魅惑的なイカサマ
「ダニーさん、本以外興味ないって感じなのに、案外いい趣味してるのねぇ」
夕食の後、コハクが食器洗いをしている後ろで、ワインが2本目に突入した真夜は、ルークをつまんで、しげしげと眺めていた。
「昔に奥さんと旅先で買ったものらしいです」
コハクは答えながらチラリと手元を再度見た。
コハク用に分けられた「試作品」をつけて、食器洗いをしたら、なぜか、いつもの水の冷たさが一切感じられない。
真夜がチラチラ見てくるということは、きっと少しだけ特別仕様にしてくれたのだろう。
思いやりとコハクだけの特別仕様に、顔がにやけてしまうのを抑えながら、いつもより丁寧に皿たちを洗っていた。
快適そうに洗うコハクを見て、満足した様子の真夜は、再びチェス盤に向かい、一人二役で勝負を始めた。
途中、チラリと振り返って戦局を見ると、一進一退の攻防で、どっちの陣の駒がとられても悔しそうだ。駒をとった方の気持ちになればいいのに。
「食器洗い終わったの?勝負しましょう」
しばらくして、布巾を流しにかけて、手を拭いていたコハクに真夜は提案した。家事が終わればいつも通り薬の勉強をするつもりだったコハクはどうしようかと少し考える。
そんな様子のコハクに、真夜は「せっかくもらったんだから、今日くらいは遊んでもいいじゃない。」とだめ押しをした後に、少しニヤリとした。
「まあでも、私の相手になるかしらねぇ」
御伽噺の悪役ような不敵な笑みを浮かべる真夜に、コハクも微笑み返す。
「ダニーさんは、いい勝負になりそうって言ってましたよ。油断しないでくださいね。」
「あら、気を付けないと…」
そう答える彼女の目には、チリっと、闘争心が宿った気がした。
ちなみに、真夜は普段からよく潰れるが別にお酒に弱いわけじゃない。
事実、集中した彼女は、2本目だというのに、駒を進める手に迷いはない。
だからいつも、コハクの勉強をワイン片手に見ながら、余裕だと思っているうちに、つい深酒をしてつぶれてしまう。
今日もどこかのタイミングで止めた方が良いかなぁ、と一応思いながら駒を進める。
「むう、なかなかいい勝負ね」
「僕も成長してますから」
盤上では、一進一退の攻防が繰り広げられる。
ダニーのいう通り、読みにくい真夜の攻め方はなかなか苦戦したが、なんとか食いついて応戦する。
いつもは、授業として師匠と弟子の時間だが、こうやって対戦していると、いつもより少し距離が近くなった感じが新鮮だった。
気分が良くなったコハクはグラスを取り出し、ワインのボトルに手を伸ばそうとした。
「あら、今日は飲むのね」真夜は盤から目をはなさずにルークでグラスを小突き、私のも入れろと主張した。
「僕だけシラフだとフェアじゃないでしょ?」
注ぎながら挑発するように言うと、真夜はおかしそうに笑った。
「生意気ね、じゃあ賭けようか」
「何をかけますか?」
コハクの問いに、真夜はそうねぇと悩みながら、「とりあえず、賭けるならコハクだけ酔ってないのはずるい」という暴論でボトルを奪い、コハクのグラスになみなみとワインを注ぎ直した。
コハクがどうやって飲もうかと考えながら、そっと置いたままのグラスの縁に口を寄せていると、真夜が思い付いた!と言い出した。
「明日の開店閉店準備!」
「あれ一人でやるんですか…?」
二人で分担しても細々とやることの多い作業に、コハクは辟易とした顔をした。
「うふふ、だから罰ゲームにぴったりでしょう。あ、新しいワインを取って頂戴」
そんなやりとりをしながら、真夜はワインを二本をほとんど一人で飲んだとは思えない、相変わらず迷いのない手つきで駒を進め、コハクも相手の状況を把握しながら自陣を整えようと集中する。
コハクが固い守りの陣で、攻めを仕掛けていた時、ふと、真夜のターンでポロンと倒されたナイトに目を落とすと、裏に黒い模様があった。
魚とも違う、少し丸みを帯びたこれはなんだろう。
「裏の模様、駒によって違うんですね。ナイトのはなんだろう。」
「うん?ああ、ホエールね。とっても大きな海の生き物よ」
「へえ、絵本でも見たことないやつだ。」
「海街っても、あそこの浅瀬にはなかなか来ないわね」
私も見たのはずっと昔よ。と真夜は遠い目をした。
その目は夕方、ダニーがコハクにチェスを渡した時の目に似ている気がした。
なんとなく、その事を指摘しない方が良いと思ったコハクは雑談をつづけた。
「ダニーさんは昔…30年くらい前は本の仕入れを兼ねて、奥さんといろんなところへ旅してたらしいです」
「すてきね」
「真夜さんもいろんなところに行ったんじゃないですか?」
「行ったけどね、私は買ってもすぐ捨てちゃうからなぁ、こういうの無いの」
真夜なら物で溢れかえりそうなのに…コハクは意外だなと思った。
「なんでですか?」
「夜逃げしづらいじゃない」
「何してたんすかあんた」
この言い方は、きっと異端狩りではない。『夜逃げ』という言葉に、白い目で見やると、真夜の口と目がおかしそうに弧を描いた。
「気になる?」
真夜が目を細めてぐいと前のめりに近づく。
チェス盤が小さいせいで、ぐっと姿勢が傾いて、ワンピースの襟から、さっきよりも深く見える胸と目が合ってしまった。
コハクは咄嗟に逸らしたが、視線に気づいた真夜は、さらに近づいてコハクの鼻をつまんだ。
突然の距離感にコハクが戸惑うと同時に、真夜は摘んだ鼻ごとぐいと引くと「ひみつ!」と言って、席に座り直した。
「急に何するんですかもう…ほんと鼻が…」
コハクはギュッと目を瞑り、弱点の鼻をゴシゴシと擦りながら、抗議の声を上げた。ぼやく口調は冷静さを装いつつも、真夜の顔が見れず、盤に目を落としたまま口を尖らせていたが、すぐに盤上の違和感に気づいて言葉を止めた。
そして慌てて真夜の顔を見ると、彼女はクイーンを手にしてニンマリと微笑んでいた。
「ちょっ…と」
「チェックメイト」
コツンとおいたコマは逃げ場なくコハクのキングを捕らえていた。
コハクは慌てて抗議を始めた。
「まって今絶対駒動かした!」
「動かしてないわ、みたの?」
目を瞑ってしまうのを分かってて鼻を摘んだ張本人がよく言う。
「卑怯だ!」
「谷間に惑わされる方が悪い」
襟ぐりを直しながら、すまして言う真夜に、コハクは面食らった。
「なっ…、それはあんたが…」
反論しようとするが、顔が赤いのはお酒だけではないとバレてるのだろう。諦めて項垂れた。
「どうせ負けたって準備なんかしないくせに…」
「さぁ、もうひと勝負するわよ!賭ける物があると白熱するわね!」
「次はズルダメですからね」
そろそろ少し眠くなってきたコハクは、(僕が負けたらここの片付け、先生が負けたら、今日飲むお酒を終わりにしてもらおう…)そう提案するつもりだったが、次の言葉で固まってしまう。
「決めるの面倒臭いから、勝った方がお互いのいうことをなんでも聞くことにしましょうー」
形のいい唇から、「なんでも」と紡がれるその声は魅惑的で、聞き返しつつも思わず、ごく、と喉を鳴らしてしまう。
「なんでも…ってなんですか…」
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