沈黙の死闘

岡 辰郎

プロローグ

プロローグ

 高血圧の原因ははっきりしている。

 ストレスだ。刑事という職業柄、逃れる術はない。

 だが、精密検査が必要なほどだとは思ってもいなかった。一年前と比べ、急激に悪化している。生活が乱れていたことは自覚していた。道警本部から苫小牧東署に移って以来続けている、単身生活のせいに違いない。食事の時間は不規則で、外食ばかり。腹が満たされさえすれば、栄養のバランスなどに気を使ったこともない。

 所轄への転属を申し出たのは私の方だ。家族と別居するためだった。原因が私にあることも分かっている。

 別居生活は二年を超えたが、さすがに離婚届を送りつけられたのはこたえた。娘は今年専門学校を卒業するから、もうけじめを付けるべきだとは分かっているのだが……。

 本当なら、今頃は人間ドックで精密検査を受けているはずだった。だが、一年で最も寒いこの時期の夜明け前の風に晒されながら、雪に覆われた倉庫を張り込んでいる。港の大型倉庫群から少し外れた位置にある、古びた建物だ。サイズも幼稚園の校舎程度で、大きいとは言えない。倉庫本体とその脇の事務所が一体になった構造で、周辺には同じような倉庫が建ち並んでいる。郊外のショッピングセンターに客を奪われてしまった駅前商店街を思わせる、寂れた一帯だ。

 まるで、私自身のようでもある。

 体力が衰えないように、ジムには通い続けている。それでも、五〇歳を超えてからは思い通りに走れないことも多くなった。先輩たちから嫌というほど聞かされて来た『もう歳だな……』というぼやきが、事あるごとに心に突き刺さる。若い者たちとは、意思の疎通も楽にはいかない。彼らの考え方が理解できないことも多い。警察は、あらゆる面で凄まじいスピードで変わっているのだ。新しいシステムについていけないこともある。特にコンピューターの扱いになると、冷たい視線を感じながらも部下の世話になる事ばかりだ。昔気質の刑事など、絶滅危惧種と言ってもいいのだろう。

 人間ドックを受ければ、さらに悲惨な結果を突きつけられる。やらなければならない事、やってはならない事を、山ほど抱え込む。これまでと同じ暮らしは、たぶん続けられない。刑事でいることさえ、許されないかもしれない。それは、〝自分〟を失うことだ。自分と闘いながら刑事を続けてきた意味を失うことだ。

 検査入院を何度も延ばしてきたのは、避けられない現実に向き合う勇気が持てなかったからだと思う。ようやく覚悟を決めた時に、部下の金森から張り込みの要請がメールで送られてきた。逃げる口実が、天から降ってきたのだ。

――これまで実態をつかめなかった麻薬密造組織の尻尾を捉えた。札幌の組員がリーダー格のようで、その身辺調査から拠点を割り出せた。確信は持てないが、組織員が集まる可能性があるので、張り込んでいてほしい。自分は組織員を追って、合流する。しばらく連絡は取れなくなるかもしれない――

 一年以上、二人で追っていたヤマだ。

〝ミンタブ〟と呼ばれる新種の麻薬の内偵だった。ミントタブレットに酷似した錠剤で、一粒を舌下に入れるだけで瞬時に効果が出るという。麻薬成分は決して多くないのだが、桁外れの吸収力を発揮する加工がなされている。今のところは全国的には流通していない、札幌を中心とした道央限定の麻薬だ。生産と流通の規模が小さいのだ。だが、持っていても菓子と見分けはつかないし、注射器を使ったり吸引する必要もない。〝摘発しにくい麻薬〟というわけだ。その噂は全国的に広まりつつあり、爆発的な流行も遠くはない。今のうちに拡大の芽を摘んでおく必要がある。

 捜査の中心は札幌だが、胆振管内全域の所轄にも協力が要請されている。札幌時代のつながりから、私が所轄の窓口に指名された。我々の捜査の中心は苫小牧管内だが、裏付け調査のために札幌まで足を伸ばすことも少なくなかった。捜査線上には、密造から販売までを一括して仕切っている組織の傍証が上がってきている。組織の活動がこの街に濃く関わっていることも推測できた。確実な証拠が押さえられれば逮捕状を請求し、組織を一気に潰すこともできる。捜査は詰めの段階を迎えているのだ。

 責任感がある刑事なら、人間ドックは後回しにしようと決めるのは当然だろう。

 そう、自分に言い聞かせた。

 だが、狭い路地を挟んだ向かいの倉庫に身を隠しながら、寒さに耐えるのはつらい。部下や女性署員に冷たい目で見られてもやめられない煙草を堪えるのは、さらにつらい。時間はそろそろ六時だ。港から離れた人目に付かない倉庫街だとはいえ、犯罪組織が明るくなってから集まるとは考えにくい。

 金森からも連絡は入らない。

 空振りかもしれない。新たな情報が入らない限り、今夜は病院へ泊まることになる。薬臭い病室で眠って、二日間も検査を繰り返す……考えるだけで、うんざりだ。

 溜息を漏らした瞬間だった。

 路地に入ってくる車のライトが見えた。

 来た――と、直感した。   

 街灯の下を通った軽自動車が倉庫の脇に止まり、男が一人、降りる。遠目で人相までは見分けられなかったが、体格と雰囲気は分かった。

 小柄で太った猫背。降りた瞬間に跳ね上がった車で、体重が過剰だと分かる。いわゆる、オタクを連想させた。ヤクがらみの犯罪者には感じられないが、凶暴性は外見だけでは判別できない。大人しいだけだった人間がいきなり切れて、繁華街でナイフを振り回すことも多い。そのうち何割かはこんなタイプだ。

 だが、犯罪者にしては車が質素すぎる。張り込み自体が的外れだったのか、ろくな分け前も与えられていない下っ端なのか……。逆に、相当な知性と自制心を備えた〝強敵〟だということも考えられる。

 男が倉庫の事務所の鍵を開けて中に入る。鍵を持っているなら、こいつが組織の中心人物と考えるべきか?

 金森は、組織員がここに集まると読んでいる。それが確かなら、何らかの打ち合わせが行われるだろう。ブツも持ち込むかもしれない。新種のヤクと一緒に現行犯逮捕できれば、逮捕状を取る手間も省け、願ったりだ。製造元までたどって、被害が広がらないうちに全壊させることも期待できる。

 数分後、街灯の下を次の車が通過した。後部ウインドウをスモークにした黒塗りセダンで、わずかに光ったレクサスのエンブレムは金色だ。組員であることを誇示するような車だが、アルミホールは傷だらけで、タイヤハウスも歪んでいる型落ちだ。背伸びして買った事故車か、兄貴分に売りつけられたお下がりだろう。組員だとしても、地位も収入も高くはない。

 レクサスが軽自動車の後ろに停車する。

 案の定、出てきたのは肩をいからせたガタイのいい男だ。見た目で威圧することだけをウリにしている。〝出世〟すればするほど、取らなくなる態度だ。頭の悪い使い走りだと思っていいだろう。

 こいつが、金森が追っている組員なのだろうか?

 男は、倉庫に近づくとポケットからキーケースを出した。こいつも鍵を持っているのか? それなら、集まる全員が鍵を持たされているのかもしれない。誰がリーダーかは特定しにくい。集まるのが何人かもはっきりしていない。何のために集まるのかも、今のところ分かっていない。

 単なる打ち合わせか、ブツの受け渡しか、売上金の分配か……。連絡をよこした金森自身が、集会の内容までつかんでいる訳ではない。見切り発車の勇み足と承知した上での内偵捜査だ。拳銃の携帯を申請する裏付けすらなかったぐらいだ。応援を呼ぼうにも、情報が少なすぎる。

 金森はまだ来ない。連絡もない。追跡している組員が別にいて、それを追っていると考えていい。全員が揃うまで待つべきか?

 だが、さっきから胸騒ぎがしている。この機会を逃せば、組織が潰せないという確信じみた予感が沸き上がってきている。一秒でも早く証拠をつかんで、奴らを包囲するべきだ。このチャンスを棒に振れば、たとえ数日でも組織は生き延びる。その間に新種麻薬で汚染されていく被害者もいるはずだ。それを防ぐのも、私の役目だ。

 近づくしかない。

 物陰を抜け出して、倉庫に接近する。シャーベット状の雪が足下でじゃりっと音を立てる。

 倉庫の周辺はあらかじめ調べてあった。男たちが入ったのは、倉庫の横にある事務所の扉だ。そこからは見えない角に、フォークリフトなどが出入りする大きなシャッターが付いている。シャッターの脇にはアルミフレームの窓がつけられていた。この窓は古く、枠が歪んでロックができない状態になっている。忍び込めるのだ。

 息を殺して窓に近づく。倉庫の壁に張り付いたとたん、背後から首筋に冷たい金属を押し当てられた。

 油断していた。

 別の仲間が、すでに周囲を警戒していたらしい。

 背後で、男が言った。

「銃だって、分かるよな。即死だよ。逆らわないことだ」

 変に甲高い、ねちねちした声だ。

 私は、軽く両手を上げた。男が、銃口で私を押す。誘導されたのは、二人の男が入っていった事務所のドアだ。

「開けろ」

 私がドアを開くと、ぼろぼろのソファーに座った男たちがこちらを見た。

 真っ先に、室内を観察した。

 事務所の角では大型の温風機がうなりをたてていた。スイッチを入れたばかりのようだが、それでも室外はよりはるかに暖かい。建物自体が暖まっているのか、倉庫の中身が凍結を嫌う荷物なのかもしれない。

 倉庫側の壁にドアがあった。薄っぺらいアルミドアで、思い切り体当たりを食らわせれば開きそうだ。その脇にもガラス窓がある。窓枠は貧弱な木製で、簡単に壊れるだろう。倉庫の中を確認するための窓だろうが、向こう側は照明が消されて真っ暗なので、今は鏡のように事務所の中を映している。倉庫の内部にどんな荷物が詰められているのか全く分からない。最悪の場合、窓を破って向こう側に逃げなければならないが、置いてある荷物で大怪我をする可能性もあるわけだ。

 賭け、だな。

 改めて、男たちをじっくり観察する。遠目で見た通りの印象だ。三下ヤクザと引きこもりオタク。不釣り合いなコンビだ。

 ヤクザが私を見て言った。

「お前、誰だ?」

 黙っていると、背後の男が応えた。

「ボスじゃないのか? 俺たちの」

「……ってことだよな」

 は? 私のことを言っているのか?

〝ボス〟だと? 理解できない。どういう意味だ?

 ヤクザはニヤニヤ笑っている。横で縮こまっていたオタクも、唇をゆがめている。笑っているつもりなのだろう。

 背後の男が銃を下げた。

 両手を挙げたまま振り返る。

 男は黒いフライトジャケットを着ていたが、それがダークスーツだとしても違和感はないだろう。片耳に携帯電話用の小さなヘッドセットを付けた姿は、めまぐるしく変わる株価に追い立てられる証券マンを思わせる。男は肩をすくめて、手に持っていた短い鉄パイプを脇に投げ捨てた。銃ではなかったのだ。

「脅かして、すまないね。こそこそ裏口に近づいたんで、一応は警戒しないとな」

 どう応えるべきか――。

 この三人は、むろん、麻薬密造組織員だ。だが、犯罪組織にしてはあまりに無防備だ。集まっているメンバーも、ヤクザ以外は素人臭い。それぞれの態度も、よそよそしい。仲間内の馴れ馴れしさが全く感じられない。まるで、初対面の相手の腹を探り合っているような緊張感がある。なのに、私を仲間だと判断している。それどころか、ボスだと勘違いしているようだ。警察に情報が漏れた可能性を警戒している様子はない。

 ボスが誰だか知らずにここに集まったらしい。さらに誰かを待つという空気も感じられない。

 これで全員が揃ったのだろう。だとすれば、集まる予定は四人。そして金森はたぶん、このヤクザ風の男を追っていた。

 つまり、金森は今、近くにいる。私がここに連れ込まれたことも見ている。そして、対策を講じているはずだ。

 時間を稼がなければ――。

 そう考えた瞬間だった。建物の外でパンという破裂音がした。刑事の警戒心を一瞬でトップギアに叩き込む音――。

 銃声! 金森が行動を起こしたのか⁉

 ヤクザの表情が瞬時にこわばる。こいつも、銃声だと分かったようだ。私を睨みつける。

「お前、何か企んでるのか⁉」

 危険だ! 反射的な判断だった。

 サラリーマンを突き飛ばすと、倉庫へつながる窓へ走った。思い切りジャンプして、肩から窓ガラスへ体当たりする。窓枠ごとガラスが砕ける。倉庫の荷物へ激突する覚悟で、頭を腕で抱えて暗闇に飛び込む。

 コンクリートの床に落ちたショックがあった。荷物には衝突しない。倉庫は空らしい。砕けたガラスで傷を負った感覚もない。

 すぐに中腰になり、奥へ走ろうとした。が、力を込めた脚がいきなりスリップした。急激に倒れて、床に頬をぶつけた。一瞬、意識がかすむ。

 ピチャっと、頬に冷たい液体の感覚があった。床にこぼれていたオイルで滑ったようだ。起き上がれないまま、破れた窓ガラスの向こう側を見る。三人が慌ただしく動き回っている。こちら側には来ようとしていない。

 理由が分かった。サイレンが聞こえる。パトカーが来たのだ。

 男たちが事務所から逃げ出す気配があった。

 金森が応援を呼んだようだ。

 だが、さっきの銃声は? 何が起こった――?

 あたりを警戒しながら、ゆっくりと膝をついて立ち上がった。

 同時に、事務所で小さな爆発が起こった。ガラスが破れた窓から吹き込む爆風で軽く押され、また脚を滑らせた。一瞬、温風機の側面がひしゃげて、激しい炎を吹き出しているのが見えた。そこが爆発したらしい。だが、大きな爆発ではない。

 立ち上がって顔に付いたオイルを手のひらで拭う。炎の明かりで、手のひらを見る。

 真っ赤に染まっていた。

 血?

 倒れた時に、顔を切ったのか……? 痛みは感じないが……。

 その時、また異変が起こった。

 首の後ろを鉄パイプで殴られたようなショックがあった。視界が傾く。意識が遠のく……。

 なに⁉ 

 奴らの仲間がこっちにも隠れていたのか⁉ 

 倒れた拍子に背後が見えた。いや……後ろには誰もいない……

 それなら、なぜ……?

 なんだ、これは……何が起きた……?

 事務所の窓が回転する……まるで、泥酔して正体を失った時のような……いや、かつて娘と乗った遊園地のコーヒーカップの感覚だ……ふざけて回し過ぎて吐き気を催した、あの時の……目の前が、ぐるぐる回る……右目がぼやける……本当に吐き気が襲って来た……

 事務所から声が聞こえる……

『誰かいますか⁉ 警察です! 火が出てるぞ! 消防に通報!』

 交番の誰かだ……叫ぼうとした……

「わらひぇあらぁ」

 言葉にならない音が喉から漏れる……なんだ、これは……自分の声だとは思えない……呂律がまわっていない……だが、声ははっきり聞こえる……

『そっちですか⁉ うわぁ、血まみれじゃないですか⁉』

 気づかないうちに床に両手を突いていたようだ……視界の回転が速まる……手足が……全身が動かない……なのに、視界が回転する……天井を見上げているのか……また、倒れたのか……事務所の炎で赤く染まった天井が回る……警官が窓を越える音が聞こえる……

『佐伯さん……? 佐伯さんじゃないですか⁉ どうしました⁉ 大丈夫ですか⁉ 血だらけ……怪我はどこですか⁉』

 動かない……腕も、脚も、首も……何一つ動かない……それなのに、声は聞こえる……言葉は分かる……

 何なんだ、これは……何が起こった……?

 私はいったい、どうしたんだ……?

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