第2話 始まりの日
はてさて、朝です。今日も小鳥が鳴いています。運命の誕生日が来てしまいました。
泣いても笑っても、私は今日から新しい生活を始めなければなりません。
こうなればヤケクソですわ。ヨハンの口癖「どんと来い」な気分です。
今朝はいつもよりずいぶん早く起こされてサッと湯あみを済ませ、姫君らしく支度をしています。……ええ、私は「姫様」と呼ばれていますが、これまでそれらしいドレスを着たことも、化粧をしたこともありませんでした。お姉様たち、こんな仕度を毎日なさっているなんて大変ですね。
それにしても。
私はソフィーが手にした衣を見て目を丸くしました。
「そんなドレス、どこにありましたの?」
艶やかな繻子織りのドレスは春の小川に似た明るい水色で、繊細なレースがふんだんにあしらわれています。
ソフィーは少し潤んだ目を細めました。
「姫様。このドレスは母君の形見ですわ」
「まあ。お母様の……」
続いてソフィーは広げたドレスと私を見比べて真顔になり、私のコルセットを一層ぎゅうぎゅう締めました。
ぐっ……!お、お母様って、とっても細かったのね……ッ!
うらやましいわ。私は特にお胸のあたりが予定より大きく育ってしまいましたもの。肩が凝って仕方がありません。
ドレスをなんとか着付けたら、今度は伸ばした髪を纏めます。ソフィー曰く、私の髪はお母様にそっくりなのですって。
お母様を慕うあまり、煌びやかな宮殿を去り、私と一緒にこの館へ来てくれたソフィーは本日とても感慨深げな様子です。
「よろしいですか姫様。いくらご馳走が並ぶからと言って、全部召し上がってはいけませんよ」
「そんな!もったいない。頑張ったヨハンがかわいそうだわ」
「それがいけないのですッ」
ソフィーの目尻が吊り上がりました。ミラより怖い!背筋がピンと伸びてしまいます。
「皇帝陛下のご息女としての自覚をお持ちください」
「……あんな最低クズ親父の娘だなんて思いたくありません」
ソフィーの目が光りました。
「姫様?!お口が悪うございますよッ」
「はいッ!ごめんなさい!」
私は震えあがり、唇を強く結びます。ソフィーは私の行儀作法の先生です。なので、絶対服従の掟が骨身に染みているのです。
「小国とはいえ、王家に嫁がれるのですから。気品と誇りを忘れてはなりません」
「気品と、誇り……」
そんなもの、この館に在ったかしら?
私は瞬きを繰り返しましたが、反論はやめました。既に陽がずいぶん高くなっていたからです。私を迎えにいらっしゃって、当館最後のランチをご一緒する予定の王子様がいつ到着なさってもおかしくありません。
ああ……そうね。王子様、ね……。
私はどんよりした気分で窓の向こうの青い空と白い山を眺めます。
どんな御方かわかりませんが——ソフィーより賢くて、ミラより私を愛してくれて、ライモンドより頼もしくて、ヨハンより美味しいものを食べさせてくれるひとなんて、絶対にいませんわ。
ソフィーを伴って階下に降りれば、他の三人も正装して私を待っていてくれました。
「おお。なんとお美しい」
「さすがです姫様。うっとりします」
ライモンドとミラが手放しで褒めてくれます。
でも。
「あら?」
それぞれの装いに、私は目を丸くしました。
「ヨハンったら、まるで騎士みたいよ」
正餐からおやつのパイまで何でも美味しく作ってくれるヨハンが、今日は肩当てのついた立派な軍服を身に着け、剣を提げ、厳めしいブーツまで履いています。大柄なヨハンにはエプロンよりこちらの方がしっくりくるかもしれません。
「あ……ええと、む、昔それらしいことをしておりまして……」
口下手なヨハンは斜め上を見ながら答えてくれました。ねえ、どうして目を逸らすの?
クスクス。堪えきれずに笑いだすライモンドへ顔を向ければ、彼はいつものお仕着せの執事服ではなく、金糸の刺繡が華やかなウエストコートを纏っています。堂々としていて、とても立派ですわ。
「ライモンドは貴族みたいね」
「ええ。私も『それらしいこと』をしておりまして」
ライモンドは私の目を見て淀みなく答えましたが、この笑みは絶対、私をからかっているに違いありません。なぜ?
隣のソフィーは宮殿に仕えていた頃の侍女の正装だし、ミラは……ああ良かった、ミラはいつもよりちょっと小ぎれいなだけのただのミラでした。ほっ。(ミラに失礼ですよ姫君)
「皆さま、談話室にお茶をご用意しましたよ」
いつものミラがいつもより丁重に私たちを案内します。
困惑したまま、廊下を進めば——玄関ホールや食堂では、見たこともないたくさんの使用人たちがきびきび働いていました。
「え……ええっ?!」
私は開いた口が塞がりません。
昨日まで、この館には私と4人しかいませんでしたよね?!
ライモンドがすかさず耳打ちします。
「今日は姫様の大切な節目の日ですから」
ああなるほど、今日だけ特別にお願いしたのですね?
よくわかったような、全然わからないような気分で、談話室に入りました。
温かいお茶をいただきますが、味なんてわかりません。まるで夢を見ているのか、魔法にかかったみたい。
いいえ。これは緊張しているのだわ。
私は改めて、自分がぎゅっと手を握り締めていることに気づきました。
誰もが私の成人を祝ってくれるのに、夫となる御方と初めてお会いするのに、とにかくおめでたい日なのに——俯けば泣いてしまいそうです。まったく嬉しくありません。
見知らぬひとたちがたくさんいるし、茶卓の向こうに座っているライモンドとヨハンも着ているものが違うだけでなんだか別人みたいだし……悪夢なら、どうか今すぐ醒めて!
そのとき。
「大丈夫ですよ、姫様」
私の白い拳に、柔らかく温かい手が重なりました。とっさに顔をあげれば、ミラが今にも泣きだしそうな笑顔を向けています。
「ミラ」
「大丈夫ですとも」
働き者のミラの手にしっかりと包まれたら、強張っていた頬がすこし緩みました。
転んで怪我をしたときや風邪をひいたとき、嵐が怖くて眠れない夜も、これまで何度ミラの「大丈夫」に救われたことでしょう。
「ええ、ご心配は要りません」
続いて、しゃっきりした声で慰めてくれたのはソフィー。
「姫様は私どもの自慢の姫君です。どうぞ自信をもってくださいませ」
「ソフィー……」
何かと厳しいソフィーが微笑んでいますわ……明日は槍が降るんじゃないかしら。じゃなかった、私を褒めてくれているのね?ありがとう。嬉しいわ。
「そうですよ」
ライモンドも半身を乗り出して、ゆったりと笑います。
「ご安心ください。怖ろしいことや不都合など起こりはしません」
ああ良かった。ライモンドが笑っているときは万事うまくいくのです。間違いありませんわ。
「これまでは言わば序章です。我々は今日これでやっと、大手を振って姫様にお仕えできるのです」
……どういうことですの?
私の頭上に大きな疑問符が浮かぶ間に、見知らぬ家令がとうとう王子様の到着を告げました。
竦む足と高いヒールをなんとか持ち上げ、一歩、また一歩と玄関へ向かいます。
……判決を受ける罪びとって、こんな気分なのかしら……。
行く先から聞こえるざわめきが、とにかく怖いわ。
私がぎゅっと目を瞑れば、ソフィーとミラが左右から肘を支えてくれます。
これから一生をともに過ごす御方ですから、せめて嫌われないようにしないといけません……よね?
しおらしく俯いたまま、角を曲がりホールへ出ました。
そこに居並ぶ方々が、おお、と口々にどよめくのを聞けば、もう部屋に帰りたくなります。私はそれを我慢して深々とお辞儀しました。
「はじめまして、ヴィクトル殿下。私はシュバルツレーヴェ帝国皇帝息女ミーナローゼと申します。本日は当館までご足労いただき、ありがとうございます」
正面左右に居並ぶ軍靴は、聖ハイランド王国の騎士の皆さんね?ということは正面の白い靴を履いている御方が王子のはずですが……あら?おみ足がやけに小さいわ。
「あ、あの……」
声まで高い!これでは、まるで——。
嫌な予感に急かされて面をあげれば。
私の正面に立つ王子様は、まだあどけない顔立ちの男の子でした。
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