第5話 ライモンドの正体
既に開け放たれていた扉から庭へ出た辺りで、ヨハンは私と王子を下ろしました。息が上がっていますが、さっそく馬から降りた軽騎兵?を呼んで手早く説明します。
「こちらは王太子妃殿下、そしてこちらがシャルル王子だ。《長(おさ)の村》に匿ってくれ」
「わかった」
相手はひとつに束ねた長い黒髪を揺らし、大きく頷きます。
まあ!私より少し年上の女性ですわ!
びっくりしました……しかも、どうやら正式な兵士ではありません。革でできた胸当てを付け、小ぶりな弓と矢筒、三日月の形をした珍しい刀を佩いているとはいえ、この格好は農民じゃありませんか!
「ヨハン!ねえヨハン、この方は?」
不安に駆られた私が縋りつくと、ヨハンは私の肩をがっしりと掴み、目の奥を覗き込みました。
「姫様。この者たちは味方です。信頼できます。多少寄り道をしても、必ずハイランドの王城へ連れて行ってくれますから……どうか彼女たちと逃げてください」
それから、狼藉者たちが迫るこの切迫した状況で、ヨハンはにこりと笑ってみせました。
「俺も、後から行きます」
そう言うなり、ヨハンは私を抱き上げ、サッと騎乗した女性騎兵の後ろに乗せました。
「ヨハン!本当ですね?本当に後から来てくれますね?」
振り返ろうとする私を、手綱を掴む女性が強引に引き止めます。
「妃殿下、危ない!早くあたしにつかまって!」
きゃあ!馬がいななき、ぐるりと巡って駆け出しました。私は慌てて彼女の腰に両腕を回します。
高い!速い!それにものすごく揺れます!目が回りそう。
丹精込めて手入れされた芝生の広場から裏の林へ、悍馬は飛ぶような速さで駆けてゆきます。
ヒューィ。ヒューィ!
前方からさらに、彼女と似たような格好の騎兵たちがどんどん館に向かって駆け過ぎてゆきました。北風の音だと思ったのは彼らの指笛だったようです。
ヒュルリッ!!
同乗する女性が別の指笛を吹きました。そのまま、速度を落とすことなく、木立の間へ突っ込みます。
いやああ、ぶつかる!!
私はぎゅっと目を瞑りました。が、衝撃は来ませんでした。
馬を操る女性は見事な手綱さばきで木立の間を風のように駆け抜けます。いつの間にか、数頭の騎馬が私たちの馬に並走していました。
館はなだらかな丘の上にあり、その裏庭は適度に間伐された明るい林に続いています。
私はこれまでその林の入り口までしか知りませんでしたが、下り斜面になっている林を一気に駆け下りると、眼前に広い耕地が広がりました。天に向かって聳えるアルブレヒト山脈へ続く、緩やかで豊かな丘陵地です。
そう、私は産まれて初めて、館の敷地から外へ出たのです!
……が、振り落とされないことに必死で、景色を楽しんだり特別な感慨を抱いたりする余裕などありません。訳が分からず怖いのとあまりにも揺れが酷いことが重なって、これ以上は記憶にすら残りませんでした。
……さて。どのくらい経ったでしょう。
辛うじて覚えている限りでは丘を三つほど超えて、深い森が近づいてきた辺りで方向を変えたはず……そして今、どこからか絶え間ない水音が聞こえています。馬は並足になっていますので、ようやく辺りの景色を眺めることができますわ。……ああ、あれが川ですか。初めて見ました。こんなに大量の水が、本当にずっと流れ続けているのですね。
へとへとになりながらも感動していたら、女性騎手が振り返り、
「休憩します?」
と声をかけてくれました。きっと私の様子を慮ってくださったのでしょう。
「お願いします」
私は二つ返事で頷きました。
私たちの馬に並走してくれた三騎、そして同じ編隊でシャルル王子を護送してきた四騎が集まって河原に下ります。
なるべく平らな場所にどなたかが敷布を広げてくれたので、私はありがたくその上へへたり込みました。ぐったりです。もう腕すら上がりません。
なのに、同乗の女性は
「大丈夫?水、汲んできますね」
と申し出てくれ、颯爽と川面へ向かって行きました。凄いわ。……同性ながらかっこいい。
半ば呆然と彼女を見送っていたら、優しい声がかかりました。
「ミーナローゼひめ。ごぶじですか」
シャルル王子です。私と同様ひどく憔悴していますが、それでも気丈にふるまい、小ぶりな籠を差し出しました。
「……これを。かれがメイドからあずかったそうです」
王子の後ろで、あの女性と同じ矢筒と変わった刀を佩いた青年農夫がぺこりと頭を下げます。
「まあ……ありがとうございます」
私が丁寧にお礼を言うと、彼は「あっ」とか「えっ」とか呟きつつ、真っ赤になってそそくさと馬の世話をしに行ってしまいました。……もしかして避けられました?なんだかショックだわ。
王子から籠を受け取り、膝の上に置いて開けてみます。
中には良い匂いのするパンと真っ白なチーズ、そして飲み物の入った革袋が在りました。ランチを食べ損ねてしまったから、わざわざ用意してくれたのかしら。
突然あんなことがあったのに、なんて機転の利いたメイドでしょう。
私は小柄な王子を見上げました。
「シャルル王子。良かったらご一緒しませんか」
私の提案に、王子は嬉しそうに頷いて私の隣へ腰を下ろしました。男の子はたくさん食べて大きくならないといけませんものね。
「はい。どうぞ」
まずはパンをひとつ王子へ差しあげて、次に私の分を取り出して——その下に蓋つきの器があることに気づきました。パテかしら?
そっと蓋を開けて、私は絶句します。
ジャムです。私が大好きなベリーのジャム。昨日ミラが忙しい中わざわざ煮てくれたジャムに違いありませんわ。
煮ておけば嫁ぎ先に持って行ける——その約束をちゃんと果たしてくれたのです。
目頭が熱くなり、涙が溢れました。
ああミラ!私だけが逃げてしまったから、酷い目に遭っているのではないかしら。ソフィーやライモンドやヨハンはみんな無事かしら。私をここまで大事に育ててくれたお父様お母様たちなのに、私はお別れも言わずに置いてきてしまいました。
頬を伝い始めた涙はもう止まりません。私は両手で顔を覆います。
「ひめ」
シャルル王子が小さな手をそっと腕に添えてくれました。
「どうしました?」
水を汲み行ってくれた女性の声がしました。私は縋りつく思いで尋ねます。
「館のみんなは無事なの?」
私と一緒にここにいるのですから、彼女にはそんなこと知りようがありません——それはわかっていても尋ねずにはいられません。
しかし彼女は私の目をしっかり見、力強く答えてくれました。
「たぶん、無事。あたしたちを信じて」
水を張った木の器を差し出しながら、彼女は続けます。
「あたしたちは強い。相手が誰でも怯まない——その昔、大陸じゅうを支配した《東の騎馬の民》を知っています?」
聞いたことがあります。歴史はソフィーが教えてくれましたわ。私が首を縦に振れば、彼女は満足げに微笑みました。
「あたしたちはその末裔。本隊は東へ帰ってしまったけれど、ここに残ったひともいたんだ。でも昔のことがあるから、あたしたちはどこに住んでも嫌がられた。先代のハイランド王だけが山に住んでもいいと許してくれたのさ」
彼女は私に器を押し付け、私がそれを受け取るとさらにニコッと笑います。
「そしてライモンド様が平らな土地をくれた。平らな土地に畑を作って、やっと麦を育てることができた。ライモンド様は良い領主だ。だからあたしたちは命に代えてもライモンド様と、ライモンド様の大事な姫君を守る。信じて」
彼女がライモンドを語るとき、その瞳は敬愛の輝きに満ちていました。
……嬉しいわ。私の育てのお父様はこんなに慕われているのですね。
それにしても。
「ライモンドは領主だったのね……」
衝撃だわ。そんな基本的なことを今、初めて知るなんて。
二重三重のショックに私が打ちひしがれていると、シャルル王子が口を添えてくれました。
「ライモンド・フォン・ワーレンきょうは 聖ハイランド王国のはくしゃくです」
「やっぱり貴族なのね——あら?帝国ではなく?」
「はい」
なんですって!驚きのあまり涙が渇きました。
聖ハイランド王国の伯爵が帝国皇帝の息女を育ててくれたのですか?あのクズ父、娘を田舎送りにするだけでは物足りず、実は国外追放までしていたのですか?
かるく眩暈がします。
「あの、くわしいことはぼくにはわからないので、またあとでちちうえか、あにうえに きいてください」
「ええ。そういたしますわ」
私は眉間を押さえ、視界が回りそうなのを堪えました。
育ての父は頼もしく人望もあるのに、実の父の評価は下がる一方です。
「……なにか食べた方がいいですよ」
勇ましい騎兵の女性が心配顔で私を覗き込みました。
「ここから山道に入るし、《長の村》までまだしばらくありますから」
「……そうですか」
私はしょんぼり肩を落とし、手の内にあるパンを見つめました。食欲なんてありませんが、途中で倒れてご迷惑をかけてはいけません。
無理やり一口齧れば、これまでの平穏な「いつも」の味がして——また、ほろりと涙が零れました。
私が、美味しいのに味気ないパンと次々に襲い掛かる事実の衝撃をようよう呑み込んだ頃、シャルル王子が実に言いにくそうに切り出しました。
「ひめぎみ。あの……そのおてがみは?」
王子の指は私の胸元を指しています。
え?お手紙?
つられて胸元を見下ろせば、確かに、封蝋つきの立派なお手紙が胸の袷に深く挟まっていました。今の今までまったく気づきませんでしたわ。いやだ、恥ずかしい!!
私は顔を真っ赤にして抜き取ります。
ところが、手紙の表を見て——上がった血の気が急激に冷えました。(すんっ)
「これ……ノルトライン侯爵からですわ」
確か、あの無礼千万な髭面からヨハンが預かった手紙でしたわね。逃走のどさくさに紛れて失くさないように服の中へ挿し込んでくれたのでしょうが……ヨハン!もっと他に渡し方があったでしょう?!
それに。
あの蛮族並みに野蛮な騎士たちを差し向ける御方の手紙なんて、読みたくありませんわ。
こみ上げる怒りに任せ、私は手紙を草むらへ投げつけようとしました。が、すんでのところでシャルル王子がそんな私の腕を掴みました。
「いけません」
王子はつぶらな瞳で真摯に説き伏せます。
「ちちうえがよくおっしゃるのです——『しんじつ』をしるためには、だれのどんなはなしも こばんではならない、と」
幼いのに沈着な王子に見つめられ、私は反論のために開けた口を閉ざしました。
「ぼくには、むずかしいことはわかりません。でもきっと、そのこうしゃくがなぜあんなことをしたのか、そのりゆうがわからないと これからどうすればいいのかわかりません。だから、そのてがみはちゃんとよむべきだとおもいます」
まあ……なるほど、そうですわね。いきなり騎士たちが押しかけて来て、攫われそうになって、訳も分からず逃げてきたのですから、まずは状況を整理しないといけないわ。
冷静になって考えれば、また自分が恥ずかしくなりました。
「わかりました」
それで私は渋々、侯爵からの手紙を開きます。
すると、そこには——驚くほど流麗な文字が切々と綴られていました。
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