高価なカーペットほど汚れやすい

 こうして僕は、慌ただしく引き継ぎを済ませ、新しい職場へと移った。研究開発部は、東京本社から五十キロメートル離れた相模原市の研究センターにある。白を基調とした建物には、清潔感が漂っていた。

 フロントに置いてあったインターホンで、今日から異動してきた旨を伝える。程なく、白衣を着た四十代前半くらいの男性が現れた。

「沢木雄也君だね?」

 男は、背丈こそさほど高くなかったが、体つきはがっしりしていて、顔や手の甲が少し日に焼けていた。

「今日から君の上司になる大久保幸司だ。よろしくな。肩書は上席研究員だけど、呼び方はさん付けで良いよ」

「はい。お世話になります」

 大久保さんは僕を会議室まで案内すると、これまでの職歴を雑談程度に尋ねた後、本題に入った。

「早速だが、沢木君の仕事について話そう。君は、マーフィーの法則を知っているか」

「いえ、初めて聞きました」

「落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、敷いてあるカーペットの値段に比例する。これが、マーフィーの法則だ」

「それは、カーペットが高価なほど、バターが付いて汚れてしまう可能性が高くなる、ということですか。つまり、起きてほしくないことほどよく起こる、と?」

「ご名答。理解が早くて助かるよ」

 褒められたのは、入社して初めてのことだった。僕は少し調子づき、ふと浮かんだ疑問を口にした。

「ただ、今の話にあったトーストとカーペットの関係が成立するとしたら、それはあくまでカーペットの持ち主が、高価な品ほど汚したくないと切に願っている場合に限るのではありませんか」

 極論だが、仮に僕が大金持ちでカーペットの値段など気にもかけず、トーストどころか何がこぼれ落ちようとも平気だと心から思っていたならば、トーストがカーペットに落ちるという現象自体が起こらないだろう。

「本質を突いているね。その通り。だから私は、マーフィーの法則を定義し直した。起こってほしいと期待するほど、その事象は起こらず、起こってほしくないと念ずるほど、その出来事は起こってしまう、というようにね。君にも、思い当たる節があるんじゃないか」

「言われてみれば、たくさん思い付きますね。急がなければならないときほど電車が遅れていたり、営業しているか確かめずに訪れた日に限って、行きつけの店が臨時休業だったり……。退社後に予定を入れていた日、終業間際に緊急の仕事が降ってきて、計画がご破算になった経験は数知れません」

 僕が矢継ぎ早に実例を挙げたので、大久保さんは笑った。

「君も運には恵まれてこなかったようだね。まさに、それらは全て、マーフィーの仕業さ」

「なるほど。でも、それと私の仕事に関係があるのでしょうか」

「大ありだよ。君には、このマーフィーの法則を科学的に証明する手助けをしてほしいんだ」

 こんな非科学的な法則を、科学的に証明? 何かの冗談かと思ったが、この人は本気らしい。

「え? それに意味はあるんですか」

「この法則が証明されたら、面白そうだと感じないか?」

「興味深いとは思いますが、このように収益と関わりのない研究を行うことが、うちの会社で許されるんですか」

 これを聞いた大久保さんは、途端に険しい顔になり、語気を強めた。

「それ、儲かるの? これは、私がこの世で一番嫌いなセリフだ。今後一切、収益だとか効率だとか、そういう言葉は使わないでほしい」

「申し訳ありません。前の部署では収益性、生産性が最も重視されていたので、落差に驚いてしまって……」

 僕が弁解すると、大久保さんも我に返ったように柔和な表情を取り戻した。

「いや、こちらもついムキになった。営業部にいたのだから、今のような反応になるのも仕方ない。もちろん、企業の一部門である以上、収益性は大切な要素だ」

 ここで一呼吸を置くと、大久保さんは熱を込めて続けた。

「しかし根源的には、金になるか否かは、研究を志す者にとって二の次なんだ。どうしようもなく面白くて、ワクワクしてくる。だから、やるんだ。金がないのなら、霞でも食っていれば良い。それくらいの気概がなければ、研究など続けてはいられない」

 確かに、以前は誰もが見向きもしなかったような研究が、数十年後に一躍脚光を浴びたという話はよく聞く。

「うちはこうした研究にも資金を注ぐことで、言わば、未来に投資しているわけですね」

 僕は、自分の会社を改めて見直した。

「そうさ。むしろ、うちの会社の研究内容を踏まえれば、マーフィーの証明への道は既に描かれているようなものだ」

「はあ」

 僕が気の抜けた返事をすると、大久保さんは説明を補足した。

「ドーパミンは、分かるよな?」

「はい、概要くらいは」

 文系の僕とて、この企業に丸四年も勤めていれば、さすがに分かる。ドーパミンは脳内で情報を運搬する神経伝達物質の一つだ。これが多くなると幸福感を得られるほか、集中力が高まり、ポジティブに物事を捉えやすくなる。ただし、分泌され過ぎると、酒やタバコ、ギャンブルなどにのめり込みがちになるという弊害もある。

「それなら話は早い。わが社は、人のドーパミンの分泌量を常時計測できる極小のナノマシンを開発した。これにより、患者のドーパミン分泌量の異常を早期に検知し、迅速に対処できるわけだ」

 僕も営業職として、ナノマシンを各医療機関に売り込んでいた。マシンはウイルスよりも小さい三十ナノメートル。静脈に注射すると、血流に乗って脳内に至り、ドーパミンの量を計測する。これまでに数万人への投与実績があり、健康に害が出たという報告は上がっていない。

 僕が頷くと、大久保さんは話を続けた。

「このナノマシンを使えば、マーフィーの証明に近づける。何らかの期待を抱くほど、その出来事は起こらないというのがマーフィーの法則だ。そして、人の期待の大きさに比例して多く分泌されるのがドーパミン。ここまで言えば、もう分かっただろう」

「被験者のドーパミンが普段よりも大量に分泌されているとき、その人の期待した出来事が起こる確率が低いことを証明できれば良いわけですね」

「そういうこと。君とは、良いパートナーになれそうだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る