スクランブル5

紺堂 カヤ

第1話ー村上ゆか

 株式会社ナカガワのオフィスが入ったビルは、駅から徒歩五分ほどのところにある。タイル張りの壁面は、新築のころにはさぞかし目を引いただろうと思われるけれど、今はもとが何色だったのかわからぬほど褪せていて、ところどころ剥がれ落ち、コンクリートがむき出しになっている。ビルは古ぼけているのに、自動ドアは妙に新しい。つい最近、ビルのメンテナンスによって整備されたからだ。

 その自動ドアが開くのも待ち遠しいような様子で、村上ゆかはビルの外へ飛び出した。駅とは反対の方向へ、小走りに駆けてゆく。歩いて三分、小走りで一分。今日は五日。この日ほど、ゆかは勤務先の立地に感謝することはない。

 紺に「きく五」と白く染め抜かれた暖簾をくぐると、細面に三角巾をきりりと締めた女性が笑顔でゆかを出迎えた。

「いらっしゃいませ」

「おかみさん、あの、」

「うふふ、まだありますよ。どうぞ」

 おかみさんに示されたテーブルにどかっ、と腰をおろして、ゆかはハーッと息をついた。

 老舗の寿司屋である「きく五」は、毎月五日に「特別ランチ・山盛り海鮮丼」をたったの五食限定で販売するのだ。

「おまちどお」

 どん、とゆかの目の前に置かれた海鮮丼には、マグロはもちろんイカ、エビ、ホタテ、ハマチ、それにウニとイクラが惜しげもなく乗せられている。まさしく「山盛り」のネーミングに恥じぬ姿だ。これでワンコイン五百円とは破格だ。昼休みになった瞬間にオフィスを飛び出して食べに来たいと思うのは人間として当然だ。

「いただきます」

 合掌して一礼してから、ゆかは猛然と海鮮丼に挑みかかった。新鮮なイカの歯ごたえと風味に、自然と目が細くなる。

「んー、さいこう」

 ゆかがつぶやいたとき、二人連れの男性が店内に入ってきた。

「おばちゃん、五の日の海鮮丼、まだある?」

「すみません、終わってしまいまして」

「えーっ、もう?」

「今月こそは、と思って急いで来たのになあ」

 そんな会話を背中で聞いて、お気の毒に、と思いながら、ゆかはイクラをほおばった。




「磯村さん、さっきはありがとう。これ、ちょっとだけど」

 昼休みが明ける直前に、ゆかは赤い小さな紙袋を同僚の磯村あゆみに差し出した。

「え?」

 あゆみが、漫画を読んでいた顔を上げ、マスカラできれいに縁取った目を丸くする。

「さっき、電話、出てくれたから」

「ああ、あれですか。気にしなくてよかったのに。海鮮丼、間に合いました?」

「うん、食べられた。ありがとう」

 昼休みに入る直前に電話が鳴り、ゆかが受話器に手を伸ばすのを躊躇ったところを、あゆみがサッと目配せをして、取ってくれたのである。

「え、これ、メゾン・レーヌですよね、お高いんじゃないんですか、いいんですか」

「気にしないで、本当にちょっとだけだから、むしろごめんね」

「いえ、そんな。嬉しいです」

 あゆみがにこっと笑って会釈した。メゾン・レーヌはフランスに本店のある、世界的に有名なケーキショップで、「きく五」から歩いて十分程度のところに大きな支店が出ている。昼休みになった途端のスタートダッシュを決めたことで時間の余裕を得たため、ゆかは海鮮丼を食べ終えた足で店に立ち寄ったのである。メゾン・レーヌのフィナンシェは、ゆかの大好物であった。

 明日は何を食べよう。駅前の中華料理店が最近始めたというテイクアウト限定の油淋鶏弁当も気になるし、「きく五」のすぐ近くにある「蕎麦ふじ」にも久しぶりに行きたい。駅の反対側にできた新しいサンドイッチショップにもまだ行ったことがないし、お気に入りのガパオ専門店の季節メニューも捨てがたい。……ゆかはメールをどんどんさばいてゆきながら、頭の中は明日のランチのことでいっぱいだった。

「お疲れ様です、お先に失礼します」

 ゆかとあゆみはほぼ定時ちょうどにオフィスをあとにした。ふっくらとしたゆかと、痩身のあゆみは、並んで歩くとまるでお笑い芸人のような滑稽なバランスだ。

「村上さん。今夜は夕飯何にするんですか」

 駅まで連れ立って歩きながら、あゆみがにこにこと尋ねた。

「今日はね、五目御飯。帰ったらちょうど炊けているように仕込んできてるの」

「へえ、すごい! さすがですね、村上さん」

「すごいってほどじゃないよ、とっても簡単なんだから」

 具材と調味料を米と一緒に炊飯器に仕込んで、タイマーをかけておいただけだ。

「簡単かどうかは関係ないんですよ、毎食ちゃんと美味しいものを食べよう、っていうのがね、すごいなあ、と思うんですよ。……私ね、村上さんは人生をとっても、楽しんでるなあ、って思ってるんです。素敵な生き方だなあ、って」

 あゆみがどこか遠くを見るような目でそう語るのを、ゆかは呆然と眺めた。あなたの方がよほど素敵だ、と言いたかった。でも、うまく伝わらないような気がした。

「生きることは、食べることだから」

 代わりに、そんなことを口走っていた。あゆみが頭を動かして、ゆかの横顔を凝視した。

「……なんちゃって」

 気恥ずかしくなって、ゆかはえへへ、と笑う。素直な言葉は難しい。そんな難しい素直さを、いつも惜しげもなく見せられるあゆみを、ゆかはとても素敵だと思うのだ。

 あゆみは真面目な顔で大きく頷いてくれた。

「村上さん、今度、一緒にランチ行きましょうよ。おすすめのお店、連れてってくれませんか」

「是非!」

 ゆかは満面の笑みで大きく頷いた。

「楽しみ! あ、じゃあ、私、こっちなので。お疲れ様でした」

「うん、お疲れ様」

 改札前であゆみと別れ、ゆかは足取りも軽く駅の階段を駆け上がった。山盛り海鮮丼で得た力が、全身にみなぎっている気がした。

 あゆみとは何を食べに行こうか。高架下のカフェのキッシュは、きっと気に入ってもらえるだろう。ビーフシチューが美味しい洋食屋にも連れていきたいが、あそこはオフィスからかなり歩かなくちゃいけないし……。頭の中を食べ物の香りでいっぱいにしながら、ゆかはちょうど来た快速電車に飛び乗った。うちへ帰れば、五目御飯が炊けている。

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