第1章・ロックド イン シンドローム

 救急搬送口に停まった救急車の後部ハッチが開かれる。

 当直医師、陣内孝之は、救急隊からの第一報を反芻しながらハッチに向かった。

――患者は55歳男性の刑事、職務執行中に小規模な爆発に遭遇、倒れるところを同僚が目撃、呼びかけにも反応なし。要請が05時24分、救急隊到着時にはJCS(意識レベル)200、痛み刺激で体動はあるが、若干右上下肢の動きが認められる程度。瞳孔はピンホール、左方への共同偏視あり。バイタルは血圧220、レート80、心電図でAf(心房細動)。舌根やや沈下気味――

 陣内の後を、緊張した表情の研修医が追う。

 救急隊員が救急用ストレッチャーを引き出す。ブロック状の固定具で挟まれた患者の顔はプラスティックの酸素マスクで覆われていたが、全面に血液を拭った痕跡がある。ジャケットの襟裳は、病院の照明を反射してぬらぬらと黒光りしていた。

 研修医がつぶやく。

「血まみれじゃないですか……」

 うなずいた陣内は、冷静に救急隊員に尋ねた。

「第一報では伝えられませんでしたね。爆発による外傷ですか?」

 救急隊員が説明する。

「明らかな外傷や吐血の痕跡はありません。他人の血液が付着したようです」

 衣服に付着した血液は、ざっと見たところ1リットル以上になりそうだった。本人の血液なら、極めて危険な失血量だ。

 陣内は素早く患者の手首に触れる。血圧が80以上あることは確認できた。顔面蒼白や、冷汗、湿潤も認められない。報告されていたバイタル――血圧・脈拍・酸素飽和度も急性循環不全は示していない。救急隊員の判断はおそらく正しい。

 だが、絶対とは言えない。

 救急隊員が続ける。

「血圧220、車内のモニターでは心拍数150の心房細動。自発呼吸は浅く、鼾様です。酸素呼吸なしでパルスオキシメーターで血中酸素飽度88%でしたので、酸素5リッター、マスクで開始しました。現在、酸素飽和度98%です」

 陣内はポケットからペンライトを取り出し、患者の顔を覗き込む。ライトの光を瞳孔に当て、研修医に説明するように言った。

「両側とも縮瞳、2ミリ、対光反射なし。救急からの報告ではJCS200の昏睡、痛み刺激で四肢は僅かに屈曲するということだ。心房細動があるから心原性脳塞栓症だな。病変部位は脳幹だろう。血圧上昇だけでは梗塞か出血か判断できない」そして、研修医へ明確な指示を出す。「ICUへ連絡、ベッド確保。人工呼吸器はセットアップのみ。緊急でMRI。念のため救急外来での血圧測定間隔は2分間隔で行う。輸血にはならなさそうだが、すぐに血液型検査の採血を実施する。検査室に電話して、この患者の血型検査だけ大至急にするように。血型の結果が出しだい私に直接連絡させてくれ。直ちに照射赤血球濃厚液をオーダーし、クロスマッチ(交差試験/副作用予防のため、本人の血液の一部を輸血の血液と混ぜて凝集の有無を確認する)を行う。衣服に付着した大量の血が本人の物ではないことを確認、全身造影CTで出血がないことを確認、その上でバイタルが大丈夫そうなら、準備した血液は輸血せずにICUの冷凍庫で二日間保管する。その間に消化管出血などなければ輸血部に返却すればいい。Rhマイナスの場合、札幌から血液運搬車で緊急輸送する必要があるから、二時間はかかる。それまでは代用血漿で血圧を保たせる。外傷なしで脳梗塞のみならアルテプラーゼを使う可能性もある。その場合、家族には私から直接連絡して同意を得る」

 一気に指示を受けた研修医は、うなずきながら小走りに院内へ急いだ。電子カルテ・オーダリングシステムを完備した救急処置室のデスクへ向かうのだ。

 陣内は救急隊員に尋ねた。

「で、彼らは? 犯罪がらみですか?」

 救急車の前後には、三台のパトカーが停まっている。救急車を先導しながら一団となって到着した車両だ。そこから制服、私服の警官が飛び出し、陣内を囲んでいた。

 自家用の車で合流したらしい一人が、警察手帳を見せた。刑事課課長と記されている。

「苫小牧東署の安西だ。こいつは佐伯剛。張り込みの最中に倒れた」

 救急外来へ運ばれて行くストレッチャーを横目で見た陣内が、警官に質問する。

「何の捜査を?」

「それは言えない」

「付着している血液が本人のものかどうか、確証はありますか?」

「まだ断定はできない。現場で捜査を続けている。DNA鑑定もかける」

 他の警官たちが心配そうにストレッチャーを追っていく。

 陣内も後を追いながら、続けた。

「明らかに重症ですが、通常の脳疾患なら型通りの検査と治療で対応できます。ですが、事件や事故では、特殊な病態が作用することがあります。正確な診断が行えないと治療が難しくなる場合もあります。現場の状況が分かると無駄な検査と時間を省けます。なるべく詳しく教えてください。発症した際の状況をご存知ですか?」

 安西はうなずく。

「佐伯は内偵していた組織を張り込んでいた。その近くで銃声らしい音を聞いたという通報があって、パトカーを送った」

「銃声⁉ 爆発ではなく?」

「爆発音が聞こえたのは、パトカーが現場に付いてすぐだ。温風機が爆発していたが、規模は極めて小さい。その近くに佐伯が倒れていたが、間に壁があったので直接の影響は考えにくい。その足下に大量の血痕があったが、これは本人のものではなさそうだ。佐伯からの出血は確認できていない。別の人間がそこで殺されたのかもしれない。近くには複数の車の新しいタイヤ痕が残っていた。佐伯も組織に危害を加えられた可能性はある」

「銃声が先で、爆発はあと、ですね」

「そう報告を受けている」

「分かりました」

 高度救命救急センターのER――救急外来では、五人の専任ナースが待ち受けていた。陣内が素早く指示を送る。

「銃弾による穿通外傷が否定できない。爆発物の金属片が体内に入っている可能性もある。体表の穿通外傷の刺入創を検索して」

 古参のナースが問う。

「銃弾……ですか?」

「患者は刑事だ。倒れる前に銃声が聞こえたらしい。拳銃で撃たれているかもしれない。銃弾なら弾芯は鉛、被膜は銅だろう。いずれも非磁性体だからMRIは可能だが、その後、爆発にも巻き込まれている。磁性体金属が残っていればMRIで熱傷になる。浅呼吸・舌根沈下を含めて脳幹症状もある。心房細動からの心原性脳塞栓症、脳底動脈閉塞、脳幹梗塞なら、急に症状が悪化する恐れもある。MRI中に急変すれば、その察知も救命処置も難しいだろう」

「じゃあCTで?」

 陣内がうなずく。

「当初予定のMRIはいったん中止だ。ただちに造影CTの準備を。脳底動脈閉塞の確認、内臓損傷・金属片検索を兼ねて脳血管造影CTを行う。直後に肺・肝・腎・骨盤腔CTを行えば造影CTになる。ついでに内臓損傷も確認できる。造影CTが出来次第、私が外科医に連絡する。内臓損傷の有無を判定してもらう。上肢・下肢レントゲンも撮れば金属片の全身検索だけは完了できる。どのみちMRIは必要だから、その準備にもなる。まず、迅速クレアチニン測定だ」

 若いナースが首を傾げる。

「迅速クレアチニン測定……ですか?」

 その間にも、他のナースは作業にかかっていた。

「君、まだ救急に慣れていなかったっけ?」陣内が説明する。「採血していると30分はかかる。ヨード造影剤による造影剤腎症を防ぐためだ。だが救急外来では時間が勝負だ。30秒でクレアチニン測定ができる」

 

           *


 なにが おこっている……?

 わたしは どうしたんだ……?

 ここは どこだ……?

 うごけない……こえが でない……

 なぜだ……

 いきが くるしい……

 これは なんだ……

 なにが おこったんだ……?

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