の投与で様子を見ています。しかし、最も危惧していた出血は起きていないようです」
「確認はできないんですか?」
「MRIなら確認できますが、強力な磁場を発生する上に検査時間が長くなるので控えています。まだ昏睡状態で、多くの医療機器につながれた状態ですしね……。そのため、正確な脳梗塞の範囲を確認することが難しくなっています。脳幹梗塞は、虚血が延髄にまで及ぶと、呼吸停止、上気道の閉塞――つまり窒息が起きます。脳MRIでは非常に細長い空間に全身を入れますし、容態を監視する機器にも限りがあります。撮影中に容体急変が起きると早期発見や迅速な対処ができにくいのです。それに……」
言いよどんだ陣内は、安西の顔色を伺った。銃声や爆発の件を話していいものか、迷ったのだ。
安西がそれを察して、うなずく。今後は佐伯の娘を警察の監視下に置き、マスコミとは接触させないという方針が決定されている。娘が事実を知っても、問題はない。
「それに……?」
「お父さんは爆発に巻き込まれ、銃撃された恐れもありました」
「え⁉」多恵が背後の安西を見る。「ただの病気じゃなかったんですか?」
安西はすまなそうに目を伏せた。
「お知らせできなくて申し訳ありませんでした。情報が漏れますと、捜査に支障が起きかねませんので……」
「捜査中の事故……ですか?」
陣内が説明を引き取る。
「爆発や銃撃は今のお父さんの状態とは関係ないと考えています。たまたま発症が重なったのでしょう。脳梗塞の原因は主に喫煙や肥満、ストレスなどの生活習慣です。佐伯さんは、長年ヘビースモーカーだったようですね。早朝の張り込みの寒さも危険因子になります。捜査時の急激な血圧上昇が発作の引き金になったのだと思います。ですが、万一体内に磁性体、つまり磁石にくっつく金属が入っていると、MRIの磁場に反応して火傷を起こすおそれがあります。ですから念のために、肺・肝・腎・骨盤腔まで造影CTで調べ、四肢のレントゲンも実施しました。内臓損傷や金属片はありませんでした。ご本人は、心房細動があって急性発症で脳幹の症状を示していますし、脳血管造影CTで脳底動脈の閉塞が確認できています。心房細動のために心臓に血の塊ができて、脳の血管に流れ込んできて詰まった可能性が非常に高いと考えます。心原性脳塞栓症による脳底動脈閉塞でしょう。アルテプラーゼという血栓溶解薬を迅速に投与開始できて、今は自発呼吸が改善して眼球運動の上下転が可能となっています。今の段階では、リスクを冒して脳MRIを実施する必要はないでしょう」
多恵の深呼吸が安堵のため息に変わる。
「それって、回復しているってことですよね?」
陣内はうなずいたが、笑顔はない。
「脳幹部の梗塞は命に関わることが多いですが、お父さんの場合はその危険は脱したと言っていいでしょう」ゆっくりとした口調で説明を続ける。相手が理解しているかどうかを確かめながら、いつでも質問を受けるという姿勢が生んだ話し方だ。「しかし、重篤な後遺症が残る可能性も高い状態です。CTで脳底動脈の塞栓が確認できます」パソコンの画像を示す。「ここです。その後ろにある脳幹への血流は途絶えていますので、脳幹梗塞が完成していると考えられます。CTでは脳梗塞の範囲はMRIより分かりにくく、骨に囲まれた脳幹部分は特に不明確になります。脳幹は小さいですし、脳塞栓症を発症してすぐ撮影したCTなので、脳梗塞の範囲は正確にはわかりません」
「その部分は、脳が壊れているんですか……? それで後遺症を……?」
「閉塞血管が再開通することはよくあります。再開通までの時間によって、脳幹梗塞の大きさや範囲が決まるんです。完成した脳梗塞の周辺には、脳の血流が不十分な領域が広がっています。半影帯とかペナンブラとか呼ぶんですが、閉塞血管の再開通までの時間が長ければ、この部分も完成した脳梗塞になってしまいます。その場合、後遺症も重篤になります。お父さんも、後遺症が全くないというわけにはいかないでしょう。再開通したかどうか、いつ再開通したかをすぐに知る方法もありません。再開通しても、逆に出血性梗塞となってより重篤になる事もあります」
「どっちに転ぶか分からない……ってことですか……?」
「正直、今の段階では……。後遺症の程度は、今後の経過によっても左右されます。このまま治療を続け、症状に合わせてリハビリの強度を上げていきますが……」
陣内が口ごもり、多恵をじっと見つめた。会話から、理解力が高いことは読み取っていた。後は、現実を受け止める精神力があるかどうかの問題だ。
多恵は、自ら説明を促した。
「最悪の場合は……?」
「救命はできても昏睡状態が持続したり、延髄梗塞になれば人工呼吸器が外せないことも考えられます。植物状態になるか、ロックド・イン・シンドロームと呼ばれる状態もないとは言えません」
「ロックド……? 閉じ込められる……ということですか? 何に?」
「自分自身に。外見は、いわゆる植物状態と同じです。会話も食事もできませんし、四肢が一切動かせなくなることもあります。それでも、意識はあります。知的能力は完全に保たれているのです。まばたきや眼球の上下動だけで意思を伝える――そんな事例がありまして、出版されたり映画になったりしています」
多恵の動悸が再び激しさを増す。
「そんな状態になる可能性は、高いんでしょうか……?」
「今の段階では何とも言えません。ただ、自発呼吸はできています。脳幹の橋という部分の梗塞が完成していたとしても、延髄までは及んでいないという証拠です。発症から数時間経過しても梗塞が延髄に広がらないのは、脳底動脈が再開通したからでしょう。再開通までにかかった時間と側副血行路、つまり他の動脈領域から血流を補う経路がもともとどれだけ発達していたかが問題です。それによって橋梗塞の範囲が決まりますから。現状を見る限り、回復の希望はあります。橋は脳幹の一部ですが、脳から手足に命令を伝える神経は一部分に集中しているのではなく橋全体に散らばって走行しています。脳梗塞の範囲から外れた神経が機能を発揮すれば、橋梗塞のあとでも運動麻痺の改善が良好な場合があります。昏睡・完全四肢麻痺で発症してから二週間で歩けるようになった報告例もあります。ただし、最悪の場合の覚悟だけは……」
*
感じる……。
手を握られていることは、分かる……。
誰だ?
だめだ……首が動かない……。
息が苦しい……声も出せない……。
だが……音は聞こえる……。
まわりで動き回る人々。薬品の匂いも分かる。
声……。温かい。
多恵……。多恵なのか?
よく見えない……
頭が動かせない……
どうしたんだ、一体……?
何が起こった……?
何かの発作なのか?
なぜ、動けない……? なぜ、話せない……?
多恵……私はどうしてしまったんだ……?
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