ダニーの暇つぶし

 昼休憩の後、夕方になって人の波が収まった頃を見計らい、コハクは店の奥に声をかけた。

師匠せんせい、ダニーさんのところに薬持って行きますね」

「あ、ちょっと待って」

 引き留めた真夜に呼ばれて、店の奥に行くと、そこには、5つの色の軟膏が乳鉢の中に入っていた。

「予防用の軟膏の試作品を作ってみたの」

「もう作れたんですか?」

「ええ、使いやすいものができたと思うわ」


 使ってみてと言われるがまま、一番手前にあった薄いグリーンの軟膏を手に伸ばす。

 伸びがよく、触れたところから、カサカサとしていた手が心なしかしっとりとした。

 

 質感を確かめるように、コハクは手の甲を頬に近づけると、ふと爽やかで優しいハーブの香りがした。

「ローズマリーの香りですか?いいですね。使いごこちも良くて、これなら普段使いできそうです」

「でしょう。香りはせっかくだから、基本は5つにしたの。そうすれば、選ぶのも楽しいかなって思って。」

「確かに気分で使い分けてもらうこともできそうですね。」


 なるほど…と、いっばしの薬屋の顔で頷くコハクに真夜は問いかけた。

「で、コハクはどれがいい?」

「え?」

「せっかくだから一番気に入った香りのものをあげるわ」


 コハクは五つの乳鉢をちらと見つめてから、手の甲をキスするように顔に近づけて、香りを確かめてから答えた。


「真夜さんが気に入っているローズマリーがいいです」

「なんでわかったの?」

「だって真夜さんはいつも、一番好きなものを手前に置いて紹介する癖があるので」

 コハクの言葉に真夜は目をパチクリとした、

「そんな癖があったの気づかなかったわ…」

「それに、僕もこの香りが一番好きです。」

「な、なら良かったわ!ローズマリーの軟膏はコハク用に分けておいてあげる。呼び止めてごめんね!行ってらっしゃい。」


 真夜に見送られて店を出た後、コハクはもう一度、ローズマリーの香りがする手の甲にキスをしてから、ダニーの家へと向かった。




 コハクは、本屋のおじいさんダニーのところへ一週間に一回程度、客の流れが落ち着いたタイミングで薬の配達に訪れていた。


 彼の営む本屋の店先では、コツコツという木の音と、嬉しそうな老人の声、そして呆れた青年の声が順番に聞こえていた。

「お前さん、だいぶ強くなったなぁ。」

「誰かさんに『足が悪くなった』って嘘で、配達とチェスの相手までさせられてるおかげですよ」

 いつもの通り、ダニーは薬を受け取ると、いそいそとコハクを座らせたかと思えば、嬉しそうにチェスの盤と駒を並べ始めた。


「それは困った爺さんだなぁ」

「本当ですねえー」

 白々しいダニーに、乾いた相槌を打ちながら、コハクはビショップを相手の陣地へと進ませる。

「チェック」

「おおそう来たか」

 チェスの盤上で、まだ立て直しできるかと画策するダニーは面白そうに口角を上げている。

「俺らじいさん連中と違って発想が若いからなぁ、攻め方が面白いんだよ」

定石じょうせきじゃダニーさんに敵わないですもん」


 すました顔でお茶を口にしながら、コハクはチェックメイトまでの道筋を組み立てる。

 だが、途中で首を傾げた。今日はシュミレーションがうまくできない。


「あれ…何かいつもと違う。」

「相手が攻めやすい道をあえて作って、油断したところを畳み掛ける」

 コハクの疑問に口角をさらに上げたダニーは、駒を動かしながら呟いた。その言葉にコハクはハッとする。


 普段ダニーは、不用意にキングを動かさない。

 それが今日は嫌に前線に出てると思ったんだ。でもそれは、じいさんが慌てて動かしただけだと…

「チェックメイトじゃ」

 無防備なキングの誘いに乗せられて、守りが手薄になった場所をダニーの攻めが的確につき、あっという間にキングを取り囲んでしまっていた。

「意外な駒運びだろ、コハクの攻め方を参考にしてみたわい」


 コハクは「なるほど、流石ですね」と、言葉では敬意を表しながらも、顎に手を当てながら顰めっ面で盤面を睨む。

「青二才のムキな顔で、今日は美味しいお酒が飲めそうだのう」

 その言葉にコハクはますます面白くなさそうな顔をした。

「…飲みすぎちゃダメですよ」

「お前さん、負けるとちょっと機嫌悪くなるよな」

 にやにやと勝利の余韻に浸っていたダニーは「あ、そうだ」と思い出したように棚をごそごそと動かした。


「ほい、美味い酒の駄賃だ。」

「え?」

 テーブルの上に差し出されたのは、コンパクトなチェス盤だった。

「旅用の折りたたみチェス…ですか?」

 丁寧な作りの板は二つに畳まれていて、蝶番をあけると、中には彫刻が施された少し小ぶりな駒たちが入っていた。


「掃除していたら出てきてな。もうわしには小さいコマはちとしんどいが、こいつはまだまだ使ってやれる」

「いいんですか?」

「ああ、あの子もなかなか面白い打ち方をするが、今のお前さんなら、いい勝負なんじゃないか」


 真夜にしごいてもらえれば、もうちょっと手応えが出るかもしれんな、と挑発されたので、コハクはチェス盤を受け取ると、いつもは応じている二回戦を笑顔で辞退して、薬屋に戻った。

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