第2話ー森ヒロアキ

 ビーチサンダルで空港に降り立ったら、つま先から全身へ、一瞬にして冷気が駆け抜けた。日本が冬だということを忘れていたわけではないが、これほど寒い国だったのか、と驚いた。二年、いや、三年ぶりだろうか、と森ヒロアキは頭の中で計算をしてみた。すぐには思い出せなかったので早々に、まあいっか、と思考を放り投げる。

「さあて、どこへ行こうかな」

 ヒロアキは空港へ着いたときに、必ずこう言うようにしていた。

「……ただのおまじないになっちまってるじゃねえか」

 溜息とともに吐き捨てて、ヒロアキは荷物をピックアップし、タクシーに乗り込んだ。行く場所はもう決まっていた。最近は決まっていないことの方が少ない。

「ここへ行ってくれ」

 ホテルの住所が記載された用紙を運転手に渡し、ヒロアキは早々に寝てしまった。特に眠くはなかったが、タクシー運転手とのおしゃべりに興じる気にはならなかったのだ。いつでもどこでもすぐ眠れる、というのはヒロアキの生活の中で特に役に立っている特技のひとつだ。

「よ、ヒロ。元気そうじゃないか」

 ひげ面の男が、ホテルのロビーでヒロアキを出迎えた。早瀬ユウジ。ヒロアキの高校時代の同級生だ。

「なんだ、わざわざ来たのか」

「なんだとはなんだ。約束は八時だろ、ちょうどいい時間じゃないか」

「部屋でひと眠りしてから行くつもりだったんだ」

「嘘つけ、ちっとも眠そうじゃないぞ」

 ユウジが唇だけで笑い、ヒロアキは渋面をつくった。何年も会っていないというのに、よくもまあ顔色を読めるものだ。

「荷物、置いて来いよ。美味い寿司屋を知ってるんだ。奢るよ」




 ユウジに連れていかれた「きく五」という寿司屋はたしかに美味かった。値段を見ないようにして食べたから、いくらくらいかかったのかはわからないが、自分の金ではないので気にはならない。

「じゃあな。雑誌連載の件、考えておいてくれよ」

 昔話に花を咲かせた締めくくりの言葉が、それだった。ヒロアキはああとかうんまあ、とか適当な返事をしてユウジに背を向けた。

 ヒロアキが写真家になったのは、偶然のようなものだった。高校卒業後、何物にも縛られたくなくて世界中を放浪する道を選び、半年も経たぬうちにさっそく金に困った。極東の豊かな国で生まれ育ったひ弱な青年を雇ってくれるようなところにまともな仕事はなく、何度も命の危機に直面した。インドネシアで泥棒と間違われ、警察沙汰になりかけたところを、通りがかりの日本人に救われた。それが写真家の後藤ユウトで、ヒロアキはその後数年、ユウトのアシスタントとして各国を旅することになったのだ。

 何物にも縛られたくなくて、というヒロアキの言葉を、ユウトは笑わなかった。

 そんなことは無理だと、わかっていたのに違いなかった。わかっていてなお、ヒロアキの希望を潰さずにいてくれたのだ。

「……今なら、笑われたかもしれないな」

 ベッドに寝転んで、ヒロアキは呟いた。ひとりでいる時間が長いと、ひとりごとも増える。いろいろな言語を話せるようになったけれど、ひとりごとは不思議と、いつも日本語だった。

「いまだに『自由でいたいんだ』って言ってるなんて知ったら、さ」

 俺は自由でいたい、何物にも縛られたくはない、そう叫んだ十八歳のヒロアキを、両親も教師も友人たちも、半笑いでなだめた。自由とは幻なんだ、と。

「俺はそうは思わない」

 ヒロアキはそう言い放って、体ひとつで世界に飛び出した。好きなときに、好きなところへ行って、好きなことをする。そういう自由を、謳歌するのだと。

「それは自由じゃない。ただの身勝手だ、って、気が付いたのがようやく最近なんだ」

 さっきの寿司屋で、ヒロアキはユウジ相手にそう言った。酔ってはいなかった。日本に、泥酔できるような酒はない。

「そうか」

 出版社でカルチャーマガジンの編集者として働いているユウジは、神妙な顔で頷いた。ユウジは、あの頃のヒロアキのことを半笑いでなだめることのなかった、たったひとりだった。

「好きなときに、好きなところへ行くには金がいる。金を手に入れるためには、それなりの規則というものがあって、それに従わなければならない。……そんな当然のことが、無性に腹立たしかったんだ。若かったよ」

「……本当か?」

「は?」

「腹立たしかったのは、若かったからか? 違うんじゃないのか? 本当は今も、腹立たしく思っているんだろ?」

 ユウジの静かな声が、ヒロアキの喉の奥に刺さった。返事が、できなかった。

「そうだ、そのとおりだ」

 寿司屋ではできなかった返事を、ヒロアキは白い天井に向かって発した。

「俺は今も、腹立たしい。腹が立って腹が立って仕方がない。人は、自由であるべきなんだと、心の底から思っているんだ」

 そのまましばらく、天井と睨みあって、このままでは眠れないな、と思った。タクシーの中で寝すぎたせいでは、もちろんない。

 よっと、と起き上がり、電話をかけた。

「ああ、ユウジ。遅くにすまん。さっきはご馳走さん。あのさ、雑誌の件なんだけど。……そう、紀行写真の連載の。あれ、受けさせてもらうよ」

 そうか嬉しいよ、と言うユウジの声が明るく弾んでいて、ヒロアキはくすぐったい気持ちになった。

人は自由であるべきなんだと心の底から思っている。

「ん? 旅する場所はこっちで自由に決めていいって? いや、編集部の意向に従うよ、俺の意見も欲しいってことなら喜んで出すけどさ。……ああ、うん、それでいい。大丈夫だよ、そんなことで俺の自由は侵害されないからさ」

では、自由とは何なのか。

「……うん。俺はそれを考え続けて生きていこうと思うんだ」

 ヒロアキは、ホテルの天井をもう一度見上げた。ただ白いだけの天井のむこうに、南の国の青い空が見えたような気がした。

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