②
まずいまずい、と焦燥感を感じながら、僕は全力で坂を駆け下りていた。今は、小学校からの帰り道。僕は生まれてこれ程全力を出した事がないと思えるぐらい、全速力で足を動かしている。今日は家に、葵ちゃんと椿ちゃんが遊びに来る事になっているのだ。
僕は二人からかかって来た電話の内容を思い出す。
葵ちゃんからかかって来た電話は、こんな感じだった。
『もしもし? 竜兵さん』
『こんにちは、葵ちゃん! どうしたの? こんな時間に』
『……どうしたの、って。明日は私が竜兵さんのお家に遊びに行く日ではありませんか』
『うん! それは、予定通りだよね』
五秒ほど発生した無言状態に、何故だか冷汗を僕はかく。
『あ、葵ちゃん?』
『……私、楽しみにしてたんですよ』
『うん! 僕もだよっ!』
『…………まぁ、許しましょう』
何かが許された。許されたという事は、僕は何かしら間違いを犯していたらしい。思い当たる節は全くないが、許されないより許してもらった方がいいので、僕は小さく頷いた。
『ありがとう、葵ちゃん!』
『……もぅ。それで、明日の予定をもう一度確認したいのですが』
『あ、そうなんだね! 明日は予定通り、僕たちと一緒にご飯を食べに行くんだよ!』
『夕城さんと、夕城さんの奥さんもご一緒されるんですよね』
顔合わせですね、と言われたが、言っている意味がよくわからない。でも、葵ちゃんが僕のお母さんとは初対面のはずなので、そういう意味では二人は顔を初めて顔を合わせるという事になるから――
『うん! 顔合わせだねっ!』
『……言質、頂戴しました』
『え、何?』
『こちらの話です、気にしないでください』
葵ちゃんが気にしなくていいというのなら、気にしなくてもいいのだろう。そう言えば、あの話が葵ちゃんから出てないのが気になった。
『そう言えば、ちゃんと聞いている? 葵ちゃん』
『? 何がでしょうか』
『明日は葵ちゃん以外に、僕たちと同い年の椿ちゃんも一緒に、――』
『は?』
え、今のは葵ちゃんの声? 別人じゃなくて?
『あれ? お父さんから聞いてない? お父さん、葵ちゃんのおじいちゃんにちゃんと話したって言ってたんだけど』
『……少々お待ちください』
五分程待って、葵ちゃんが戻って来る。
『……申し訳ありません。互いに言った言わないの話になってしまったので、おじいちゃんへの折檻は保留とします』
『せ、折檻?』
『おじいちゃんの言い分では、竜兵さんのお家に行けると予定を聞いた私が、小躍りし始めたのでそれ以降の話を聞いていなかったというのですが、私はそんな話は聞いていないのです。その時、踊っていましたから私』
『そ、そうなんだ』
結論が出ている気がしたが、今は明日の予定を固めた方がいいと思った。
『じゃあ、どうしようか? 葵ちゃん、明日知らない子が来るって知らなかったんだよね? 急に葵ちゃんもそんなこと言われると困るだろうし、明日は――』
『死んでも行きます』
『命はかけなくていいよ!』
葵ちゃんはご両親の事があるので、ちょっと物事の捉え方が独特だ。
『明日は予定通りお伺いするので、時間は死んでも守ってくださいね』
『……だから、何でそんなに命をかけようとするのさ』
何はともあれ、葵ちゃんは明日は予定通り来てくれる事になった。
一方、椿ちゃんからかかって来た電話は、こんな感じだ。
『あははっ! もしもし、竜兵?』
『こんにちは、椿ちゃん! ……本当に僕の話し方真似し続けるんだね』
『……では、以前の話し方に戻しましょうか? 管理者C』
『……いや、戻さなくていいや。それで、どうしたの? こんな時間に』
『あははっ! どうしたのって、竜兵、酷いなぁ、明日はボクがキミの家に遊びに行く日じゃないか』
『うん、そうだね! でもそれは予定通りだから、どうしたのかな、って。椿ちゃん、そういうのあまり確認する感じがしなくて』
『……確かに、自分は既に確定している情報を再度確認するような非効率な活動は――』
『戻ってる戻ってる! 話し方戻ってるっ!』
『あははっ! うーん、何でボクは電話したんだろうね? 竜兵』
『それ、僕に聞くの? うーん、そうだなぁ。電話をするのが、目的だった、とか?』
『電話自体が、目的?』
『うん! 電話をする事自体が楽しいとか、話をしたい人と話すために電話するとか、そういう理由なら、特に用事がなくても、電話をかけたくなるんじゃないかなぁ』
『なるほど! じゃあ、今は後者の方だねっ!』
『こ、校舎?』
何で今学校の話が出てくるのだろう? よくわからないと思いながら、そもそも椿ちゃんが何故電話をかけて来たのか、僕はまだその理由を知らない事に気が付いた。
『そういえば、明日の事で何か気になる事でもあったの? 椿ちゃん』
『気になる事……。そうだなぁ、明日は、ユーキの旦那さんも一緒にご飯に行くんだよね?』
『うん! そうだよっ!』
『つまり、顔合わせだねっ!』
『うん、そうだね!』
椿ちゃんが僕のお父さんと初めて顔を合わせるので、言葉としてはそれであっているはずだ。日本語って難しい。
『……今の発言を、音声データとして永久保存しました』
『え、どういう事? 録音してるの? レコーダー?』
『あははっ! やだな、竜兵。レコーダーなんて冗長性の利かないものでボクが録音するわけがないじゃないかっ!』
『そ、そうだよね、びっくりしたっ!』
胸をなでおろしながら、そう言えば、あの話が椿ちゃんから出てないのが気になった。
『椿ちゃんの事だから大丈夫だと思うけど、ちゃんと聞いているよね?』
『ん? 何がだい』
『明日は椿ちゃん以外に、僕たちと同い年の葵ちゃんも一緒に、――』
『異常が発生しました。再稼働します』
え、今の椿ちゃんの声? そもそも、何が起こってるの?
『だ、大丈夫? 椿ちゃん!』
『あははっ! 大丈夫大丈夫。正常に再稼働したから。それで、なんだって?』
『……お母さんから、聞いてない? お母さん、椿ちゃんのおばあちゃんに、ちゃんと話したって言ってたんだけど』
『あははっ! ちょっと待ってねっ!』
五分程待って、椿ちゃんが戻って来る。
『ごめんごめん! ボクがちゃんと話を最後まで聞けてなかっただけだったよ! 竜兵の家に行くって聞いたら、処理落ちしちゃってさっ!』
どうしよう。椿ちゃんがさっきから何を言っているのかわからない。とはいえ、僕は明日の予定を固めた方がいいと思った。
『じゃあ、どうしようか? 椿ちゃん、明日知らない子が来るって知らなかったんだよね? 急に椿ちゃんもそんなこと言われると困るだろうし、明日は――』
『大丈夫大丈夫! 世界を滅ぼしてでも行くからさっ!』
『い、言う事が大げさだなぁ、もう!』
冗談だとわかっていても、椿ちゃんの本気具合に僕は二の足を踏んでしまう。椿ちゃんはご両親の事があるので、ちょっと物事の捉え方が独特だ。
『あははっ! 明日は予定通り行くから、竜兵もちゃんと時間は守ってね? 絶対だよ? 約束してね? 守られないと、ボク、何するかわからないよ(確実に世界を滅ぼすよ)?』
『だ、だから大げさだよ、椿ちゃんっ!』
何はともあれ、椿ちゃんは明日は予定通り来てくれる事になった。
というのが、昨日の話。そして今日になって僕が全力で走っているという事は、つまり僕は今、約束の時間に遅れそうなのだ。ああ、どうしてこういう時に限って帰りの会が長引くのだろう。上履きがなくなったり、飼育小屋のインコが居なくなったり、事件が重なったので、何でそんな事が起きたのか(How done it)を解き明かすのに、時間がかかってしまったのだ。
葵ちゃんも椿ちゃんも、理由を話せばわかってくれると信じているが、彼女たちを悲しませるのは僕の本意ではない。僕が彼女たちと関わったのは、僕が彼女たちの助けになりたい、自分が彼女たちを助けたい、と言う思いからだ。だから彼女たちの為に、同い年の同性の友達がいた方がいいはずだと思ったから、葵ちゃんと椿ちゃんを引き合わせる事にしたのだ。この考えは、父さんと母さんも賛同してくれた。結局、まだ二人は小学校へ行っていない。だから僕は、自信を持っていた。過去に色々あった彼女たちだけど、僕がきっと彼女たちを救ってみせるのだ、と。
そんな僕が、時間に遅れるわけにはいかない。そして昨日の電話を終えてから、葵ちゃんと椿ちゃんを二人っきりにしてはいけないのではないか? という漠然とした不安を、実は僕は抱えている。
「ただいま!」
文字通り、転がり込むように玄関の扉を開ける。時間には、何とか間に合った。でも、普段僕の家では見慣れない靴が二足。しまった! もう二人は家に来ているっ!
靴も揃えずリビングに滑り込むと、そこには談笑する葵ちゃんと椿ちゃんの姿があった。
「あら、おかえりなさい、竜兵さん」
「あははっ! お邪魔してるよ、竜兵!」
リビングのテーブルには、醤油煎餅とチョコチップ入りのクッキーが乗せられたお盆、そして湯気が出ているポットに急須が置かれている。それぞれソファーに座る葵ちゃんの前にはティーカップ、椿ちゃんの前には湯呑が置かれていた。
良かった、僕の心配は杞憂だったらしい。
「ただいま! ゴメン、遅れちゃ――」
そこまで言って、僕は椿ちゃんの姿を見て一瞬固まる。そんな僕に気付いたような様子もなく、葵ちゃんがこちらへ話しかけてくる。
「全く、竜兵さんがちゃん付けしたから、私、勘違いしてしまいました。椿さんは女の子ではなく――」
「椿ちゃん、何で男物の服着てるのっ!」
そう。彼女は今日、短パンにTシャツと、男の子が着るような恰好をしていたのだ。髪をベリーショートに、僕ぐらいの髪の長さにしていたのは知っていたけど、まさかそんなに寄せて来るとは思わなかった。というか――
「その恰好、僕が椿ちゃんと初めて会った時の服じゃない?」
「あははっ! おじいちゃんにおねだりして、買ってもらったんだ! ペアルックだね、ボクたちっ!」
バキっ! という、音がした。見ると、葵ちゃんが手にしたクッキーをその手で粉々に粉砕している。砕かれたクッキーが、ぱらぱらとカーペットへ零れ落ちた。
「女、の子……?」
「あははっ! 大丈夫大丈夫。キミと考えてる事は、きっとボクも考えているよ。ゼロとイチで表せてないものでも、今のこの状況はひゃいんっ!」
椿ちゃんが叫んだのは、突然葵ちゃんが椿ちゃんの胸を揉んだからだ。そして、何故か揉んだ側の葵ちゃんが衝撃を受けた様にうなだれる。
「嘘……。スポブラで胸を押し潰してるのに、負けてる」
「こ、コスプレの男装用の奴があるんだよっ!」
「何故、何故なんです? 欲しいと思っているのに、望んでも欲したものを手に入れる事が出来ない人も、世の中にはいるんですよっ!」
「あははっ……。それは隣の芝が青く見えているだけさ。望んでないのに与えられたものは、余計な重しでしかないよ」
え、今何の話をしているんだろう? 一瞬二人の境遇の話でもしているのかと思ったけど、会話のスタートからしてそれはなさそうに思える。助けを求めるように、最初からリビングの様子を台所から見つめる両親に視線を送るが、父さんは右手で、母さんは左手でサムズアップするだけだった。親戚や両親の仕事仲間からは、両親は優秀過ぎて何を考えているのか時々わからないと言われる時があるけれど、それはその通りだと思う。何せ、息子の僕も今この二人が何を考えているのかさっぱりわからないのだから。有給とって二人で台所で何してるんだよ。
「それより、竜兵。酷いじゃないか。ボクを呼ぶのに女の子を呼ぶなんて」
「……そうです。私というものがありながら」
「僕、葵ちゃんを物扱いした事なんてないと思うけど……」
「じゃあボクは物扱いしてくれていたんだねっ!」
「何で若干嬉しそうなのかわからないよ椿ちゃんっ!」
「……酷い。竜兵さん、椿さんばかりかまって」
「今まさに葵ちゃんが粉々にしたクッキーの欠片を片付けようと掃除機を引っ張り出している僕にそう言う事言うのっ!」
あれ? おかしい。僕は二人に同い年で同じ女の子の友達を増やそうと思って企画したのに、何でこんなに責められてるんだろう?
「それよりお父さん、お母さん! ご飯食べに行くんじゃないの? それなのに、こんなにお菓子出して」
「……食べては、いけませんでしたか?」
「がっつく女は嫌いかい? 竜兵」
「違う違うそういう意味で言ってないし、今はお父さんとお母さんに、って、ねぇ、何で僕の両親はそんなにニヤニヤしてるの? 移動しないといけないんだから、早く出発の準備しようよっ!」
掃除機をかけながら、僕は早く出発する様に皆を急かす。家に帰って来てから、怒涛の様に色々起こるので、僕がランドセルを下ろせたのは、出発直前だった。
皆で車に乗り込み、アンビエンスというレストランへ向かう。海辺近くに建っている、パスタが美味しいレストランらしい。運転席には父さんが、助手席には母さんが座っている。後部座席は必然的に小学生の三人になるのだが、僕は葵ちゃんと椿ちゃんに挟まれる形となっていた。どうしてこうなった。
「竜兵さんは、椿さんとはどういう経緯でお知り合いに?」
「椿ちゃんのお父さんとお母さんが、僕のお母さんと仲が良かったんだよ!」
「あははっ! そうだね。所で竜兵。葵とは、どういう経緯で知り合ったんだい?」
「……僕のお父さんが、葵ちゃんの関係していた事件を担当していて、そのつながりだよ」
「そうですね。それで、竜兵さん。椿さんとは――」
おかしい。何がおかしいって、直接本人に聞けばいいような質問を、いちいち僕を介して話そうとしているこのやり取りがおかしい。葵ちゃんも椿ちゃんも、わざわざ僕に言わなくても本人に聞けばいいのに。もちろん、僕が関係している事柄に質問が集中しているので、僕が答えてもいいのだが、今日の僕の目的は二人が仲良くなってもらう事なのに、全く達成する気配がない。二人とも、車に乗ってから互いどころか僕の方すら見ずに、窓の外へ視線を向けている。そのくせ、二人とも僕のズボンの端を小さな手でぎゅっと握っていた。なんだこの緊張感。もっと和気藹々となる予定だったのに。
「ま、何事も経験だぞ、竜兵」
顔を伏せていた僕に向かって、父さんが何故だか訳知り顔でそんな事を言った。父さんの言葉に、母さんも賛同する。
「そうね。何でもかんでも、自分の想像通りに行くとは限らないわ」
「……どういう事?」
「自分が出来る事には、何事にも限界があるって事さ」
「それから、相対評価ではなく、絶対評価で自分の事を評価しなさい。自分では出来ないと思っていても、冷静に振り返れば、実はその人は凄い事が出来ている、という事もあるのよ。周りが凄いから、自分がダメだ、とは考えないでね、竜兵」
抽象度が高くて、僕は父さんと母さんの言っている意味を、上手くくみ取れない。言われなくても、僕は葵ちゃんと椿ちゃんを助ける事が出来るし、自分がダメだなんて思っていない。むしろ、父さんと母さんみたいに、もっと積極的にいろんな人を助けれると思っている。だから二人の言っている事をもっと理解したくて、僕は二人に尚問いかけた。
「もう少し、具体的言ってくれない?」
「そうだな。去年のバレンタインデーで、わざわざ家までお前にチョコを届けに来てくれた子たちがいただろ?」
「痛い痛い痛い! ねぇ、何で今肉までつまんだの、葵ちゃん、椿ちゃんっ!」
行きの車の中、会話は終始こんな感じで進んでいった。僕は結局、両親の意図を汲み取る事が出来なかった。
地獄の様なドライブを経て、ついにアンビエンスへ到着する。レストランからは海が一望出来て、夕日に照らされた水面が美しい。浜風と共に運ばれてくる料理の匂いが、否応なく空腹の虫を刺激する。
「ようこそいらっしゃいました!」
笑顔のウェイトレス、名札には『勝倉』と書かれている、に案内され、僕たちは席に着いた。円卓の五人席で、席順は車の座席と同じ、つまり僕はまた葵ちゃんと椿ちゃんに挟まれる。服を掴まれなくなったので、僕は籠から解き放たれたカナリアの様な気分になった。
「竜兵さんはお食事、何をお選びになりますか? ちなみに私は、ペペロンチーノにしようと思いますが」
「あははっ! ボクと一緒に大葉とツナの和風大根おろしパスタにしようよ、竜兵っ!」
「……もう一度繰り返しますが、私はペペロンチーノです」
「大葉! ツナ! 大根おろしっ!」
残念ながら、籠の外は危険で一杯らしい。僕はメニューを眺めて、ペスカトーレを選択した。両脇が突然黙り込み、両親はこのヘタレが、みたいな目で見て来る。もう帰りたくなってきた。
やがて、前菜のサラダとスープが運ばれてきて、その後それぞれが注文したパスタがやって来た。葵ちゃんと椿ちゃんはそれぞれフォークと箸で、黙々とパスタを口に運ぶ。と、その手が止まった。僕の目の前にいる二人、つまり僕の両親が、両親は仲良くミートパスタとカルボナーラを分け合っていたのだ。
「竜兵さん」
「竜兵」
「……うん、わけよう。わけようか」
こうして僕のペスカトーレは、半分が葵ちゃんのペペロンチーノに、もう半分が椿ちゃんの和風パスタへと変貌した。結局僕は、自分で頼んだもの(ペスカトーレ)を一口も食べることなくこの店を出る事が確定。いや、美味しかったんだけどね、ペペロンチーノも和風パスタも。一方、ペスカトーレをご満悦でパスタを食べていた二人は、同じタイミングでその手を止める。
「……んぅ?」
「……んんん?」
「どうしたの? 二人とも」
「ちょっと、何でしょう、これは?」
「砂かな? 貝の塩抜きが十分じゃなかったのかも」
そう言って二人は、紙ナフキンの上に、口から取り出したものを置く。それは小さな塊だった。
「砂にしては、大きいですね」
「この物質は……ふぅん、珍しいね」
「……申し訳ありません。少々お時間よろしいでしょうか?」
聞かれて振り向くとそこには一人の男性が立っていた。
「わたくし、この店のオーナーをしております、才川と申します。ご用意させて頂いたお食事に落ち度があったようですので、お取替えをさせて頂ければと思ったのですが。最近、どうもそういった事が多くあるようでして。申し訳ございません」
柔らかい物腰でそう言われ、僕たち小学生組は顔を見合わせる。やがて葵ちゃんと椿ちゃんは、才川さんへ振り向いた。
「いいえ、気にするような事でもありませんから」
「そうそう! 美味しいから、全然大丈夫!」
「さようでございますか。ありがとうございます。もし何かほかにご入用がございましたら、遠慮なくお申し付けくださいませ」
そう言って才川さんは、最後まで腰低くテーブルを後にした。
「子供もちゃんと一人のお客として接するなんて、いいお店ね」
「そうだな。今度同僚とも一緒に来るか」
両親もそんな話をしながら、食事を続けていく。全ての料理を食べ終えると、僕らは食後のドリンクを頼んだ。僕は背伸びしてブラックコーヒーを頼み、その苦さと香ばしさに、眉を顰める。そんな中、母さんがこんな事を言い始めた。
「団体のお客さんでも、これから入るのかしらね」
もう日が暮れた時間帯。夜空の下、レストランの街灯の優しい光が、辺りを照らしている。アンビエンスの終業時間は他のレストランよりも早く、そしてその時刻はもうすぐ訪れようとしていた。それがわかっているのか、残っているお客も僕ら以外には一人、二人ほどしかいない。だからこその、先ほどの母さんの疑問だった。スタッフたちが急いでテーブルを拭き、離れたテーブルを連結させる。明らかに店じまいという雰囲気ではなかった。
「この後、お店のオーナーの知り合いの方の、パーティーがあるんです」
母さんの疑問が聞こえたのか、近くを通りかかったウェイトレス、名札には『宇城』と書かれている、がそう教えてくれる。母さんは宇城さんにお礼を言って、手にしたカップを傾けた。父さんがお手洗いの為に席を立ち、僕は苦いコーヒーと格闘している。
「あははっ! 竜兵。無理しないで、砂糖を入れたらどうだい?」
「ミルクを入れたら、だいぶまろやかになりますよ」
「……大丈夫」
渋い顔をしながら、噛むように黒い液体を飲み込んだ。もう半分まで飲んだところで、レストランの奥、厨房の方から金属類を盛大にひっくり返した様な、それもなかなか重たいものを落とした様な音が聞こえてくる。
「……ちょっと様子を見て来るわ」
気を付けて、と立ち上がる母さんを見送った。丁度お手洗いから戻って来た父さんと合流し、僕は両親が集まって来た才川さんと一緒に厨房へ消えていく。と、そこで僕は、葵ちゃんの様子がおかしい事に気が付いた。
「大丈夫? 葵ちゃん」
「……え?」
僕が肩を揺らした事で、ようやく葵ちゃんはこちらの方へ振り向く。椿ちゃんはそのタイミングで目を閉じて、葵ちゃんは少し眉を寄せた。
「大丈夫? 顔、真っ青だよ」
「大、丈夫。久々、だったから……」
「久々?」
「……うん。視えたのが」
「視えた?」
「そう、今は、そういう視え方なのね。でも、どうして急に視えなくなったの……」
何を? と疑問に思うのと同時に、悲鳴。僕は両親が消えた方から聞こえて来たそれに、思わず立ち上がった。と、そこで僕は強い力で肩を引かれる。引いたのは、目を開けた椿ちゃんだった。
「見ない方がいいよ、竜兵!」
「見ない方が?」
「うん! もう、動いてない」
有無を言わせない椿ちゃんの声を聞き、体調を悪そうにしている葵ちゃんを見て、僕は自分の席に再度腰を下ろした。葵ちゃんは何を視たんだとか、椿ちゃんは何故行くのではなく見るのを止めたのかだとか、色々疑問はあった。でもこの後僕は、この時点で既に、自分がだいぶ遅れている事に気付くのだ。このテーブルにいる三人の中で、僕だけ、唯一僕だけが、このレストランで起こった事件の全容を掴んでいなかったのだ、と。そしてこの時からずっと、僕は二人の天才の背中を、主役で、主人公の名探偵ズの後を、周回遅れで追いつこうと足掻く事になるのだ。
父さんと母さんが、あまり見せない厳しい表情を浮かべて戻って来た。
「どうしたの?」
「事件だ」
僕の疑問に、父さんは簡潔にそう答えた。その声に、葵ちゃんの小さな両肩が跳ねる。
「父さんはこの場の現場保全と、近くの警察署と連携する」
「母さんは父さんのお手伝いをしてくるわ。竜兵、二人を頼んだわよ」
「もちろんっ!」
当たり前だと言わんばかりに、僕は自分の両親へ大きく頷いた。彼女たちの心のわだかまりも、僕が解決したのだ。葵ちゃんも椿ちゃんも、僕が守ってみせる。いや、守ってあげなければならないのだ。それに、今日は父さんも母さんもいる。この頼れる二人がいれば、いざとなれば大人に任せれば、どんな難事件も、きっと解決できるはずだ。そんな甘えが、僕の中であった。
警察である父さんの指示で、僕ら以外の五人が、一か所に集められる。事件があった時、アンビエンスにいたのが、この五人だ。その内の二人、ウェイトレスの勝倉 絵利香(かつくら えりか)が宇城 利恵(うしろ としえ)に縋り付いて泣いている。
「しっかりして、絵利香」
「そんな、そんな、大曽根さんが、殺されただなんて……」
アンビエンスで起こったのは、殺人事件。このレストランの料理長である、大曽根 達弥(おおそね たつや)が厨房で死んでいたのだ。第一発見者の一人が、今泣いているウェイトレスの勝倉さん。泣いているのは、死体を最初に見つけたショックもあるのだろう。首に紐の様なものが巻き付いていた跡があり、窒息死の疑いが高いらしい。厨房は沸騰した鍋が散乱し、沸騰したお湯と茹でられたパスタも散らばっていたという。被害者の体にも、大量のパスタが巻き付いていたらしい。被害者の大曽根さんの体にも、至る所に火傷の跡があったという。
本来、小学生の僕が聞ける情報ではないのだが、一か所に固められているため、他の人の話がどんどん入って来る。もちろん、このお店の人間模様もだ。
「……まぁ、でも、自業自得なんじゃないですか、大曽根の野郎が殺されるのも、なんか納得ですよ」
そう言ったのは、厨房のシェフ、もう一人の第一発見者の門田 嘉信(もんた よしのぶ)。そんな彼に激昂したのが、お店のオーナーの才川 規之(さいかわ のりゆき)だ。彼は僕たちに話しかけてきた時とは別人の様な鬼の形相を浮かべて、門田さんに言葉をぶつける。
「門田! なんてことを言うんだっ!」
「だって、そうでしょ? あいつの女関係のだらしなさといったら――」
「やめて! 門田くんっ!」
門田さんの言葉を遮ったのは、宇城さんだ。彼女は勝倉さんの背中を撫でながら、鋭い声を門田さんに発する。
「確かに大曽根さんは、酷い人だったよ。女の子に対しても、デリカシーも何もなくて、酷い事を一杯してきた人だった。でも、何もそれを絵利香の前で言わなくてもいいじゃない!」
「で、でも宇城さん、宇城さんだって――」
「……やめて、利恵。門田さんも、もう、やめて」
二人の言い争いを止めたのは、泣き崩れていた勝倉さん本人だった。
「大曽根さんが酷い人なのは、その通りだもん。酷い振り方もしてきたのも事実だし、実際、自分の事をちゃんと見てくれないと厨房で酷い目にあう、っていう脅迫まがいの事も受けてたみたいだけど、でも、そんな人を好きになったのは私。先に好きになった方が、悪いのよ……」
「……」
「……」
そう言って泣き崩れた勝倉さんを、宇城さんが抱きしめる。葵ちゃんと椿ちゃんは、勝倉さんの方を、じっと見つめていた。
一方、勝倉さんと宇城さんの様子を見ていた門田さんが、悔しそうに両手を握りしめている。
「……なんでだよ。何で、あんな奴が」
「でも、殺された動機って言うのなら、他にもありそうよね、オーナーさん」
そう言ったのは、残りの一人、池渕 あやみ(いけぶち あやみ)だ。彼女は才川さんの方へ一歩近づくと、意味ありげな視線を送る。
「大曽根さん、女性関係は問題があったけど、腕は確かだもんね。彼の腕に、このお店は成り立っていたと言ってもいい。そんな彼は、最近引き抜きの話があったみたいね」
「……あんたか、大曽根にちょっかいをかけてた、他の店のオーナーって言うのは」
「能力が高い人間に対して、それに見合った報酬で仕事をしないか? と声をかけるのは、自然な事ではないかしら?」
才川さんが池渕さんに掴み掛ろうとしたのを、門田さんが間に入って止める。その様子を見ていた勝倉さんが、涙を拭いながら見上げた。
「……でも、大曽根さん、すぐに返事をしてないんですよね。引き抜きの話」
「そう言えば、まだまだ値段を引き上げれそうだ、どっちらかもな、って」
宇城さんの言葉を聞いて、才川さんと池渕さんは舌打ちをした。
「あいつ、給料の引き上げをやろうとしてやがったのか」
「……もう少し上げてくれればアンビエンスのオーナーも諦めてくれるから、って言ってたけど、そう言う事」
そこで、父さんが応援で呼んだ警察がやって来た。鑑識の人などが入って来て、お店の中を写真や証拠の収集を行っていく。僕ら以外の五人も、警察の人に事情聴取をされていた。暫く経ち、僕はこちらにやって来た父さんと母さんを見つけ、ある希望を胸に、駆け寄っていく。
「どう? 犯人、捕まえられそう?」
僕は、期待の眼差しで自分の両親を見上げた。疑問形で聞いたが、返って来る答えは一つしかないと信じている。はっきりいて、僕にはこの事件の全容すら掴めていない。でも、大人なら、僕の父さんと母さんなら、絶対に何とかしてくれる。だから、返って来た答えに、僕は硬直した。
「……ダメだな。全然わからない」
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