リコとモルボーア

第5話 大丈夫、異世界でも普通に通じますよ。

「う~ん、気持ちいい」


 雲一つない蒼穹の下、俺は思いっきり伸びをして肺一杯に新鮮な空気を取り込む。


 俺の顔には、ここ一年以上出かける時の必需品であったマスクはない。


 このまま電車に乗ったり、商業施設に入ったりしようものなら、中にいる人たちから白い目で見られそうなものだが、今はもうその必要はない。


 何故ならここにはもう、世間を脅かしているあのウイルスは存在しないのだから。



 目の前に広がるは、何処までも広がる緑の絨毯に、一本だけは土を踏み固めただけの道が走っている。


 道の先に何やら思わず歌いたくなるような巨木が見えるが、あの下には何があり、どんな人が住んでいるのか。そして、どんな食べ物があるのかを想像するだけで、テンションが上がって来る。


 それに何より、空を見上げれば昼間でもハッキリと見える大きな月のような星が見えることから、ここが地球ではない何処か別の世界だと認識させてくれた。



「気分はどうじゃ」


 久しぶりの外の空気を、濃厚な草木の香りを心から堪能していると、背後からエレナが呆れたように笑いながら話しかけてくる。


「異世界に来たことによる体調の変化の有無を聞きたかったのじゃが……どうやら聞くまでもないようじゃの」

「うん、何も問題ないよ」


 異世界への転移と言うから、てっきり世界がぐにゃぐにゃに歪んだり、体が分子レベルにまで解体されたりするのかと思われたが、エレナが不思議な印を結び、空中に円を描いた先は、もうこの場所だった。


 まるで、ど〇でもドアを抜けたかのような気軽さでこの場所にやって来たので、ここが本当に異世界かどうかも定かではないので、とりあえずエレナに質問してみる。


「それでエレナ、ここは一体何処なの?」

「ここはガレリア大陸の北東部に位置するヤーデ地方じゃよ。あそこに大きな見える木に向かって歩くと、トレという村があるからそこを目指そうぞ」

「わかった」


 とりあえず頷いてみたが、やはり何一つとして聞いたことがある地名がない。


 まだここが異世界であるという実感は薄いが、それより大事なことはここにはあの憎いウイルスの存在がおらず、行動に何も制限がないということだ。


 といっても、この世界にウイルスを持ち込むわけにはいかないので、この世界に来る前に自腹で検査をして、ウイルスに罹患していないことは確認済みだ。



 さて、ここからは徒歩での移動かな? なんて思っていると、


「のう、ハルトよ」


 暑いのかローブの前を開き、大人の姿だと色んな所がギリギリとなっている白いワンピースを晒しているエレナが、俺の背中を呆れたように指差しながら話しかけてくる。


「お主……本気でそれだけの荷物を持っていくのか?」

「モチロンだよ。これがないと俺の旅は始まらないからね」


 零れ落ちそうな胸の谷間が見え、思わず赤面しながら目を逸らした俺は、照れを隠すようにパンパンに膨れ上がった年季の入ったバックパックを彼女に見せる。



 この中には料理人の魂ともいえる包丁やまな板、各種鍋や調味料、そしてキャンプをするために必要な様々な道具が入っており、前に世界中を旅した時もこれを背負って旅したものだった。


 手ぶらでも構わないとエレナに言われたのだが、それでも俺がこれだけの荷物を持って来たのにはある理由があった。


 それは、俺とエレナの間で交わされた契約だ。


 この世界における旅路の安全を保障してくれる代わりに、俺は訪れた地にある食材を使ってエレナが満足するような料理を振る舞う。

 その約束を果たすには、やはり使い慣れた道具でなければ話にならない。



 俺はバックパックの脇に吊るした小型のフライパンをコンコンと叩きながら、エレナに向かって笑いかける。


「まあ、見ててよ。約束通り、エレナに最高の料理を振る舞ってみせるからさ」

「フッ、そうだったな。期待しておるぞ」

「任されました」


 エレナにポン、と肩を叩かれた俺は彼女に笑顔で頷き返すと、二人で肩を並べて異世界での第一歩を踏み出した。




 それから俺とエレナは、それぞれ人生で美味しかった食べ物について大いに語りながら歩き、目的地であるトレという村の近くまでやって来た。


 彼方から見えた巨大な木は、近くまで来ると呆れるほど大きく、全長は優に数百メートル以上はあると思われ、上の方はここからでは霞んで見えなかった。


「デカいじゃろ?」


 首が痛くなるほど上を見上げる俺に、何故か子供の姿に戻ったエレナが話しかけてくる。


「あの木はこの世界を創った女神リブラにあやかって、リブラの木と呼ばれるこの世界で最大の木じゃ」

「確かにあんなデカい木、地球のどこにも存在しないかも……」


 あれだけ大きな木があるにも拘らず周囲には緑が溢れ、流れる風は心地良く、ジメジメとした湿気は殆ど感じない。


 さらに、どういう理屈かわからないが、上空が完全にリブラの木の枝で覆われているのに、木々の隙間を塗って陽光が豊富に降り注ぎ、これまで歩いてきた道と遜色ない明るさが保たれていた。



 思わず口を開けて呆けてしまうほどの幻想的な光景に「正にファンタジーだな」なんて考えていると、エレナがクイクイ、と俺の服の袖を引っ張りながら先を促してくる。


「ほれ、いつまでも木ばっか見てないでとっとと行くぞ。あの村はリコという果物と、モルボーアという動物の肉が有名なのじゃ」

「へぇ、美味しいの?」

「どうじゃったかの? 前に訪れたのが随分と前じゃから、忘れてしまったわい」

「えぇ、もしかしてエレナって……」

「なんじゃ?」

「な、何でもないです」


 エレナの年齢を何となく聞いてみようと思ったが、幼女とは思えない切れ味鋭い視線で射竦められ、俺は慌てて視線を逸らす。


 大人の姿が実年齢かと思ったけど……実はもっとずっと年上だったりするのだろうか?


 真実はエレナのみ知るだが、考えてみれば女性の年齢を尋ねるのは普通に失礼なので、この疑問は永遠に闇に葬った方がいいだろう。

 それに、例えエレナが何百年と生きている人であろうとも、俺に美味しい食べ物を紹介してくれることには変わりはない。


 そのことの恩義に比べれば、彼女の年齢など些末なことだった。



「……そういえば、村に入る前に一つ言っておくことがある」


 俺が一人でエレナの年齢について納得していると、彼女から注意事項を伝えられる。


「ここから先、ワシは十歳前後の無垢な子供として振る舞うから、ハルトはワシの保護者ということで頼むぞ」

「えっ? で、でも……」


 いきなりそんなこと言われても、エレナの保護者面する以前に困ったことがある。


「俺……この世界での言葉を知らないんだけど。村の人たちって何語で話しているの?」

「それについては問題ない」


 俺の疑問に、エレナは自分の額を人差し指で指しながら得意気に話す。


「心配しなくてもハルト、既にお主は、この世界の誰とでも問題なく意思疎通が取れるぞ」

「えっ、そうなの?」

「そうじゃ。ほれ、前にワシとこう、頭をゴツンとぶつけたじゃろ」

「ああ、あったね」


 そう言われて、俺は何となく額に手を当てて擦る。

 俺と同じように額を擦っていたエレナは、あの時の行動の意味について話す。


「あの時に自動翻訳の魔法をかけた。じゃからこの世界の言葉は、お主の脳内で勝手に知っている言葉に変換されているはずじゃ」

「そうなの!? あ、あの頭突きには、そういった意味があったんだ」


 あの一瞬でそんなやり取りがあったとは驚きだったが、たった一度相手と頭をぶつけただけで、遠い異世界の人間と意思疎通が取れるようになるなんて……魔法便利過ぎるだろう。


「ほれ、何をボサッとしておる。街の中に行くぞ」


 別に痛くもない額を何となく撫で続ける俺に、エレナが背中をバシバシ叩き、手を引きながら先を促してくる。


「ワシはもうお腹ペコペコじゃ。早く村に行って名物を一緒に食べようぞ」

「はいはい」


 そこで一人で先に行くなんて真似はせず、俺と一緒に行くと言ってくれるあたり、エレナは本当にいい人だと思った。



 そんな気持ちが顔に出ていたのか、俺の手を引くエレナは怪訝そうな顔をして見上げてくる。


「なんじゃ、急にニヤニヤしおって……何かいいことでもあったのか?」

「ん? いやいや、何でもないよ」


 俺はなるべく平静を装ってゆっくりとかぶりを振ると、エレナに手を引かれるまま異世界に来て最初の村、トレへと向かった。

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