第5話ー青野かず こと 安藤ようこ

 先月オープンしたばかりらしい「ボヤージュ」という名のカフェには、お洒落な洋楽がかかっていた。歌詞の言葉はわからないけれど、たぶん、恋の歌だ、と安藤ようこは勝手に予想する。そんな予想ができるほど、沈黙の時間は長かった。

「……青野先生」

 その長い沈黙を、ようやく、サンエイ社の編集者・鬼頭のぞみが破った。青野、はようこのペンネームだ。青野かず。漫画家の名前は、性別のわからないタイプのものがよいらしい、と誰かからきいて、それっぽいものを適当につけた。

「は、はい」

「ストーリーは、悪くないです。何度も申し上げてますけど、青野先生には、物語をつくる才能があります」

「あ、ありがとうございます」

 ひとまわり以上も年下のようこに対して、のぞみはいつも先生、と呼び、敬語を使う。

「でも、ねえ……。やっぱり、『人』が前面に出すぎてるんですよ。こうも人物ばかりがコマを占めていると、読みにくいですよ。もうちょっと、なんというか、間をね、取らないと」

「はい……」

 のぞみがテーブルの上に無造作に原稿を置いたのを、ようこは少し息を飲んでみつめた。

 『人』が前面に出すぎている、は、物語をつくる才能があります、以上に何度も言われてきたことではあった。これでもようことしてはその指摘を受け入れて、間合いを取った構成にしているつもりなのだ。これ以上譲歩しては、自分の作品ではなくなってしまう、という考えのもとでの、独自のラインで。

 ようこは、幼いころから漫画家になりたかった。面白い漫画を描くことが、夢だ。暇さえあれば絵を描いて、漫画を読んで、その夢のために邁進してきた。本当は高校に進学するつもりすらなかったくらいだけれど、両親に懇願されて自宅にいちばん近かった公立高校に進学した。高校生になってからは、これまで以上に描いて書いて描いた。いちばん愛読していた少年向けのコミック雑誌の新人賞に応募し、準大賞を取ったのが去年のこと。高校二年だったようこは、漫画家として生きていく道を得たと確信し、大学受験のための勉強を一切しないと宣言したのだ。

 けれど。準大賞を取ってから、担当編集者というものがつき舞い上がっていたものの、この一年で雑誌に掲載してもらえたのは読み切りが一本だけ。連載開始、など遠い幻のように思われた。

 担当編集であるのぞみが、はー、とため息をつき、テーブルの上の原稿をもう一度手に取ったものの、ちらりと見てまた、バサッ、と放った。

「先生の人物画が素晴らしいのはわかってますけどね。でも、これは子どものお絵かきじゃなくて漫画ですからね。どういうものを描きたいか、ちゃんと表現しないと」

「は、はあ……」

 ようこは、曖昧な返事をしてうつむいた。視線の先には、すっかり冷めてしまった紅茶があった。のぞみはケーキがみっつも乗っていたデザートプレートを、きれいに食べつくしている。

「どういうものを、描きたいか」

 口の中で、ようこは呟いた。それはもう、ちゃんと決まっている。のぞみにも何度も伝えてきた。のぞみは、本当にようこのことを考えてくれているんだろうか。テーブルが濡れていないかを確認もしないで原稿を置くし、いつもいつも同じようなアドバイスしかしないし、打ち合わせ場所はこちらの都合などお構いなしに自分が行きたいカフェを指定してくるし。……それらのことを、ようこはぐっと飲みこんだ。その様子が、泣くのを我慢しているようにでも見えたらしく、のぞみがまたため息をつく。

「青野先生はまだお若いですからね、譲れないものもたくさんあるでしょうけど、大人の意見は聞いておいた方がいいですよ。漫画のこともそうですけど、この先の人生をどうしていくかとかね、そういうことも含めて」

「……聞いてないのは、どっちですか」

「え?」

 声を絞り出すように、ようこは言った。のぞみが、軽く目を見張った。ほら、聞いてない、とようこは胸中で吐き捨てる。

「私は人間を描きたいんです! だから人物を目立たせてるんです! 何度も言ってるでしょ!?」

 うつむいていた顔を上げて、ようこは怒鳴った。頭の中で、何かが弾けた。のぞみの表情が、かたまる。

「これからの人生をどうしてくか!? いい漫画描いていきたいに決まってんでしょ、それが私の夢で、そのために生きてんだよ私は!!」

「あ、青野先生」

「うるせえ、たまには黙って聞け!」

 ようこは叫びながら立ち上がった。カフェ中がようこのことを見ていたけれど、気にもならなかった。

「私は、夢をかなえます」

 のぞみを見下ろして、ようこははっきりと言った。

「真剣です。この真剣さに向き合ってくれないなら、私は、どんなに苦しくてもいいから、ほかの出版社へ行きます。脅しじゃないです。私にそんな力はないから。もう一度、新人賞からやりなおします」

 ようこはそのまま、椅子に座りなおすことなく、カフェを出た。怒鳴っているときには感じなかったけれど、心臓がいつもの三倍くらいばくばくいっていた。

「青野先生!」

 後ろから、声がかかって、また心臓が跳ね上がった。びくびくしながら振り返ると、のぞみが息を切らしながら走ってくるところだった。

「に、人間を、描きましょう」

「え」

「人間を、描いて、そして、どうしたらもっと面白くなるか、いい漫画になるか、考えましょう。一緒に。……考えさせて、ください、一緒に」

 のぞみの目が、まっすぐに、ようこを見た。たぶん、今日初めて、まっすぐ見た。

「……はい」

 ようこも、まっすぐに見返して、ちょっと、微笑んだ。

 いい漫画を描く。その夢のために、ようこは、生きていく。

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スクランブル5 紺堂 カヤ @kaya-kon

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