第3話ー金澤あんな

 目が覚めたら、知らない男の隣に寝ていた、というのは別にテレビドラマでなくとも起こりうることであって、少なくとも金澤あんなにとっては特別珍しくはない。

 肌に馴染まないシーツの上で少しだけ体を浮かせて、あんなは「今回の男」の顔を眺めた。瞼を閉じているのに小さいとわかる目、あまり高いとはいえない鼻、半開きの薄い唇。肌は、まるで少年のようにつるりとしている。髭が薄いタイプなのだろう。

「可愛いじゃん」

 あんなは頬杖をついて満足そうに笑った。自分の心臓の動きがはっきりとわかって、「ときめき度」が上がっている感じがして、嬉しくなった。記憶をなくすような状態で選んだにしては上出来だ、と思う。もっとも、男のひとは総じて可愛い、というのが、あんなの持論なのだけれど。

 あんなはそうっとベッドを出て、ベッドサイドに放り投げられていた服をひとつずつ確かめながら身に着ける。マガジンラックに「新連載 世界の空・初回はフィジー」と見出しの踊るカルチャー誌がささっていて、ふうん、こういうのが好きなのか、と思ったら、またあんなの中の「ときめき度」が上がった。ううーん、と唸る声がして、可愛い男がのろのろと起き上がった。

「おはよ」

「……ん、え、あ、おはよう? ……、えーっと……、ああ、そっか……」

 可愛い男は、寝ぼけ眼を不審そうにあんなに向けたが、白いキャミソールにベビーブルーのショーツ、という姿を見て現状を察したようだった。

「あー、ごめん、俺、ほとんど何もおぼえてないんだけど……」

「あたしも」

「マジか。そっか。……名前は? 俺はリュウヘイ」

「あんな」

 サーモンピンクのワンピースに袖を通しながらあんなが名乗ると、リュウヘイはベッドから出てきて素早くジーパンを履いた。

「あんなちゃん」

 確かめるように呼んで、リュウヘイはあんなの正面に立った。予想通りの、小さな目。

「また会える?」

「……うん、いいよ」

 あんなはちょっとだけ考えるようなふりをしてから、頷いた。昨夜の出来事はさっぱりおぼえていないけれど、気持ちよかったということは体が知っている。

「よかった」

 リュウヘイは軽い微笑みを浮かべて、あんなの左の耳の下あたりに口づけた。




 大角デパートの遅番の出勤は正午ちょうどである。一度帰宅している時間はなさそうだ、と判断して、あんなは職場の最寄り駅方面の電車に乗った。帰宅をあきらめれば、駅前のコーヒーチェーンで朝ご飯を食べて、ロッカーで入念に化粧をする時間は充分にありそうだ。

 出勤ラッシュを終えたばかりの車内は空いていて、大きな窓から差し込む光が満ち満ちていた。あんなは七人掛けの座席の真ん中に座り、人目も気にせず両手を挙げてうーん、と伸びをした。疲労感がないとはいえないけれど、つらくはない。そんな遊び方、若いうちにしかできないわよ、と、十年前に言われたけれど、案外平気だ。ならまだ「若い」ということなのでは、と考えられるほど、あんなは自分の年齢に対して楽観的ではないにしろ。

 十年前にそう言ったのは、当時あんなが通い詰めていたバーのママだ。酒の味を覚えたばかりで、なにかと背伸びをしがちだったころのあんなを慈母のようなまなざしで見守ってくれたひとだった。

「遊びじゃないもん。あたし、いつだって本気だよ」

 たぶん、あんなはそう言い返したんだったと、思う。たった一晩だけの関係だからって遊びと呼ばないで欲しい。いつだって、一瞬、一瞬、あたしは本気で恋をしているんだから、と。青かったなあ、とあんなは我ながら思う。

 そんなことを思い出しながら昼休憩まで店頭に立っていた。あんなの担当は紳士服売り場だ。快晴の日にもかかわらず、今日は比較的、客が少なかった。還暦を迎える父にプレゼントを、と赤いネクタイを選んでいった女性と、なんでもいいから靴下ください、とあわただしく買い物をしていった青年を見送ってからは、あんなはひたすら、ショーケースを磨く仕事に徹していた。

「金澤さん、休憩どうぞ」

 早番で入っていた同僚に声をかけられ、あんなは礼を言って売り場を離れた。遅番の昼休憩は二時を過ぎたくらいの時間にまわってくる。ランチタイムはもう終わっている店が多いし、そもそも昼休みのためだけにデパートの裏通路を通らなければならないのは面倒なので、あんなはたいてい、社員食堂を使うことにしていた。

 まずくはないが特別美味しくもない日替わり定食を食べて、喫煙ルームに移動する。幸いにもわりと空いていて、あんなはホッとした。デパート勤務のひとは結構、喫煙者が多くて、休憩時間が重なると喫煙ルームはものすごく混雑し、タバコの煙が何も見えなくなるほど立ち込めるのだ。

 換気状態がいちばん良い、衝立で仕切られた奥の席を確保してメンソールをくわえながらスマホを覗くと、リュウヘイからメッセージが来ていた。

『今朝はありがと。たいした話もできなかったから、近いうちにじっくり話したいな。今度は、ぜんぶ、ちゃんとおぼえておくからさ。俺、明後日にまたあのバーに行くつもりなんだけど、来れる?』

 あんなはふふふ、と笑った。「ときめき度」がまた上がった。

「ねえ。ロッカーで金澤さんに会ったんだけどさ、あのひと、また昨日と同じワンピース着てたの」

「え、マジ? 帰ってないってこと?」

「じゃないのー? 男の家に泊ったんでしょ」

 衝立のむこうから、女性ふたりの会話が聞こえてきた。同僚だ。たぶん、担当部署は子供服売り場。

「よくやるよねー。男が途切れたことないって噂、ホント? たいして美人でもないのに、なんで?」

「すぐヤらせてくれるからじゃなーい?」

「なるほど。顔の良さより股のユルさ、ってわけかー」

「ちょっとぉ、さすがに下品すぎだよお」

 ふたりの会話を、あんなは息をひそめて聞いていた。別に傷つきはしない。もう言われ慣れたことばかりだ。

「男いないと死んじゃうんですかね?」

「さあねえ。よくそんな生き方できるよね、とは思うけど」

 ふう、と煙を吐き出す気配がした。あんなも、白い煙を吐き出した。吐き出しながら、誰にも届かないくらいの声量で呟いた。

「じゃあ、あなたはどんな生き方をするの?」

 あんなは、恋に生きると決めた。決めたのがいつだったか。はっきりとは覚えていないけれど。誰かを好きだと思う気持ちをいちばんに大事にしようと、そう思っている。相手が男であるか女であるか、はたまたそのどちらでもないかは、関係ない。自分の中の「ときめき度」を、何よりも重要な指針として生きる。あんなは、そう決めていた。

「遊びじゃないもん。あたし、いつだって本気だよ」

 口の中だけで、唱えるように言って、あんなはリュウヘイに返信をした。

『明後日、バーに行くよ。会えるのを楽しみにしてるね』

 メンソールの火を消し、衝立から姿をあらわすと、おしゃべりをしていたふたりが息を飲んだ。

「お疲れ様でーす」

 笑顔で二人の前を通り過ぎ、あんなは、午後の仕事に戻った。

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