「誰が可哀そうですかっ!」

 おばあちゃんが、顎が外れる程口を開いて、立ち上がった私の方を見ている。夕城さんも、突然立ち上がり、湯呑もお茶請けも蹴散らした私を、驚きの表情を浮かべて見上げていた。

 ただ唯一。

 夕城竜兵だけが――

「え? 僕、間違った事言ったかな?」

 そんな私を、ごく当たり前な顔をして受け入れている。それが私の中の、切り捨てたと思った何かを、刺激した。

「私は、可哀そうなんかじゃありません」

「……そうなの?」

 その惚けたような表情に、私の顔が若干引きつる。

「そうなのです。ついでにあなたの事なんて、ちっとも怖くありません」

「……それは嘘でしょ?」

「嘘じゃありませんっ!」

 そう言うと夕城竜兵は小首を傾げて、あれ? どこで間違ったんだろう? とよくわからない事を言っていたが、そんな事はどうでもいい。

「私は、あなたなんて、怖く、ありません」

「……嘘――」

「嘘ではありません」

 食い気味にそう言うと、夕城竜兵は小さく頷いた。

「なら、それ、証明できる?」

「いいですよ。私は何をすれば?」

「え、それ僕が決めちゃったら、僕が有利過ぎない?」

「構いません。私は、あなたなんか怖くないのですから」

「そっか。それじゃあこれからよろしくね、葵ちゃん!」

「……は?」

 夕城竜兵は、日本語が通じないのだろうか? 今のやり取りで、その返答はおかしいはず。なのだが、何故だか夕城さんが、やりやがったなこいつ流石は俺の息子みたいな顔をしているのが、気になって仕方がない。おばあちゃんは私と同じように疑問の表情を浮かべている。夕城家は、頭がおかしい血筋なのだろうか?

 そんな私とおばあちゃんの疑問に、夕城竜兵がにこやかに笑って答える。

「だから、葵ちゃんが僕の事を怖がってないなら、僕がいつこの家に遊びに来てもいいって事だよね? だって、怖くないんだからさっ!」

 言われた言葉を反芻し、私は膝から崩れそうになる。え? 嘘でしょ? そこまでする? やっぱり頭がおかしいんじゃないの?

 そう思っているが、夕城竜兵はどんどん話を進めていく。

「おばあちゃん、また遊びに来てもいい?」

「え、え? ええ、ええよ。時間ある時、遊びにおいで」

「やったー!」

 やったー! じゃねぇぇぇえええっ! 馬鹿なの? 馬鹿なんだ。馬鹿なんでしょ? でも私は、その馬鹿な話を否定できない。否定したら、私が夕城竜兵を怖がっている事になってしまう。怖がっているか否かの判定基準を、夕城竜兵に預けてしまったから。だから私は、夕城竜兵がやって来ることを止められない。

 そこで私は遅まきながら気付いた。怖い、怖くないという話だったのが、判定基準を夕城竜兵に委ねたが故に、夕城竜兵と私の我慢比べの様な構図に置き換えられている。

 でも、気付いた時にはもう遅い。夕城竜兵は自分の父親と一緒に私が散らかした客間を片付け、次に訪れる日時をおばあちゃんと調整して――

「じゃあまたね! 葵ちゃんっ!」

 元気よく、帰っていったのだ。嵐が過ぎ去ったような、と言う表現がこれ程似合う場面に遭遇するのも、珍しいだろう。私はその晩、自分の部屋で、いつもより早く布団へ突っ伏した。

 それから夕城竜兵は、度々私の元に、私の部屋を訪れるようになっていた。彼がいつ来るのか、私の方から聞きはしていなかったけれど。私は夕城竜兵へ出来るだけ冷たく、そして無関心に接していた。とはいえ、このやり取りは私が夕城竜兵の事を怖がっていないという、証明の一環だ。拒絶しようと思っても、その反応が私が夕城竜兵を怖がっていると取られるのは、よろしくない。結果として、夕城竜兵が強引に私の内面に踏み込んできたとしても、彼を私は邪険にすることが出来なかった。

「ねぇねぇ、葵ちゃん! 葵ちゃんは子供の頃、どんな子供だったの?」

「……今も子供よ」

「そんな揚げ足取りじゃなくて!」

「……」

「……今一番食べたいものは何?」

「……ショートケーキ」

「素直に食べたいって言えばよかったのに!」

「……おばあちゃんは、ああいうの食べたがらないし。私だけ、食べるわけにはいかないもの」

「そうかな?」

「そうよ。私、一応居候だし、色々考えてるもの。お母さんもそういうの、食べさせてくれなかったし……」

「ふーん、どんなお母さんだったの?」

「どんな、って……」

「……」

 こういう時、夕城竜兵は必ず黙る。私が言い辛そうにしていたり、言葉を自分の中で中々見つけられない時、彼は私がそれを形に出来るまで、ずっと待ってくれていた。だから、なのかもしれない。両親の事を、自分の神通力の事を除いて、話していた。それは、おばあちゃんにも、誰にも話した事がないものだ。でも、それは当たり前だ。だって、自分でそれを形にしていなかったのだから。形にしたのは、形に出来たのは、夕城竜兵が傍に居たから、ずっと、居てくれたからだ。

 優しかった、両親の思い出。『びろう』での生活。両親との会話の内容。その中で両親は私が世界を救えると、本気で信じてくれていた事。でも、そうはならなかった事。だから、嘘を付かれたと思った事。信者の暴徒化し、『びろう』がなくなった事。

 世界を救えるなんてお父さんとお母さんが言わなければ、こんな事になってなかったのではないか? 一人で残されて、私はどう生きていたらいいのだろう?

 そう言う不満を、全部ぶつけたくて。

 でもそれをぶつけれない、ぶつけさせてくれない、今はここにいないお父さんとお母さんを、私は――

「ああ、そうか」

 言葉にして、初めてわかった。

 私は、死んだ両親を恨んでいる。恨んで、しまっているのだ。

 お父さんとお母さんは、最後の最後まで、私が世界を救えると、信じてくれていたのに。そう言えば結局、私はまだ、お墓参りにも行っていない。

「本当に、馬鹿だね、私。少し考えれば、わかるはずなのに。子供の私じゃ、世界を救う事なんて、出来るわけがないのに」

 神通力があったから、勘違いしていたのだ。私なら出来ると、自惚れていたのだ。お父さんもお母さんも、きっとそうに違いない。私が神通力を持っていたから、自分の娘に過剰な期待をしたんだ。だからきっと、こんな結果になってしまったのだ。

 溜息の様な言葉が、私の口から零れ落ちる。

「親子そろって、馬鹿だね。お父さんもお母さんも、私なんかが世界を救えるわけないのに、それを死ぬ前まで信じちゃってさ。そしてそれを真に受けて調子に乗ってた、私が一番馬鹿……」

 自嘲気味に笑う私を見て、夕城竜兵は初対面で見せたような、惚けたような表情を浮かべていた。

「……そうなの?」

「そうなの、って……」

「だって、葵ちゃんなら救えるでしょ? 世界」

「は?」

 一瞬、『びろう』の話をしたので、夕城竜兵も私を追い回した狂信者の様になってしまったのかと身構える。でも、それは変だ。彼らは私の神通力の存在を知っていたから、あそこまで狂ったのだ。夕城竜兵には、その話はしていない。していても、今の私はその力の殆どをなくしているので、証明する事は出来ないのだけれど。

 私の考え通り、別に夕城竜兵は狂信者にはなっていなかった。けれども代わりに、不思議な質問をぶつけてくる。

「葵ちゃん。葵ちゃんにとって、『世界』って、何?」

「え?」

 質問の、意図がわからない。それでも夕城竜兵の問いかけは、とても大切なものだと、私は確信していた。私と同い年の彼は、なんてことがないと言わんばかりに、軽く小首を傾げて言葉を紡ぐ。

「葵ちゃんから、君のお父さんとお母さんの会話の内容を聞いた時、不思議に思ったんだよ。随分、『世界』を限定するんだなぁ、って」

「げ、限定?」

「そう、限定! 例えば――」

 

『この目の前に広がる世界』

 

『あの子の世界』

 

 地球を世界と捉えるような考え方では、この表現は出てこない。

「だから僕は、こう思うんだ。君のお父さんとお母さんは、君の目の届く範囲、君の手の届く範囲を、『君が救える世界』って定義したんじゃないのかな? ってさ」

 それは果たして、どのような意味を持つことになるのだろうか?

 そう疑問に思った瞬間、夕城竜兵がその答えを紡ぐ。

「あははっ! 当たり前、当たり前の事なんだよ、葵ちゃん。君のお父さんとお母さんは、ただこう信じていたのさ。自分の娘は、ちゃんと独り立ちできる大人になるんだ、ってね。葵ちゃんが葵ちゃんの周りの人と、その環境をより良く出来るようになる。宗教とか『びろう』とか、そんなものは、全く関係なかったんだよ!」

「嘘よっ!」

 言いながら、私は自分の言葉を自分で否定する。もしあの地震がなかったとして、両親が生きていたとして、『びろう』が崩壊していなかったとしたら、私の世界は、間違いなく『びろう』になる。両親の想いが私が独り立ち出来るようになるという事ならば、それは私がいずれ『びろう』を、そこに居る仲間たちを率い、導いていける存在になる事を願っていた事になる。

 そう、それは夕城竜兵が言ったように、当たり前の願いだ。当たり前の祈りだ。子供を持つ親であれば、当たり前に考える事だ。

 神通力なんて、関係なかったのだ。視えていなかったのは、私の方だった。それなのに、勝手に恨んで、逆恨みもいいところだ。

 でも、私の口からは、再度同じ言葉が飛び出した。

「嘘よっ!」

 そうだ。そうだったらいいなと、そうであってほしいと、私の心が叫んでいる。それでも、今の今まで拗らせて来た私の心は、夕城竜兵の答えを素直に受け入れることが出来ない。

 だって――

「私から両親との会話を聞いただけなのに、そんな簡単に正解に行きつくわけないじゃない!」

 もはやヒステリー以外の何物でもない。八つ当たり以外の何物でもない。それでも彼は、私のそれを、朗らかに笑いながら、こう受け止めるのさ。

「あははっ! わかるよ、葵ちゃん。だって、君の両親は、君の事を本当に愛していたし、大切に思っていたじゃないか」

「だから、聞いただけで、あなたに何がわかるのよっ!」

「わかるよ、君を見ていればね」

「わ、たし……?」

「そう、葵ちゃんが、何よりの証拠じゃないか。だって、君は怒っただろ?」

「怒っ、た……?」

「うん。最初にあった時、僕が可哀そうと言ったら、君は怒った。何故なら君は、自分の事を可哀そうだと認めるわけにはいかなかったから。両親の愛情を注がれて育った今の自分を、可哀そうな奴だなんて、否定できなかったんでしょ? そこから導き出せる結論は――」

 もう、限界だった。無理だ。負けだ。この勝負は、私の負け。負けでいい。むしろ負けたい。さっきから、鼻水が止まらなかったのに。喋る声がひくつかないように、気をつけていたのに。涙が瞼から零れ落ちないよう、堪えていたのに。

「もう、これで怖くないね」

 頷いて私は、彼に飛びついた。

 今は、全身全霊で、体全体を使って。

 私は彼に縋り付いて、咽び泣いた。

 それから暫く経過し――

「……お見苦しい所を、お見せいたしました」

「あははっ! 大丈夫大丈夫! ティッシュ、足りる?」

「……頂きます」

 もう一度、大きく鼻をかむ。一緒に部屋の外へ出ると、もう夕日が沈もうとしている所だった。

「あ、僕、もう帰らないと」

「……次は、いついらっしゃるんですか?」

 いつもは聞かないのに、初めて私の方から次の予定を尋ねた。余程予想外だったのか、彼は目に見えて狼狽する。

「えっ!」

「……何ですか」

「も、もう怖くなくなったみたいだし、両親へのわだかまりのなくなったみたいだし、僕はもういらなくなったんじゃないかと……」

「……」

 そう言えば、彼は夕城さんから私の事を頼まれて、ここにやって来るようになっていたのだった。そうすると、彼の言ったように、当面の私の問題が解決した以上、彼は私の元へやって来る必要はなくなったわけで――

「嘘嘘! 来る来る! 来るよ! すぐ来る!」

 私の顔を覗き込んだと思ったら、彼は見た事もない程慌て始めた。普段飄々としているのに、その態度は珍しい。

「……いいんですよ、無理なさらなくても」

「してないしてない! むしろ葵ちゃんも僕の家においでよっ!」

「……本当ですか? 竜兵さん」

「もちろん! それに――」

 そう言って彼は、視線を下に向け、

「まだ、少し怖いみたいだしね!」

 私の、微かに震える手を取ったのだ。

 その後、彼を玄関まで見送った後、台所で晩御飯の支度をしているおばあちゃんの元へ、私は向かう。

「……おばあちゃん」

「わっ! び、びっくりしたねぇ、もう! 危うくお皿を落としそうになったじゃないかね」

 そんなに驚かなくてもいいのに、と思ったが、私から話しかける時は、おばあちゃんはいつもこうして驚いていたように思う。次からは気を付けようと思いながら、私は口を開いた。

「あのね、おばあちゃん。相談があるの」

「何だい? 改まって」

「……お墓参りに、行こうと思うんだけど。その、お父さんと、お母さんの」

 それを聞いて、おばあちゃんは嬉しそうに喜んだ。その顔を見て、私も胸の内が少しだけ暖かくなる。

「そ、そうかいそうかい! そりゃあ葵のお父ちゃんとお母ちゃんも喜ぶよっ!」

「……うん。だからね、初デートの場所をそこにしようと思っているんだけど」

 今度こそ、おばあちゃんの手から、お皿が落ちた。

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