⑥
そして十一月も終わろうとしている今日、俺達に矢を立てられたそれが、ついに克実の家にやってきた。
「う、うわぁ、うわぁっ! ね、猫、猫ちゃんっ!」
克実が言った通り、三毛猫は、リビングのソファーに座る克実の母親に喉を撫でられ、気持ちよさそうに鳴いている。克実も、猫を撫でたいのだろう。猫に近寄ろうと一歩足を踏み出して、また一歩下がるというのを繰り返していた。どうすればいいのか、わからないのだ。猫への接し方も、母親への近づき方も。
「この度はお忙しいところ、お引き受けくださってありがとうございます」
そう言って頭を下げたスーツ姿の女性は、この三毛猫の飼い主だ。
「マロンちゃん、私が居ない二週間、横超さん家に迷惑掛けちゃダメよ?」
飼い主の言葉がわかっているのか、マロンと呼ばれた三毛猫は、小さく鳴いた。この猫は、俺達が最初の課題で捕まえた、あの三毛猫だ。マロンの飼い主に向かって、克実の母は猫を撫でながら微かに笑う。
「……いいえ、お気になさらずに。私も主人も、猫、好きですから」
「そうなんですね! だからかな? マロンちゃんが私以外でこんなに人に懐いてるの、初めて見ました」
「昔、私の実家でも猫を飼っていたものですから。主人も同じで」
「それじゃあ、ひょっとして、猫好きがきっかけで、ご結婚を?」
そう聞かれ、克実の母親がはにかみながら、頷く。
「うわぁ! いいですね、そういうの! あっ! そうだった、君たちにもお礼を言っておかないとね。本当に、ありがとう! マロンちゃんを捕まえてくれただけじゃなく、私が出張中に面倒も見てくれてっ!」
そう言って彼女は、俺達の方にも頭を下げる。でも頭を下げたいのは、どちらかと言うと俺の方だ。マロンの飼い主が出張中、猫の面倒を見てくれる人を探していたのを、俺もアイリスも、瑠利子も金指先生から聞いて知っていた。だから克実の家に来たあの日、金指先生に連絡して、その役を克実の家に出来ないか確認したのだ。もちろん最終的には、克実の両親とも相談している。
今日はその猫、マロンの引き渡しに、関係者として、俺、アイリス、瑠利子も、克実の家にやってきていた。
金指先生に言ったように、俺は克実を変えようとも思っていないし、変えれるとも思い上がっていない。いや、自分の言葉で瑠利子を縛ってしまたという経験から、彼女を変えたいとも思っていない。
それでも、克実は自分の両親と仲良くしたいと思っているし、俺の見る限り、少なくとも、母親の方は、克実の事を大切に思っているように見えた。。
でも、相手が人間だから、吸血鬼だから、そのやり方がわからない、あるいは忘れてしまっているのだ。人間対吸血鬼だからと、考えすぎているのかも知れない。それならば、その間に互いの理解できる共通点、猫を入れてやれば、互いを理解しやすくなるのでは? というのが、俺達の考えだ。
最初の課題で、克実がマロンに興味を示していたのは知っていたし、克実の両親も、昔猫を飼っており、その時使っていたものも残っていた。両者が猫を嫌いでないのなら、マロンを預かるのを断られないと思い、相談し、その結果が俺達の眼前にある。
マロンの飼い主がそろそろ出発するというので、皆でそれを見送った。玄関で扉が閉まるのを見届けていた克実が、突然、ぽつりと、こうつぶやく。
「お、お父さんと、お、お母さん、ね、猫が、好き、だから、け、結婚、した、の?」
克実にそう言われ、母親が両目を見開き、驚いた。その後、少しだけ柔らかい表情を浮かべ、口を開く。
「ええ、そうよ」
「し、知らな、かった……」
「あの人、案外慌てん坊でねぇ。克実が生まれた日も、そうだったわ」
「わ、私っ!」
突然自分の話になり、克実が驚く。更に表情を柔らかくした母親が、懐かしそうにしながら言葉を紡いでいく。
「お産が、予定日よりも早まってね。陣痛が突然来たものですから、私はすぐに分娩室に運ばれて。あの人、あわあわと大騒ぎだったのよ」
「ご、ごめんな、さい……」
「……もう、どうしてあなたが謝るの」
克実の母親はそう言うと、マロンを自分の娘に差し出した。
「克実、この子、抱いてみる?」
「えっ!」
克実の体が、飛び跳ねる。手を伸ばそうとするが、その手が迷子の様に宙を泳ぐ。俺なら、今の克実の気持ちがわかる。怖いのだ。俺も、吸血鬼から猫を手渡される状況になったら、かなり躊躇する。自分だけでは、中々一歩が踏み出せないのだ。
しかし、克実は今、一人ではない。
「大丈夫ですわ、克実さん」
「そーだよ、かつみ! 一緒にもふもふしよーぉ!」
アイリスと瑠利子の声に背を押され、克実は戦慄きながらも、一歩を踏み出した。
「ど、どうす、れば、い、いい、の?」
「まず、この子の脇にお腹側から手を入れるの。その後、しっぽをお腹側に巻き込むようにして、お尻を支えてあげて」
「む、むずか、しい……」
「げ、ゲームみたいなもんだと思え」
今にも泣き出しそうな克実に、俺はそう言った。彼女は涙声で、こちらに振り向く。
「げ、ゲームぅ?」
「そうですわ、克実さん。マロンを上手く抱けたら、一ポイントです」
「十ポイントで、塩レモン味のキャラメル、プレゼントだよーぉ!」
「わ、わかり、ました」
唇を結び、意を決したかのように、しかし恐る恐ると、克実は両手を三毛猫へと伸ばしていく。腰が引けているものの、彼女の手は、ゆっくりと、しかし確実に伸びていった。そして、ついに――
「う、うわぁ、うわぁ! うわぁっ!」
猫を抱きかかえた克実が、翡翠色の瞳を輝かせながら、感動の声を上げる。あまり人に懐かないマロンが大人しくしているのは、きっと克実の母親が、マロンを撫でているおかげだろう。
「も、もふ、もふもふ、して、る。あ、温かい。お、お母さん、ね、猫ちゃん、あ、温かい、よぉ」
「うふふっ。そうね。私も、初めてあなたを抱いた時は、それぐらい、いいえ、もっと感動したわ」
克実の母親に撫でられ、克実の腕の中で、マロンが嬉しそうに鳴いた。
「ああ、なんて温かいんだろう、って。こんな小さいのに、ちゃんと命の鼓動はあって、私の指を握り返してくれたりして。ああ、この子を生んでよかった、って、生まれてきてくれて、ありがとう、って思ったわ」
「お、お母、さ、あっ!」
娘に感謝を伝える母親に克実が何か言おうとしたその時、マロンが突然暴れ、克実の頭によじ登る。そして飛び跳ね、床に降り立つと、家の中へと走り去っていった。
「やっぱり、猫は気まぐれね」
「う、うん」
苦笑いを浮かべる母親に、克実は頬を少し染めて、頷く。その様子を見て、俺は口を開いた。
「では僕は、先生に無事、猫を引き取ったと報告する必要があるので、一足先に御暇させて頂きます」
「あら、まだお茶もお出ししてませんのに」
克実の母親の申し出を、俺は丁重にお断りする。
「いいえ、お構いなく。ふ、二人は――」
「あーし、マロンちゃんもふってから帰るーぅ!」
「わたくしも、もう少しお邪魔させていただこうと思いますわ」
「り、了解。では、僕だけ失礼させて頂きます」
克実の母親に見送られ、俺は克実のマンションを後にする。
猫の気まぐれで、克実が言おうとした言葉は、結局発せられる事なく終わった。克実の中に積み重なった恐怖心が、たった一匹の猫の登場で、一瞬にして解決するわけがない。でも、その糸口らしきものを垣間見ることは、出来た気がする。恐らくだが、あの時彼女がなんて言おうとしていたのかは、そう遠くない未来に、克実の母親が知る日が来るだろう。母親との会話しか見ていないが、この調子であれば、父親の方ともなんとかなるはず。だからもう俺があの家にいる必要はないと、先に出てきたのだ。後は時間の問題で、それが遅いか早いかだけだろう。
それに、他人との接し方がわからず、人間を怖がっているくせに、誰かとのつながりを求めている吸血鬼には、何かを成したいと願う吸血鬼と、自分達の居場所を大切に思える吸血鬼がついている。彼女が恐れる俺(人間)は、なおさら出番がない。
俺は歩きながらスマホを取り出して、電話を掛ける。宛先は、金指先生だ。番号を押してから、数コール後、先生につながった。
『上手くいったな?』
そう言われても、俺は溜息しか出てこない。
「上手いがどういう状態なのかわかりませんが、まぁ、悪くはないと思います」
『なら、上手くいってるってことだろう』
「……全部、先生の思い通りって所ですか?」
『何の事だ?』
「俺達の行動、全部先生に誘導されてる気がしてるんですよね」
『馬鹿を言うな。そんな神みたいな真似、ワシが出来るわけねぇだろ』
「でも、今回の一件、先生には勝算があったんじゃないんですか? だから先生は、俺に白羽の矢を立てた」
克実の一件で、先生は俺達が課題を解決するために、色々と手を回している事がわかった。だとすると、やはりおかしい事がある。
「それだけじゃない。これだけ裏で手を回せるのに、どうして先生は落ちこぼれの俺達を、二学期まで放置していたんですか? 先生なら、一学期に何かしら手を打つ事だって、出来たんじゃないんですか? でも、そうしなかった。先生は俺にあいつらをなんとかさせようと、時期をうかがってたんじゃないんですか?」
『自惚れんなよ、川越』
俺の疑問を、金指先生はたった一言で一蹴する。
『もう一度いう。自惚れんな。お前は物語の主人公でも何でもない。ただ少し小賢しいだけの人間で、ただの高校一年生。それがお前だ、川越冬馬』
決して大声で言われているわけでもない。叱責されているわけでもない。むしろ先生は、俺を静かに諭そうとしている。でも俺は、その言葉が鼓膜を打った瞬間、脳に突き刺さった瞬間、言葉の意味を理解した瞬間、歩みを止めていた。
『川越。お前が上手くいっていると思っているものはな、たまたまそうなっただけだ。無論、上手くいくために、色々考えるのは重要なことだが、それが全て、必ず成功する保証はどこにもない。それこそ、神にしかそんな事は出来ねぇ。そして、ワシもお前も、神ではない。わかりやすく、お前が神ではない証拠を聞かせてやろう』
そう言って、金指先生は電話越しに笑う。
『お前、猫を引き取ったのは、横超が課外奉仕に出られんかった場合の保険としても考えとったろ? 横超が幼稚園に行けなかったとしても、既に三人で取り組むはずだった課題を横超がクリアしている、という事にして、横超の退学を阻止しようとしたわけだ。そして課外奉仕の方は、お前ら三人でどうにかする、と、そういう考えだったんだろ? でも、それはダメだ。元々、四人で課外奉仕に出る、という取り決めだったからな』
「……やっぱり、全部お見通しじゃないですか」
先生は自分の事を神ではないと言うが、俺からしたら、もう見分けがつかない。自分に理解できない埒外の存在は、それはもう、神か悪魔と呼ぶしかないのではないだろうか?
暗い思考に沈む俺をよそに、金指先生がこんな事を口にする。
『お前、白羽の矢が立つ、って言葉の意味、知ってるか?』
俺が何か言い返す前に、金指先生は先に言葉を続けていた。
『白羽の矢が立つって言葉はな? 今でこそ多くの中から代役を選んだり、代表を選ぶような、いい意味での使われ方をするが、本来はそういう意味じゃない。神が求めた生贄を選ぶ時、家の屋根に白羽の矢を立てたという日本の伝承から来ている言葉だ』
「……なら、俺は生贄に選ばれた、って事ですか?」
『馬鹿。お前をあの三人と組ませとるのは、単にお前のペアリングの成績が悪いからだ。選ぶもクソもあるか』
……そういえば、そうだったっ!
自分の成績を棚に上げ、選ばれただの何だのと言っていた自分の発言を思い出し、俺は羞恥で死にそうになる。
『しかし、ワシが四人の中で、お前を取りまとめに指名したのは、理由がある』
「……それ、俺の学業の成績がいいから、って話じゃなかったでしたっけ?」
『それもある。しかしそれ以上に、お前は吸血鬼を一人の人格として捉えとった』
「……意味が、わからないんですが」
『お前、アータートンにちゃんと謝れてただろ』
「ああ、最初に自己紹介した時の話ですか」
三ヶ月程前の話だが、何だかそれも、もう遠い過去の様に感じている。ペアリングの課題に、四苦八苦していたせいだろう。
『そん時ワシは思ったんだよ。怖がっとる吸血鬼に対しても、人間と同じ様に接する事が出来るこいつなら、任せられるってな。最も、ワシの言っとる事が理解できる頭があるのが前提だ。ペアリングの課題を今まで一人で乗り切ってきた小賢しさと要領の良さを、ワシは評価しとる』
「……急に、褒めないでください。調子が狂います」
そう言うと、爆笑された。何か言い返そうと口を開くも、上手く言葉にならず、俺は歯ぎしりすることしか出来ない。
『照れるな、クソガキ。そういうのは、素直に受け取っとくもんだ。大人になると、褒められる機会も減っちまうからなぁ』
じゃあな、と言って、金指先生は一方的に電話を切った。先生に言いたいことだけを一方的に言われた状況に釈然とせず、俺は思わず眉をひそめる。そこで俺は、スマホに一通のメッセージが届いていた事に気が付いた。内容を確認すると、先程まで抱えていた不快感が、一瞬にして霧散した。
メッセージは、克実からだ。内容は、一言。
明日から、学校に行きます。
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