第65話 セオドアから見た二人

 共生の森で後ろからあの二人を見た時、思わず息を呑んだ。兄の横顔が見たこともないほど、幸せそうだったからだ。


 皆でいる時には隠していたのだなと知る。


 二人の時間を壊したくない。

 歩みを遅くした私に合わせて、隣にいるメルルも遅くしてくれた。


 テスト週間が始まる前日の、日の曜日のことだ。ヨハネスが私の部屋を訪れて、立ち会いを頼んできた。


「さっきジェラルドの部屋にも行って話をしたんだけどさ、セオドアとメルルがいてもいいからって言うんだ。テスト終了翌日の土の曜日の朝食後すぐから、悪いけど立ち会いを頼むよ。四人揃ったら、他の生徒が入れないようにはしておく。絶対にライラに手を出さないように、見張っておいてくれ」


 よくヨハネスが許したなと思ったが……きっと兄が、捨て身で何かをしたのだろう。

 複雑なあの男の気持ちが、少しだけ分かった気がした。


「兄上」


 声をかけたくない。

 そう思いながら、彼らの空気を壊した。


「ああ、セオドアとメルルちゃん。テスト週間が終わったばかりなのに付き合わせて悪いね」

「いいや。いいものが見られると楽しみにしていた」

「さすがにこの地面だし、期待しないでよ。靴は履き替えたけど」


 ライラは少しバツが悪そうだ。それはそうだろう。ヨハネスと恋人で、いつも仲睦まじくしている。

 それでも、兄のために付き合ってくれるんだな……。


 メルルは何も言えないようで、ずっと目に涙をためている。兄の熱い想いに気付いたようだ。


「どうする。私は歌った方がいいか」

「ああ。セオドアの声、好きなんだ。鼻歌でも歌おっかなーなんて思っていたけど、歌ってくれるのなら頼むよ」


 意外そうな様子でライラがこちらを向いた。メルルからは、期待のこもった視線を感じる。


 声楽は教養の一つとして幼い頃から家庭教師より習っていた。地声は低めだけれど、歌でなら高い声が出せる。

 才能もあったようだ。


 メルルには、その話をしたことがある。

 まさか目の前で歌うことになるとは思わなかったが……。

 

 人前で目立ちたくはない。表舞台で披露する気はなかったが、ここには人がいない。


「このエリアだけに聞こえるように、声は小さくする。こちらにも期待しないでくれ」

「ああ、分かったよ」

「ふふ、それでも期待しちゃうわね。楽しみよ」


 士気が上がるようなことを言う。

 こういった小さなやり取りで心を奪っていくのだろう。

 まさか、兄がこんなにも……。


「お手をどうぞ、お嬢様」


 憧れの人を見るような目をしながら兄が差し出した手に、慈愛に満ちた瞳でライラが手を重ねる。

 私がタイミングを計ってワルツの曲を歌い始めると、彼らも踊り出た。


 ヴォカリーズという、母音のみによって歌う歌唱法でメロディを刻む。


 誰もいない緑の芝生のステージで、観客はさわさわと音をたてる木々だけだ。

 陽光が二人を照らし、私たちは立会人として報われない恋を最後まで見届ける。


 ――なんて幸せそうな顔をするんだ、兄上……。


 頬は紅潮し、目の前の女性だけを愛しているのだと瞳が告げている。しなやかに踊る博愛の女神を、今だけはと包み込むようにリードする。


 ……メルルが彼女のことを女神のようだとよく言う。私も感化されたようだ。

 メルルの瞳から、大量の涙がこぼれていく。


 きっと兄は気付いていないだろう。私たちにどう見られるかなんて、微塵も気にしていない。


 ――兄はずっと、周囲の視線を人一倍気にしながら生きてきた。


 王子が二人いれば比べられる。

 どちらが優秀か、どちらが王の器か。どちらに才能があり、どちらが結果を出し、どちらが国を豊かにするか。


 次期国王は兄に決まっている。

 それなのに人々は比較する。

 弟の方がよかったんじゃないかと簡単に口にする。

 そんな者が多くなれば、兄を王太子から引きずり降ろす方法を具体的に考え始める者も現れるだろう。


 国の安寧のため、誰の前でも快活で明朗で才能豊かな完璧な王子であろうとしていた。


 本来の自分の姿を見せていたのは、私と数人の側近にだけだ。


 私に婚約者がつくのを止めたのも兄だ。

 国の行く末を左右する自分はともかく、弟には自由な恋愛をさせてあげてもいいじゃないかと訴えてくれた。


 私自身はどちらでもよかった。

 口下手で、誰かと恋仲になるなど考えもしなかった。


 自分の役割は兄のスペアだ。

 兄に何かあった時に代わりになる。それだけの存在だ。兄よりは少し劣っていなければならない。そうでなければ負担になる。

 むしろ兄の身が無事で世継ぎも確実に産まれるのならば、火種にもなり得る私はいない方がいい。


 自分の存在意義を感じられるようになったのは、つい最近だ。メルルとたくさんの話をして、自分の価値を信じられるようになってきた。


 彼女と心の距離が近づいているのを感じる。告白すれば……受けてもらえるような気もしている。

 しかし、まだ迷っている。彼女をこちらの世界に引き入れていいのかどうか。


 そんな贅沢な悩みを持てるのも、全て兄が私の婚約を止めたからだ。


 私よりもずっと――……、自由な恋愛に憧れていただろうに。


 この学園への入学を私に勧め周囲を説得したのも、また兄だ。

 私が兄より少し劣るように調整していることに気付いていたからだろう。


『誰とも比べられず自分を知らない人だらけのところでさ、のびのびしてきなよ』


 そう言ってくれた。

 自分も半年間の留学を決めたのは私が心配だからと言っていたけれど、自分を知らない人だらけの世界を誰より望んでいたのは、兄だったからだろう。

 この学園にいる兄は、本当に楽しそうだ。


 兄が勧めてくれたこの場所で、私は四年間過ごすことができる。自分らしく共に過ごせる女性にも出会った。


 兄は半年しかいられない。

 それも……もう終わる。

 好きになった女性はこの国の王太子の恋人で、自分には婚約者もいる。


 愛する人と話をする機会すら、もうなくなる。


 兄のことなのに……、胸が張り裂けそうだ。


 曲が終わり、手をつないだままこちらに優雅に礼をした。


「すごく素敵でした」


 メルルが涙を流したままの笑顔で、拍手をして二人を迎える。


「あれ。メルルちゃん、泣いてるの? そうだよね、僕のダンスを見たのは初めてだもんね。格好よすぎて泣くに決まっているよ」

「何言ってるのよ、ジェラルド。私の優美なダンスに感動して泣いているに決まっているじゃない、ねぇメルル」


 きっと二人とも分かっている。

 叶わない恋がそこにあると知って、メルルが泣いていることに。


 話しながらも手は離さない。

 ……兄が離してくれないのだろう。


「もう一曲、踊るか?」


 踊ってあげてほしい。

 そう思いながら、聞く。


「ライラちゃんが踊ってくれるのなら」

「いいわよ。テストも終わったもの。景気づけに、いくらでも踊ってあげるわ」

「そんなこと言って、自分で年寄りって言っていたじゃないか。体力続くの?」

「失礼ね。人に言われたくはないわよ」


 ポンポンと会話が弾んでいく。


 兄の婚約者は、楚々とした女性だ。

 一歩男性よりも常に引いていて、控えめだけれど聡明な女性。


 でも、兄が好む女性は……。


「それではもう一曲、踊っていただけますか? 今だけは、僕のお姫様になってよ」

「仕方ないわね」


 微笑み合う彼らは、恋人同士のようだ。


 ――今、この一瞬だけでも、幸せな時間を――……。

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