チェック

 真夜の頬と肩はほんのり薔薇色に色づいていて、いつもより少しまぶたが重そうな瞳は、得意げな弧を描いている。

「なんでもって言っても、もちろん、やらしーのは無しよ。」

「あたり前じゃないですか」

 これは分かってて揶揄われている、とコハクは少しムッとして返した。


「でも、それ以外は、聞いた後にやっぱりなしっていうのは無しね!」

「……新しい薬の実験台とかですか?」

 軽口を返しながら、コハクは気づかれないように息を深く吐いた。

「あら、それもいいわね!今考えてる二日酔いの薬で、味はアレだけど成分的には効きそうな組み合わせがあってね…」 

「絶対に負けません。」


 もちろん実験台は絶対にやりたくないけど、『やっぱりなしが無し』か…


 都合の良い部分だけ切り取ってしまう自分と、無防備に思春期の男を煽る真夜、その両方にむけて、コハクは小さなため息をついた。


 しかも、この人は何も考えずにコハクを惑わす癖に、ふと気づいた時によく分からない防御線を張ろうとする。

 どうせなら、もっとずっと手前で、強く張って欲しかった。


 そうすれば、目の前の艶々とした唇や、柔らかそうな肌、ワインで少し色づいた頬、彼女を構成している何もかもに誘惑されることも、無かったかもしれないのに。


「コハクは決めた?」

「あ、えぇっと…」


 その言葉にコハクは顎を手に当てた。頭の中の邪念を追い払うと、ふと懐かしい会話を思い出した。

 

「いや、だめだろうな。」

「どうしたの?はじめて良い?」

「ただの独り言です。大丈夫です、始めましょう。」


 フルフルと切り替えるように頭を振り、コハクはチェス盤に向き直った。

 聞いてもらえそうな案が出なかったので、自分が勝ったら、こういう条件の賭けはしないように言おうと決めながら。


 こつこつと駒を進める音が響く。


 ズルはなしと決めたからか、彼女も先程以上に真剣な顔で盤を見つめている。


「あと少しで詰めそうなのに…」真夜が口を尖らせながら次の駒を持ち上げる。

「僕の陣地、凄い勢いで攻め込まれてますね。」

 流石に飲みすぎたのか、真剣な顔つきは変わらないものの、前半のトリッキーな攻め方から、後半になるにつれて読みやすい攻め方が増えてきた。


 コハクの動きに呼応するように、真夜は反射的にもっとも順当で積極的な位置に駒を動かす。

 これなら、もしかすると…と思い、コハクはわざと自陣の守りに穴を開けた。



「何この…誘導?」

 すると、何度目かのやり取りの後、酔っててもめざとく気づいた真夜は目をパチクリと瞬かせた。

 コハクはやっぱりバレたか…と、真夜の洞察力に内心舌を巻いた。

「ダニーさんに教わったんです」

「そう、ダニーさんにしては意外ね。なんだかシャルムみたいな攻め方でびっくりしたわ」


 急に出てきた嫌いな男の名前に、コハクは一瞬声が詰まった。

「へー…シャルムさんともチェスした事あるんですか?」

「ええ、あいつったら、普段手抜きのくせに、何かかけた途端本気出してくるのよ」


 ちょっと、面白くないな。

 コハクは何気ない風に装ったまま、会話を続けた。


「何をかけたんですか?」

「…なんでもいいじゃない」

 むうと唇を突き出す彼女の顰めっ面に、もやもやとしたものが腹の底をなぞるのを感じたコハクは、真夜が駒を動かすタイミングで質問を投げかける。


「はい、また師匠の番。で、何をかけたんですか?」

「しつこい…ていうか、置くの早くない?」

「師匠が駒を置くまで暇なんですけど、教えてくださいよ」 

 空になった二つのワイングラスにおかわりを注いだ後、コハクは右手の人差し指で、ワイングラスの足の方をトントンしながら暗に急かす。


「えぇ…いや…じゃあ、もうここで良いわ。」

 すると、彼女はよほど答えたくないのか、半ば投げやりに駒をおいた。

 そしてコハクは、またしても迷いなく駒を置いて、真夜を伺い見る。


「はいどうぞ。そんなに教えたくないほどやましいことですか?」

 あきからに困ったという顔の真夜の様子に、コハクの腹の底のざわざわがいっそう強くなる。


 真夜の頬は、先ほどより赤みが濃くなっていて、コハクが真夜に揶揄われていた時と同じ色をしていた。

 それがワインのせいなのか、コハクは気になった。


「あっ…、待ってコハク今のなし!」


 今の駒運びミスだって、僕の戦略せいか、奴の思い出せいか。


 咄嗟に駒を戻そうとする真夜の右手を、コハクの左手が包んでそっと止める。

「待ったは無しです。」

 指を絡めると、動きが止まったので、そのままコハクは左手で駒を取り、目的の位置に狙いを定めた。


 長生きな真夜には、コハクには言えない思い出があることくらい、分かってるけど……やっぱり嫌だ。

 コハクは酔いに任せて昏い気持ちがあふれて出てしまわないように、笑顔で蓋をして、目的の場所へ駒を進めた。

「師匠、チェックメイト」

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