②
真理子の準備が整い、ベッド横のサイドテーブルには必要なものがすべて揃えられた。
彼は目で合図する。その意図をくみ取った真理子は、採血に必要な器具を彼に手渡した。
それを受け取った西条は女性の腕をとり、肘枕の上にそっと置く。きちんと食事が摂れていないのか、腕はかなり細かった。
手袋をはめ、女性の腕を駆血帯で縛る。アルコール綿で丁寧に消毒し、血管を浮き出させる。右手に翼状針を付けたシリンジを持ち、角度を確認しながら針を刺していく。チューブの中を流れるように、赤い血液が引かれた。西条は細心の注意を払いながら、抜いた血液を真空採血管の中に移す。その様子、時間を真理子がすべて詳細に記録していく。
採血を終えた後は、二〇〇mlの血液を血液バックに落としていった。その間、二人は女性からここに収容されるまでの詳細を聞いていた。
「よくあの中を生き延びましたね……」
「……昔から逃げ足だけは速かったの。まあ、奴らに追いかけられて何回も転んだけどね……」
「それでもよく……。そういえば、逃げているときは一人だったんですか?」
「初めはね……一人だった。でも途中で男性二人が私を見つけてくれて……一緒にいてくれたのよ」
「そうでしたか……」
逃げている最中のこと、怪我を負った時の状況、小さい頃に病気になったことがあるか、海外旅行歴はあるか、輸血はあるか、手術歴はあるか。西条は会話の中から、なぜラルドに対する耐性があるのかを探っていた。そして時間をかけて作った治療薬を女性に投与する。黄色い液体がチューブを通り、血管の中へと入っていく。
「気分は悪くないですか……?」
「大丈夫です……」
二人は女性の状態に気を配る。血圧や脈拍を測り、体温も確認する。今のところ異常はない。女性は「これで治りますか?」と尋ねた。
「絶対に治るとは言い切れません。ですが、効果はあると思います」
「そうですか……。なら良かった」
西条の言葉に安心したのか、女性は眠った。それを確認し、二人は部屋から出た。
「薬の効果が現れ始めるのは、最低でも一二時間後です。なので、明日にもう一度、採血をしますから」
「それで、その後は?」
「採血をして、ウイルスが減少または死滅していたら薬は成功です。治療薬として使えます」
「そうか、分かった。君たちも一度自室に戻りなさい。食事は届けさせよう」
西条は「どうも」と頷き、真理子を連れて“ラボ”から出ていった。部屋から出る寸前、真理子は“ラボ”の中にいる男性に気が付いた。彼もまたベクターだった。この顔どこかで……。
「マリちゃん、戻ろうか」
「あ、班室に戻る前にお手洗いに……実はずっと我慢していて……」
真理子はそう言って西条と別れた。
「えーっと……この階にトイレは……あ、あったあった……」
真理子がトイレから出てきてすぐ、エレベーターの扉が開いた。真理子は思わず隠れてしまう。中から出てきたのは佳奈だった。声を掛けようと一歩前に出るが、辺りを見回している佳奈の様子がおかしいことに気づき、真理子はトイレの中へ戻った。
少し隙間を開け外の様子を伺うと、佳奈はまっすぐ真理子が入ったトイレに向かってきていた。
トイレに入るのかと思いきや、それを通り越し突き当りの壁を曲がっていく。真理子は佳奈の後をつけた。
「……ここって……保管庫……?関係者以外立ち入り禁止って書いてるのに……」
真理子は扉に書かれている文字を口に出した。よくみると扉は完全には閉まっていない。ここで真理子の悪い癖、好奇心が勝った。隙間に指を差し込み、指でそっと扉を引っ張る。音が鳴らないように慎重に……。他は自動扉なのに、ここだけ普通の扉なんて何かおかしい。
真理子は自分が入ることのできる隙間を作ると、蛇のように体をくねらせ、部屋の中に滑り入った。なんていうか……このスリルがちょっと好きであったりする。足元に気を付け、置かれているものに当たらないように細心の注意を払う。
「あ……」
思わず声が出そうになり、慌てて自分の口を塞ぐ。
目の前にあるのはタブレットを手に、誰かと会話をしている佳奈の姿だった。
そしてポケットから僅かに見えるのは幹部しか持てないはずのオレンジのバンド。
どうしてここに……?あのバンドは一体……?
「まさかあなたがここに来るとは思ってなかった……」
突然、佳奈がそう言った。バレた……と思ったが、佳奈はタブレットに向かって何か言っている。自分にじゃないのか……?
「あなたと同じところに配属されるとは思ってもなかった。私自身、生物工学なんて経験も知識もないし、技術だってない。これはあなたの専門だもん。それにあなただってこんなところで、こんな仕事をするだなんて思ってもなかったでしょう?」
『……確かに。ここでも前と同じ仕事をするとは思ってなかったよ……』
タブレットから聞こえてきたのは男性の声だった。声だけじゃ相手が誰だか判別できない……。けれど、聞いたことのある声だ……真理子は少し近づいた。
「それで……進捗状況は……?」
『薬は出来たかもしれない、でも今は治験の段階だ。治るかは分からない……あの人を治せるか……』
「そう……でも別に治らなくても良いわ。だってあの人はお兄ちゃんを……」
『佳奈、そのことはもういいんだ。俺も忘れたよ、昔のことなんか……』
「お兄ちゃん!忘れちゃだめよ!あの人がしたこと、ずっと覚えてなきゃ!あの人がお兄ちゃんに何をしたのか忘れちゃだめ……」
佳奈は叫んだ。
『いいんだ。俺はあの人が治ればそれでいい。そう言えば佳奈の方は?』
「私は相変わらずよ。新たな配属先でもうまくやってるわ。お兄ちゃんがくれたバンドも役に立ってる。でも、よくこれが手に入ったわよね……」
『まあね。ちょっと危なかったけど』
「お兄ちゃん、そう言えば安藤さん……安藤真理子は?」
『彼女は上手くやってるさ。薬も作れたし、やっぱり彼女はすごい人材だよ。新世界に選ばれるくらいの……』
画面越しの相手と佳奈は親し気に話していた。真理子は画面に映る相手の顔を見ようとさらに近づいた。
「彼女、中原雅子と仲が良いわ。知ってるでしょう?」
『ああ。良く知ってるさ……』
「気を付けてよね、私たちの関係がバレないように……あ、待って!誰かいるかもしれない……」
佳奈はそう言ってタブレットを閉じた。
真理子はとっさにロッカーの後ろに隠れた。佳奈は辺りを見回し、誰かいないか探し始める。お願い、見つけないで……見つからないで……。
「気のせいか……ここへ来てから、やけに周りが気になるのよね。きっとバレないように神経を巡らせているからだわ……それにしても、お兄ちゃんは甘いわ……あの人がしたことを忘れるだなんて……私はあの人を許さないからね……」
佳奈がその場から去ったのを確認し、真理子は班室へと戻った。西条は扉の電子ロックの解除音が聞こえるなり、慌てて片付け始めたように見える。顔が焦っている……。手元にはタブレットが。真理子は不思議に思った。
「あ、マリちゃん、おかえり。大丈夫?」
「大丈夫です……ちょっとお腹が……」
真理子はとっさに嘘を吐いた。そして器具を片付け、綺麗に消毒をする。やっと一息ついた。防護ガウンを脱ぎ捨て、廃棄処理ボックスへと捨てる。体が解放された気分になった。
「西条さん、お疲れ様でした」
「いや、マリちゃんもお疲れ」
二人はお互いの疲れ切った顔を見て、思わず笑いが込み上げてきた。西条が何かを思い出したかのように真理子を見る。どうしたのか尋ねると、西条は質問してきた。
「薬が出来たのは、マリちゃんのおかげだ」
「そんなことないです……。私はただ……」
「ただ、分子標的薬を作ればと提案した。どうしてだ?」
「ど、どうしてって……もしかしたら、分子標的薬ならウイルスに効くんじゃないかと思ったからです」
「タンパク質から分子標的薬を作ろうと、君は言った。けど、君が“タンパク質”と言った時にはまだ、あの粒状の細胞がタンパク質だとは分からなかった。それなのにどうして、タンパク質だと分かった?あの時、中原さんと何を話したんだ?」
いつもとは違う、西条の怖い顔。真理子は少し怯えていた。
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