鈴の音

秋水

1

新たな年が始まる。

僕は鈴の音がするのをずっと待っていたはずだった。


 初雪が舞う12月のことだった。僕は付き合っていた彼女に急に振られた。あまりにも唐突なことで、自分が何を言って、彼女がどんな顔で伝えてきたのかも覚えていない。

「別れよっか」

と軽い口調で言われた。彼女はいつものように柔らかく微笑んだあと、僕の元を離れた。僕は頭が真っ白になり、涙が頬を伝った。

そのときに引き止めることも、結婚を考えていたほど真剣に交際していたこと、何より彼女を今も尚愛していることを伝えることすらできなかった。

彼女に一方的に別れを告げられてから、一日の大半を自分の至らなさを考えることに使っていた。


 彼女と出会ったのは2年前の新緑が美しい春だった。当時、理学部を卒業して高校の物理の教師を始めた頃だった。やっと手にした初任給で父への贈り物を買おうと思い、近所にある老舗の和菓子屋に行った。


 和菓子屋ののれんをふわりとくぐると、小豆色の着物を来た小柄な女性が店に立っていた。その女性は華奢で動くたびに裾から白く陶器のような細い腕をちらつかせていた。腰に鈴をつけているのか、彼女が歩くとリンリンと鈴の音が店に響いた。

僕はそんな鈴の音がする女性を目で追っていると、にこりと微笑み返された。それが彼女との出会いであり、恋に落ちた瞬間だった。


 その日、僕は父の好物の羊羹を買い、それからことあるごとに和菓子屋に通うようになった。初めはおすすめの和菓子を聞いたり、他愛のない話を少しするだけだったが、向日葵の花が咲く頃にはお互いのことについても話すほどの中になっていた。

彼女は控えめで、自分のことをすすんで喋ることはしなかったが、僕が質問をすると柔らかな口調で嬉しそうに小さな声で話した。

冬になる頃には店の外で会うようになり、僕と彼女は交際を始めた。彼女はいつも鍵に鈴をつけていて、彼女が動くたびにその可愛らしい音を響かせていた。その音色と柔らかく笑う彼女にどこまでも魅了された。


 新米教師として慌ただしい日々を過ごす僕にとって彼女との時間は心休まる時間だった。彼女と交際して季節が一周する頃には、僕は彼女との結婚も考えるほど、彼女のことを愛していたのだった。別れてからも、もしかしたら彼女が会いにくるかもしれないと思い、毎晩彼女の鈴の音を期待し、耳を澄ませながら眠りにつく日々を過ごした。


 彼女との淡い過去を回想している内に年末が迫っていた。一人で過ごすのも寂しく、実家に帰ることにした。と言っても僕の実家には父しかいない。僕の実家は父子家庭だった。裕福ではなかったが、経済的に引け目を感じることはなく、母親のいない寂しさを感じることはあまりなかった。男手一つで大学まで出してくれた父は穏やかで凪のような静けさを持つ人だった。滅多に怒ることもなく、小学生の頃父が大事にしていた写真集にお茶を溢したときも全く怒らなかった。


 父に何度も、僕が物心付く前に別れたという母親のことが気になり尋ねてみたが、

「素敵な人だった。」

と言うばかりでそれ以上は何も教えて貰えなかった。僕は父のことが大好きで困らせてはいけないと思い、それ以上は何も聞けなかったことを覚えている。

 彼女と別れたことでこんなにも傷心してしまう自分が情けなかった。彼女は母親のいない僕にとって全てだった。いつも優しく癒やしてくれる彼女がもういないと思うと、虚ろな気分になった。

父親も母親と別れてからこんな苦しい思いをしたのかと思うと余計に辛くなった。


 大晦日の日、夕方まで仕事をし、父親の待つ実家に帰った。年越し蕎麦を作る気力もなく、近くのスーパーで特売だった緑のたぬきを買って帰った。

久しぶりの再会に話が弾み、酒がすすんだ。年を越す直前に蕎麦を食べてないことに気づき、二人でお湯を注いだ。ふわりとカツオのダシが香った。



 食べ終わってから暫くして、テレビから除夜の鐘が鳴った。何度も何度も鳴る除夜の鐘が頭に響いた。彼女の鈴の音を思い出した。父親の前だが涙をこらえきれなかった。

父親は急に泣き出す僕を見て、何があったのか尋ねた。

僕はただ

「素敵な人だった。けどダメだった。」

と言った。父親は何も言わなかったが、大きな手で僕の頭を撫でてくれた。優しく撫でてくれた。父はそれ以上僕に何も聞かなかった。僕は父の温かい手と温かい食事で安心してしまったのか、涙が溢れ出るばかりだった。


 数時間後、父親が一緒に外に出ようと言ってきた。僕は、泣いて腫れてしまった目を擦りながら父の後を歩いた。冬の冷たい空気が頬を刺す。しばらく経つと砂浜についた。暗い水平線から光がのぼっていた。

 僕は日の出に照らされる海と波の音に夢中になった。




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鈴の音 秋水 @kakuyoshio77

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