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佐伯が搬入された国元総合病院は、地域の高度医療を支える最先端病院だった。心肺停止、重症熱傷、多発外傷、脳卒中など、生命の危機に瀕している重篤な患者を受け入れる三次救急を担っている。道南の基幹病院として高度急性期医療を扱い、災害拠点病院の指定も受ける高度救命救急センターだ。
病院の出発点は市の中核産業である製紙工場で、社員の福利厚生のための企業立病院として運営されてきた。後に人口増加に伴って医療社団法人が設立され、病院事業が独立、発展してきたのだ。今では道南全域から患者を集める総合病院へと成長していたが、市の中心部にあった建物は手狭で不満が多かった。そのため、二年ほど前に北部の原生林に面した場所に広大な敷地を取得し、新築移転している。
地上六階、地下一階建ての免震構造、許可病床数457床の新病院には、3・0テスラMRI、320列CTなどの最新の機材とともに、コンピューターで集中管理された運営・保安システムが導入された。診療科目も基本的な内科、外科関連を始め、小児科、産婦人科、歯科、皮膚科、眼科とほぼ全ての領域をカバーしている。
屋上にはドクターヘリ用のヘリポートも完備され、五倍に拡大された救急診療部の救急車取扱い件数は一日平均30人に及ぶ。また、未知のインフルエンザなどのパンデミック対策として各階が独立した空調を備えるなど、実験的と言えるほどの設備を整えている。札幌市以外の民間病院としては、道内最高の水準を誇っていた。
佐伯の様子を確認してERから廊下に出た安西は近くの携帯電話ブースへ入った。廊下の一部を広げた、五人ほどが座れるコーナーだ。医療機器に影響を与える恐れがある携帯電話は基本的に使用を制限されているが、このブースでは自由に使える規定になっている。
署長を呼び出す。
国家公務員倫理規定違反で前任の署長が更迭されたのは、ほんの一年前だ。それ以来、署はあらゆる不祥事に神経を尖らせている。部下が現場で倒れたことの責任を問われることを恐れていた新署長は、いち早い状況報告を安西に求めていたのだ。
署長はワンコールで出た。
「安西です」
『状況はどうだ?』
「命は取り留めています。今はERで投薬治療を開始したところです。山を越えるまではICUのベッドで様子を監視するそうです。意識がはっきりしていないのでMRIが使えず、CTでの検査だけですが、脳幹梗塞らしいということです。外傷は認められないそうです」
『病気、ということだな?』
「はい」
『佐伯の張り込みの件は聞いていたのか? 私が管理責任を問われる可能性はないか?』
安西は小さく唇をゆがめた。
署長の関心は、そこにしかない。それが国家公務員というものだ。思わず応える。
「過重な業務が原因――とか、マスコミに突っ込まれる余地はあるかもしれませんね。そろそろ事件を嗅ぎ付けた記者が現れる頃ですから」
『そうなのか⁉ 君が命じたのか⁉』
「現場の刑事がオーバーワークになることはあります。ですが、今回は違います。報告を受けていた限りでは、あの時間、佐伯は人間ドックに入っている予定でした。張り込みは、彼らの独断です」
『人間ドックだと? そもそも病気持ちだったのか?』
その件は数日前に報告している。記憶がない、というよりは関心がないのだ。
「精密検査です。健康診断の結果が悪かったので。昨日から休暇に入っているはずでした」
『それがどうして?』
「部下も詳しい事情は知りませんでした。金森と二人で内偵している件で、事態が急変したものと思われます」
『どの事件だ?』
「ヤクがらみだと思います。本部から協力を要請されていた、あれです。暇を見ては二人で組織を追っていましたから。佐伯は本部ともつながりが深いですから、濃い情報を握っています。組とは関係を持たない、独立した小規模な密造組織らしいと聞かされていました。半グレ、ってヤツでしょう」
『では、署としては張り込みの報告は受けていなかったのだな? あくまでも佐伯個人の判断で、緊急入院は偶発的なものだと理解していいな?』
「いいと思います。ですが、問題が……」
『何だ?』
「肝心の金森と全く連絡が取れないのです。携帯の電源が切られています。部下も、あいつの居所を知りません」
『どういうことだ?』
安西はあたりを見渡して人がいないことを確認すると、携帯を口に近づけて声を落とした。
「鑑識の第一報は出ていますか?」
『まだ報告は届いていないが……何か気になるのか?』
安西は声をひそめた。
「銃声を聞いたという通報を受けて、現場にパトカーを送っています。ですが、佐伯も金森も銃は携行していません」
『撃たれた可能性があるのか⁉』
「駆けつけた巡査が、現場に大量の血痕が残されているのを見ています。金森の血かもしれないと思いまして……」
『大量……?』
「致死量に近いというのが巡査の感触です。二人で追っていたヤマですから、現場に金森もいたと考えるのが自然です」
『まさか……金森が殺されたというのか⁉』
「思い過ごしならいいのですが、血痕があったことは確かです。佐伯は血まみれでしたが、本人は出血はしていません。現場に集まった組織員を二人で張り込んでいたなら、金森が襲われた可能性はあります。考えたくありませんが、組織は死体を隠すために持ち去ったのかもしれません」
署長が息をのむ気配があった。しばらく沈黙した後に、返事が返る。その声はわずかに震えていた。
『警官殺しは重大事件だ。確実な情報がつかめるまで、マスコミに悟らせるな。鑑識には私が直接指示を出す。部下にも口止めをしておけ』
「分かっています。しかし、大部分は現場の捜査に向かいました。私はもうしばらく佐伯の回復を待ちたいと思います。佐伯が何かを口外する恐れもありますから」
『うむ……早急にこちらでも手を打つ。その病院の理事長とはゴルフ仲間だ。セキュリティが厳重なVIP用の個室があったはずだから、そこを押さえよう。なるべく早く個室に入れて外部と遮断できるように、そちらでも交渉してくれ。何か進展があったらすぐに知らせるように』
署長は一方的に電話を切った。
安西はすぐに鑑識課に連絡を入れた。
「現場の状況で分かったことはあるか?」
『温風機の爆発は故意のものでした。内部にカセットコンロのボンベが仕掛けてありました。スイッチを入れて一〇分程度で爆発するトラップです』
「やはりな。現場に残っていた血痕のDNA鑑定は、真っ先に金森のデータと照合しろ」
『その線で進めています。簡易検査なら数時間で結果が出ます。確度は高くありませんが』
「それでいい。とにかく急げ。金森が生きたまま連れ去られたなら、時間が勝負だ」
鑑識が口ごもる。
『それが……』
「なんだ?」
『おおよその出血量が判明しています。約三リットル弱……』
「金森の血なら、生きてはいないということか……」
『常識的には』
「厳しいな……。誰が銃声の一報を入れたのか判明したのか?」
『いえ、まだ見つかったとは聞いていません。銃声だったという確証も取れていません。倉庫の中は調べ続けていますが、弾痕なども見つからなくて……。発砲が外なら、発見には時間がかかります。雪に埋まったら、春まで発見できないかも……』
「だろうな。だが、状況を見れば金森が撃たれたと考えるのが自然だ。希望があるうちは、全力で探す。とにかくDNAの確認を急いでくれ」
*
頭がはっきりしない……
深い海の底に沈んでいるようだ……
視界は一面のグレー一色だ……天井を見上げているのか……?
かすかな匂いは感じる……
消毒薬のような……
病院、か……?
身体が動かない……首を回すこともできない……
音は聞こえる……周囲は、騒がしい……
倒れたのか……?
爆発があったはずだが……
脚を滑らせて、血まみれになって、それから……?
だめだ……頭が働かない……
病院……だよな……
何か薬を……入れられているのか……
だめだ……考えられない……
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