<SIDE STORY①> ひと月前 そして
ようやく温んだ陽ざしに、ひと冬吠え続けた北の海もまどろんでいる。
ノルトライン候オスカーは冷たい蒼の目を細め、残雪が光る丘を見上げた。
ここは天然の良港メルクシア。こんな麗らかな日には、あの初恋の乙女がかつてのように海を眺めている気がする。
——クラーラよ……やっとここまで来たぞ。
不遇だった少年時代にオスカーが見初めた野辺の薔薇は、やがて兄に奪われ、さらに皇帝に攫われ、ひとり娘を残して呆気なくこの世を去ってしまった。彼女はその名の通り光り輝くように美しかったがそれを鼻にかけることはなく、他の乙女たちと同様よく働きよく笑う、気立ての良い子だった。彼女の人生は幸せであったのだろうか?
否。そんな訳がない。
オスカーは奥歯をぎりりと噛みしめる。
クラーラの死を知り、復讐を誓ったあの日から十五年。まず兄を殺して家督を奪い、領地を富ませ兵を鍛え、ひたすら皇帝の首を狩る刃を研いできた。長かった。身を焼く憤怒に悶え苦しむ夜もあった。
だが。それもここまでだ。
オスカーは近づく気配に振り返る。
「ここにおいでだったか、《銀の疾風》殿」
燃えるような赤毛の偉丈夫がのしのしと歩み寄る。鷹揚なその笑顔に、オスカーもまた軽口で応じた。
「これは《赤い雷神》殿。《黒狼》殿を見送りに参ったのですが——貴殿も?」
「ああ。それにしても俺が雷神とは、蛮族どもも大袈裟な通り名をつけたものだ」
「貴殿の勇猛さを目の当たりにすれば、神の如しと恐れをなすのも無理はありませんよ」
「そうか?俺はおぬしの悪魔も出し抜く知恵の方がよほど怖いぞ」
絶対に敵に回したくないな。
そう言って呵々大笑する《赤い雷神》は、ノルトライン領の西隣りを治めるポーゼン候ルドヴィグだ。
オスカーとルドヴィグそして《黒狼》リエージュ候ロドルフの北部三領主は一昨年、連合軍を編成して北海沿岸を荒らしまわる蛮族どもの
噂をすれば、桟橋から陽に焼けた黒髪の色男が急ぎ足でやって来た。
「おお、お二方!よくぞおいでくださった!わざわざ見送りとはかたじけない」
リエージュ領は帝国の北東角に位置し、北海と西の大海に己が領土より何倍も広い航路を有している。さらに現領主ロドルフは自ら船に乗りたがる変わり者で、家督を継ぐ前は軍船や商船に紛れ込んで様々な国を旅したらしい。その冒険譚の面白さといったら、何夜聞いても飽きないほどだ。
ロドルフはオスカーとルドヴィグそれぞれに親しみを込めて抱擁の挨拶を交わし、人好きのする顔でニヤリと笑んだ。
「昨日、帝都の弟から報告が入った。あちらの首尾は上々だ」
「入れ替わりはばれていないのか?」
「ああ。アイツと俺は背格好も顔も、声までそっくりだ。妻でなければわからないだろうよ」
こちらの戦力を過小評価させるため、リエージュ候ロドルフ(に扮した彼の弟)は盟友を裏切ったふりをして「北部二領主が反乱を起こす」と皇帝に密告した。近年戦乱なぞ無かった帝都は大騒ぎになったが、帝都から遠い北部のたかだか二領主の反乱だ。雪山を越えて南下しては来ないだろうと高を括った皇帝はのんびり討伐軍の編成を命じ、肥え太った帝都の貴族どもは将軍の人選から御用商人の選定までいちいち政治的駆け引きの材料にして足を引っ張り合っているらしい。
「呑気な連中だ」
ルドヴィグが呆れる。
「だが、だからこそ容易く狩れる」
ロドルフは笑みを崩さない。そして好戦的に目を光らせた。
「ご両人、ひと月だ。我がリエージュ海軍が西の海をぐるりと巡り、大河を遡上して帝都になだれ込むまで、ひと月あれば十分だ。出遅れたら、美味いところは全部うちがいただくぞ」
「はっはっは。そうはいくか」
ルドヴィグとオスカーも雄々しい笑顔で受けて立つ。
「ひ弱な帝国軍など蹴散らし、こちらが先に帝都を蹂躙してやるわ」
「初戦で勝てば、日和見の諸侯はこちらに味方しますよ。骨のある相手などおりますまい」
従僕が三つの酒杯に葡萄酒を満たす。
三人の領主はそれぞれの杯を高く掲げ、戦神と海神、そして亡き乙女に祈りを捧げた。
「我らが勝利に!」
「無能な皇帝に鉄槌を!」
「声なき怒りを知るがいい!!」
『乾杯!!!』
三つの酒杯が打ち合わされ、澄んだ音が鳴る。
こうして、北部連合軍は帝国皇帝に対し高々と反旗を掲げ、進軍を開始した。
十日後、散発的な戦闘ののち、帝国中部地域の領主たちは揃って北部領主たちへの恭順を誓う。
二十日後、破竹の勢いで南下した北部連合軍は中央平原で帝国軍本隊を破る。
そしてひと月後。
帝都の皇帝及び全ての人臣は、突如、ワアル河岸から上陸したリエージュ軍に急襲された。混乱の最中、ついに帝都へ到着した北部連合軍が、内側から開け放たれた城門からなだれ込んで帝都を蹂躙。失火か放火か判別のつかぬ火災が処々で発生。皇帝一族及び高位貴族の面々は一人残らず死か捕縛の憂き目に遭う。
帝都、陥落。
……それは奇しくも、クラーラの忘れ形見であるミーナローゼ姫が成人を迎える前夜のことであった。
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