第8話 一夜明けて
「ひめさま……ひめさま」
うぅん……呼ばれているわ。でも……待って。
ごめんなさい。体も心も鉛のように重くて、瞼さえ開かないの。もう少し……もう少しだけ、眠って……い……させ……て……。
「姫様」
品良く正確な発音。決して大きな声ではないのに、耳元をピシャリと鞭打つような厳格な声音。ああ、この声は——ソフィー!ソフィーだわ、怒られちゃう!
「はいっ!」
私は慌てて背筋を伸ばしました……あら?
北風が口笛を吹きながら丘を駆け抜け、暗い窓がガタガタ鳴っています。春はまだ……来ていませんでしたっけ?
寝ぼけ眼をこすりながら、私は辺りを見回します。
慣れ親しんだ、居心地の良い居間。温かな光が満ちる、穏やかな夕食後のひととき。燃え盛る暖炉の左と右で、私とソフィーはそれぞれ椅子に腰かけてそれぞれの作業に没頭していました。ソフィーはずいぶん凝ったかぎ編みのショールを仕上げていて、私はヴィクトル殿下にお返事を書いている……途中でした。やだ、うたた寝しちゃった。
ソフィーはかぎ針を持つ手を止めて、私をじっと見つめていました。
「姫様。来月はもう、お輿入れですね」
「ええ……そうね」
確かにそのとおりです。が、実感はさっぱり湧きません。
私は手元の便箋に目を落とします。来月には夫となる殿下に、こうして近況報告のお手紙を差し上げるのはこれが最後かしら?
ソフィーはしばし無言で……珍しく何かをためらっているようでした。
「実は——お輿入れが済みましたら、姫様にお話したいことがあります」
「あら、何?今じゃだめ?」
私は首を傾げ、ソフィーに微笑みかけました。ソフィーのヘーゼルの瞳が揺れます。それでも彼女の口調はいつもどおり流暢で、淀みなどありませんでした。
「今はまだ早すぎると思います。『あるべきもの』を見ていただいてからお話する方が……きっと、良いはずです」
「あるべきもの?」
私がさらに問うと、ソフィーはゆっくり目を閉じました。
「姫様。私は常々、事実と私見は厳密に分けて話さねばならない、とお教えしておりますね?」
「ええ、覚えているわ。実践は難しいけれど」
「そうですね。難しい問題です。私はこれまで姫様に事実だけをお話してまいりました。それが正しいと信じて——傍観者である私が、当事者の真実を推察で語ることは許されないと考えましたので。
ですが、今は……そうしてきたことを少々後悔しています」
ソフィーが珍しく声を詰まらせました。いったん口を閉じてから、一語一語を嚙みしめるように語ります。
「姫様。これは私見ですが、確信をもって申し上げます——貴女様は深く愛されて、心から望まれてお生まれになったのですよ」
やや目尻を下げた、優しい笑顔が改めて瞳に焼きつきました。
「ですから、どうぞ胸を張ってハイランドへお輿入れなさってください。そして必ず幸せになってくださいませ」
パチッ!暖炉の薪が音を立てて爆ぜます。その炎と同じくらい、ソフィーの言葉は私を温めてくれました。
ソフィーはおそらく、嫁入り直前で不安になっている(はずの)私を慰めてくれたのでしょう。実際は不安以前に、まだピンときてすらいないのですが。それでもその心遣いが嬉しいわ。
「ソフィー……ありがとう」
私が満面の笑みを返せば、ソフィーも口元の皴を深く刻んで微笑みました。
「案ずることはございません。今までもこれからも、誰よりも頼もしい御方が姫様を護ってくださいますよ」
ん?何かがひっかかりました。
誰よりも頼もしい御方が?私を護る?それは誰?
私にはその護ってくれるひとがいるはずなのに、どうして襲撃されたの?
聞き返すために身を乗り出したとき——突如、辺りが真っ暗になりました。
視界がぐるぐる回ります。
ああ待って!ソフィー!ソフィーはどこ?!
とっさに腕を伸ばそうとして、腕が動かないことに気が付きました。急速に意識が冴えてゆきます。さっきの話は夢?!……いいえ、違うわ。あの会話は確か、ひと月ほど前に実際に交わしたものだった。思い出したわ。
ねえソフィー、あのときあなたが話したいことって一体何だったの?ちゃんと聞いておけば良かった。そこまで大事な話だと思わなくて、また後でいつでも聞けると思って、あの話を切り上げたのは大失敗でしたわ。
ああ、今はどうしても聞きたい。ねえソフィー、話ってなに?私を護る御方はだあれ?あなたは今どこにいるの?
震える瞼を強い光が焼いています。
まぶしくて、思わず顔を背けたら。
「あらぁ、ひめさま。お目覚めですか?もうじき昼ですよぉ」
ええっ?!だれ?!
聞き覚えの無い声をかけられ、私は驚いて跳ね起きます。すると。
寝台で目を丸くする私に向かって、《東の騎馬の民》のアマラおばさまがにっこり笑いかけてくれました。
昨日あんなに酷い目に遭って、命からがら逃げだして、事後にソフィーが攫われたと聞いて。こんな夜はとても眠れそうにないわ……なんて思っていたのに。
どうやら私、床に就いた途端ぐっすり眠ってしまったようです。しかもお昼まで寝坊するなんて。私は自分で思うよりずっと図太い性格をしているのかもしれません。
……いやだわ。もう、恥ずかしい。
真っ赤になった顔を手で覆い、縮こまっていたら、全てを察したアマラおばさまが明るく笑いとばしてくれました。
「そんなにお気になさらなくても、かまいませんよぉ。遠出なさるのも、馬に乗るのも、初めてだったんでしょ?そりゃあ疲れますよ。仕方ありませんってぇ」
枕元の小卓に手水を置く音が聞こえます。
「それより、お体の具合はいかがですか。熱はありませんか?どこか痛いとか」
「よく眠れたので、すっかり元気になりましたわ。ありがとう」
「なら、良うございました。お若いですねぇ」
ふふふ。アマラおばさまは鼻を鳴らして微笑みます。
そして——ふわりと、見覚えのある衣服を掛布の上に広げました。慣れ親しんだポプリの香りが鼻をくすぐります。
「では、お着替えをどうぞ」
まあ!これは私の普段着ではありませんか!
「どうしてここに、この服が?」
「昨夜館へ走ったチューランが、朝イチでいろいろ持って帰ってきたんですよ。夕刻にはヴィクトル殿下もこちらへおいでになるそうで」
「殿下が?!」
そんな!サーッと音を立てて血の気が引きました。
「どうしましょう!ドレスは汚れてしまったし、髪だって、ああ、お化粧も一人でできるかしら……!」
そもそも荷物すらありませんし、たった一人でお輿入れのやり直しなんてできませんわ!ああ本当にどうすれば?!
情けないけれど、私は狼狽えるばかりで何も手につきません。
ところが。
「気にしない、気にしない」
アマラおばさまは腰に手を当てて、のんびり笑っています。
「ひめさまはそのままで、充分おきれいですよぉ」
「でも……初めてご挨拶するのよ?キチンとしていないと失礼ではないかしら」
「できるだけ、でいいんじゃないですか?こぉんな非常時に見た目がどうこう無理言うような男は、こちらから愛想を尽かしてやりゃいいんですよぉ」
目から鱗が落ちました。
まあ!さすが!その通り……かもしれませんわ!まったく媚びないその姿勢が素敵です。私、感銘を受けました。
ウーリントヤといい、おばさまといい、《東の騎馬の民》の女性はなんて堂々としてカッコイイのでしょう!率先して見習いたいと思います!
というわけで。
私はチューランさんが持ってきてくださった普段使いのワンピースに袖を通し、髪も緩く編み込んだだけで部屋を出ました。ああ楽!いい気分だわ!昨日は一日じゅうドレスでしたから、きついコルセットのせいで何度も気が遠くなるし、いちいち裾を捌くのが大変でしたの。このワンピースなら、どこへでもすいすい歩けます。王太子妃になってもこの格好で過ごしちゃだめかしら?
そして私はこじんまりしたダイニングの分厚い木のテーブルに案内され、ブランチ代わりのミルクティーをいただきました。とても濃くて不思議な味ですわ。でも疲れが残る身体には効きそうです。やたら沸騰させすぎて、なかなか冷めないけれど。
私がいつまでも熱いミルクティーをふうふう吹きながら飲んでいると、まだあどけない女の子がはにかみながら近寄ってきました。
「はい。どぉぞ」
木の匙を差し出してくれます。
「ありがとう。えらいわ。とても気が利くわね」
手放しでほめてあげたら、女の子は嬉しそうにパッと破顔して駆け去りました。なんて愛らしいの!その背中を目で追えば、奥の厨房では村のおばさまたちがかしましく調理に励んでおられます。なんでも、腕によりをかけた大皿料理を振る舞ってくださるそうです。
みなさん、とても明るくて働き者ね。いえ、もしかしたら、私たちが突然押しかけて来たせいで歓迎の準備が大変なのかもしれません。だとしたら、これ以上手を煩わせるのは申し訳ないわ。
私はしばらく熱すぎるミルクティーと戦った後、誰のお邪魔にならないように、表へ散歩に行くことにしました。
この村は岩が剥き出しになった急斜面にへばりつくように広がっているため、通路はだいたい階段ばかりです。私が泊めていただいた村長の館はその最上段にありますから、一歩外へ出た途端、目の前に広がる雄大な眺めに圧倒されました。
「まあ……っ!」
春の陽を浴びる新緑の草原には風が吹く度に光の波が渡り、その向こうに茂る鬱蒼とした森は天を突く巨石群に負けぬ威容を誇っています。行きに立ち寄った砦はもう小さな箱にしか見えません。
世界はこんなに広くて大きいのね。
「……凄いわ……」
実に月並みな称賛が、ぽつりと零れました。
昨日は山を見上げてその美しさに感動しましたが、上から裾野を見晴らすと、さらに広々として爽快ですね。もう「素晴らしい」以外の感想が浮かびませんわ。私きっと、この景色をずっと忘れないと思います。
そんな素敵な眺望に、いつまでもうっとりしていたら。
「あ!ひめ!」
突然、シャルル王子の声が聞こえました。あら?どこにおられるのでしょう?
後ろには……いないわ。村へ下りる階段にもいない。私は目を皿にして村じゅうを見回し、斜め下方の小屋の前に、手を振っている王子を見つけました。今日の王子はラフなジレ姿で、どうやら子ヤギと戯れておられたようです。
うふふ、大きく手を振る王子も、跳ね回る子ヤギも、どちらも可愛いわ。
私は慎重に足を運んで石の階段を下り、王子の元へ参りました。その間に子ヤギは母ヤギの乳を飲みに帰ってしまったので、私たちはヤギ小屋のある段々畑の縁に座って、日向ぼっこすることにしました。
二人並んで腰を下ろして、落ち着いてしまえば——どうしても思い出すのは昨日のことになります。あれからどうなったのかしら、どうしてあんなことになったのかしらと思考は巡りますが、思いは千々に乱れるばかりで言葉が出てきません。
私も王子もしばし黙り込み、まだ冷たい風だけが吹き寄せては去ってゆきました。
ついに、シャルル王子が口を開きます。
「きのうは……こわかったですね」
ご自分も一緒に襲われたのに、私を気遣ってくれたようです。
「ええ……」
ごめんなさい。私の方が年上なのに気が利かなくて。
「ソフィーさんのこと、しんぱいでしょう」
そうなの。
私はつい涙ぐみそうになり、無言でこくりと頷きました。それから溜め息をひとつ吐いて気持ちを落ち着かせ、強がって答えました。
「そうね。でも、私には何の力もありませんもの。祈るしかありませんわ」
すると。王子はまじまじと私を見つめました。
「ひめ。あなたはほんとうに じぶんにはちからがない とおもいますか?」
「えっ?」
戸惑う私に対し、王子は強い眼差しで語ります。
「ぼくたちには『ちから』がありますよ。ひとをうごかすちからが」
それは幼くとも威厳を感じる言葉でした。
「たとえば、いま、ひめがソフィーさんをたすけにいけとめいじれば、だれかが いのちがけでたすけにいくでしょう。ひめはそういう『ちから』をおもちです」
「それはそうね」
私はもう一度首肯します。
「私には人を動かす力がある……でも、そんな無理な我儘は言えませんわ。相手が本当にノルトライン候の騎士なのか、どこへ行ったのかもわからないのに」
「たしかにいまは、そのめいれいは むぼうですが……ミーナローゼひめのことばには ぼくよりずっとつよい『ちから』があります。だから、なにもできないことはないとおもいます」
「耳が痛いわ」
私は忠告を素直に受け取ってうなだれました。
そりゃあ、私は成人すれば然るべき役目を果たるようにと教育を受け、心得も繰り返し授けられましたわ。でも、ほんの一昨日まで、私の世界はあの小さな館と四人の親代わりだけで完結していたのです。
ですから、いきなりこんな、しっちゃかめっちゃかな事態に巻き込まれ、生まれて初めて見聞きする人やものばかりに囲まれてしまっては、もはや何をどうすればいいのかさっぱりわかりません。
本来なら、身の振り方も周囲への指示も全部、私が自分で考えなければならないのに。
「情けないわね……」
深いため息と同時にそう呟けば、
「えらそうなことをいって すみません」
シャルル王子も私の隣でガックリうなだれました。
「じつは——なさけないのは、ぼくもおなじです。ぼくが うまにのるときグズグズしてしまったから、めのまえでヨハンがきられてしまったんです。なんとかふせいでいましたが、かたうでがダランとなって」
ああヨハン!
悲鳴を呑み込んで王子の横顔をうかがえば、彼は下唇をきつく噛んでいました。
「あのばにいたのが、あにうえなら。あんなやつらなんか、ぜったい おいかえしていました。あそこはハイランドのとちなのに、よそものに入られて、ハイランドのきしをきずつけられたのです。ぼくは おうぞくなのに やくたたずです……!」
王子も自分を責めておられるのね。その気持ち、よくわかりますわ。情けなくて、悔しくて、辛いわね。でも、どうしたらいいのかしら。
私は顎に手を添えて考え込み、すぐに、ここで私たちがいくら悩んでも仕方がないことに気が付きました。
私は眉尻を下げ、シャルル王子の顔をのぞき込みます。
「私たちは情けないもの同士、半人前同士ですね。……でも」
苦笑しながら続けます。
「でも、それは私たちがまるっきりダメだということではありませんわ。私たちはまだこれからです。失敗を糧にして学べばいいの。たくさん学んでいろんな経験を積んで、お互い早く一人前になりましょうね。
だから、まずはヴィクトル殿下にご相談して、早くハイランドのお城へ向かいましょう。うじうじ後悔するのはその後でも遅くありませんわ」
そうよね?昨日を悔いているだけでは前へ進めませんもの。今は「今」をなんとかしなくては……やっぱり私、我ながら図太い性格をしているようですわ。
開き直って笑う私を、シャルル王子はつぶらな瞳をさらに丸くして見つめました。
たっぷり五秒は見つめた後、王子はなぜか頬を染めます。
「……あにうえが うらやましいなあ」
それから王子は口を尖らせてそっぽを向き、再び顔を上げて遠くを見透かして、
「あっ!うわさをすれば」
砦からこちらへ、土煙をあげて駆けて来る一団を目敏く発見しました。
「ひめ。あれはきっと あにうえですよ!」
王子が指す先を、私も目を凝らして見定めます。
軍馬でしょうか。きちんと隊列を組んだ一団が勇ましい速さで駆けてきますわ。……まあ、白馬が一頭いる。
ドキンと胸が鳴りました。到着は夕刻だと聞いていたのに、もうおいでになったの?ど、どうしましょう。緊張のあまり息が詰まります。
急にそわそわしだした私に、
「ぼくがでむかえます。ひめは したくしてきてください」
今度はシャルル王子が訳知り笑顔を向けてくれました。
もう!こういうところが子供らしくないというか……本当に将来有望ですわね、シャルル王子。私の方こそ、王子の未来のお妃さまがうらやましいわ。
私はお言葉に甘えて、もう少しおめかしすることにしました。もちろんもう少し、ほんの少しだけですからね!
忘れられた姫君と最強の守護者 饒筆 @johuitsu
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