【幕間】風のように優しい

在る日の落書き

「何描いてんの?」

「ましょさん描いてるの」

 幼いコハクの創作意欲は、渡した紙には収まりきらなかったようで、輪郭らしき丸のほとんどがテーブルにはみ出ていた。 


「これは魔法で消せばいいから、まぁいいか…」

 注意するのも面倒になった魔女は、ため息をついて、用意していた紅茶をテーブルに置き、一旦見なかったことにした。


 こいつ、コハクを引き取ってからは散々な毎日だ。


 持てない皿を運ぼうとして割るし。


 渡した薬は飲まないし。


 いろんなところに落書きするし。


 おまけに、すぐに死にかける。


 引っこ抜くなと言ったマンドレイクを、「わかった!」と言った十秒後に抜いた時は、どうしてそうなるのか、本当に分からなかった。


 コハクから目が離せない上に、街に暮らすと人の音がうるさくて、普通の一日を過ごすのに疲れ果てて、身だしなみだってろくに整えられていない。昔は魔法使いたちの集会でも、美人だともてはやされていたが、最近はその集会にすら行けていない。


 バシバシになった髪の毛をつまんでみると…ああ、枝毛を見つけてしまった。魔法で枝毛を消しながら、思わず二度目のため息が溢れた。


 子供の面倒を見ることがこんなに大変なんて知らなかった。


 とりあえず、お絵描きには大きな紙を用意すればよかったと思いながら、絵を見やると、先ほどまで丸だった輪郭に、鬼のような表情が書き込まれていた。

「コハク、あなた私を書いたのよね?」

「そうだよ!」

 元気よく答えたコハクと裏腹に、魔女は少し眉を下げた。

「私ってこんなに怖い顔をしているのね」


「うん、このかおすきー」

「…え、好きなの?」

 思わず聞き返すと、コハクは魔女の方を向き、自分の目尻をぎゅーと上に指で押し上げて、絵の魔女と同じ表情をしながら、教えてくれた。

「まよさんは、ごはんね、こーんな顔になるくらい頑張って作ってくれるでしょ」


 そーんな顔になっていたのねと魔女が思ったら、コハクは「だからね」と続けた。

「まよさんのごはんにはね、こはくがたくさん、たくさんうれしくなるまほうがかかってるの」

 相変わらず、曇りない鈴の音は綺麗だった。

 

 魔女は毒気を抜かれて、思わずくすりと笑ってしまった。

「だから笑った顔よりもすきなの?へんなの」

「あ、笑ったかおもすきー!」

 と慌てて答えるコハクは、先ほどの彼女のように、少しだけ眉を下げて魔女の顔を見つめた。

「いつも、こまらせてごめんね」

「え?」

「こはくもね、まよさんをうれしくできる、まほうがつかえたらいいのに」

 そう言った後コハクは、あ、まよじゃなかった…とぶつぶつ練習を始めた。


 困ったことばかりの新生活で、一番困るのは、これかも知れない。


 コハクといると、私の中にある知らない感情がどんどん生まれてくる。こんなむず痒くて、暖かくて、居心地のいい感情をどう扱っていいかなんて分からない。


「まよ、ましょ、まじ…ま、じょさん!」

 言えた!と嬉しそうな顔をする丸い顔の真ん中を、魔女は右手でちょんとつまんだ。

「まよでいいわよ」

「へ?」

「はい、お絵かきはおしまい。毎回机汚しちゃって…もう消さないからね。」

 鼻を押さえて、目を白黒させるコハクを尻目に、ふふと笑った真夜は少し冷めた紅茶を口にした。



 その日の夜は、月が出ない晴れた夜だった。

 

 魔女は隣から聞こえる、可愛いくて小さな鈴の音と、星の瞬きだけを感じていられる、静かな真夜中の時間が好きだった。


 あともう少し夜が更けるまで…と思いながら、彼女は涙の跡をつけて眠るコハクの横で、今度の名前はどんな文字にしようか考えを巡らせた。

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