第二章
①
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。俺は今日日直だったので、教室の窓を開け、黒板に書かれた数式を消していく。単純な計算の途中式は白色のチョークで、問題を解くために前提となる公式は黄色のチョークでで、重要なポイントは赤色のチョークで書かれた文字の羅列は、見やすいと言えば、確かに見やすかった。着目すべき点が色分けされているからだ。でも、肝心の内容を理解できるのか? という点で言えば、どうだろう? 結局それは、理解する側の学生の努力に任せられるのだと思う。
教室を出ていくクラスメイトに返事を返しながら、俺は黒板消しを持った手を動かしていく。チョークの粉が舞い、黒板の数式が消える。消えた数式は黒板だけでなく俺の頭の中からも消えており、せめて公式だけでも復習しておかねばと、気が重くなった。きっとマンガやアニメに出てくる主役や主人公であれば、こんな事で悩まないか、悩む必要がない様な状況に巻き込まれているのだろうから、たかが数学の公式に手を焼いている余裕はないのだろう。
だが生憎、普通の人間であり、脇役の俺はそうもいかない。その主役みたいで、主人公みたいな奴らに追いつこうと思っているのなら、猶更だ。朝昼夕探偵団は俺以外、主役、主人公のような存在で、俺に比べてはるかに学校の成績もいい。これ以上、何かに差を付けられるのはごめんだ。
俺は教室から他の生徒がいなくなっても、必要以上に、丁寧に、そして慎重に、黒板の名前の通り、黒と言う色を甦らせようと、チョークの粉を削ぎ落すように消していく。最初は雑に消し、クリーナーで綺麗にした黒板消しでもう一度消し、更に綺麗にした黒板消しを黒板全体へ縦方向に、そして綺麗な黒板消しを黒板全体へ横方向に動かしていく。結果現れたのは、黒と言うよりも緑に近い色をした長方形の板だが、その結果に俺は満足気に頷いた。袖に付いたチョークの粉を払うと、誰もいなくなった教室の窓を閉める。グラウンドから聞こえてくる掛け声と、金管楽器を拭く音が、小さくなった。
俺は鞄と、コンビニ袋、そして教室の鍵を持って、教室の扉を開ける。そして扉を施錠し、職員室へ足を向けた。鍵を職員室へ戻し、俺は廊下を進んでいく。俺の立てる上履きの足音が、廊下へ僅かに反響した。その反響は、校舎の端へと続いていく。つまり、学校の合併後追い出された仮の部室棟がある、プレハブ小屋の方向だ。本当は泥が付くので上履きを靴に履き替えないといけないのだが、面倒なので俺は上履きのままプレハブ小屋へとやって来た。
仮の部室棟は二階建てになっており、校舎からは少し、グラウンドからはかなり離れている。一階は運動部の部室となっていて、既に着替えを終えて各々の活動に向かっているのか、人気をあまり感じない。俺は物静かな運動部の部室を通り過ぎ、二階へ上がる階段へと足をかける。階段を一段一段踏む度、甲高い金属音が鳴り、階段に付着して乾燥した泥がパラパラと地面へ落ちた。足場はしっかりしているはずなのだが、どうしても俺はここの階段を上がる時、手すりのパイプを掴んでしまう。
辿り着いた二階、文化部の部室は一階とは正反対に、中から部員のはしゃぎ声が聞こえてくる。校舎から離れたことで、職員室からの距離も遠くなり、部室は学生の絶好のたまり場になっているのだろう。一階の運動部の部室も、練習が終わった後は同じような状態になっているはずだ。
俺は楽しそうな声が聞こえる部室を通り過ぎ、二階の丁度真ん中辺りの部室で足を止める。部室の扉を叩、く前に、俺の鞄が振動。俺は鞄の中から振動した原因、自分のスマホを取り出し、届いたメッセージを確認した。
『開いているよ』
その文字列を見ても、今更驚きの感情は、俺の中では起こらない。零れたのは、この主人公は……、という観念と呆れを混ぜ合わせたような溜息だ。俺はスマホを鞄に戻すと、遠慮なくドアノブへ手をかける。
俺が入った部室は、何というか、不思議な空間だった。
普通、部室に置いてありそうな折り畳み机も、パイプ椅子も、何もない。代わりにとでも言う様に、四畳の狭い部室には、安っぽい座布団が四枚。そして小物を入れるための、プラスティックで出来た小さめのカラーボックスが一つ。そのカラーボックスの中には、カステラ、最中、饅頭にどら焼きといったお菓子類がこれでもかと詰め込まれており、その上に紙コップと二リットルの麦茶のペットボトルが二本おかれていた。その内の一本は、もう三分の一まで麦茶が飲まれている。
プレハブ小屋の中に、申し訳程度の和を詰め込んだその部屋には、一人の男物のブレザー服を着た主役、主人公が、座布団で片膝、左膝を立てて座っていた。そいつは和と言うより、洋に近い顔立ちをしているが、何故だか異様に様になる。
若干茶色がかった髪も、赤茶色の瞳も、巨大な大理石から削り出され丁寧に磨き切った彫刻の様な滑らかな肌も、改めて見ると現実離れしていた。いや、現実離れしているという感情を抱いたことに疑問を感じる。稀代の数学者が黄金比を計算尽くし、これしかないという様な美を、朝昼夕探偵団のどうやって犯行を行ったのか(How done it)を担当している昼顔椿は内包していた。だから、おかしいのだ。計算し尽くされているのなら、現実に落とし込まれていなければいけないはずなのに。疑問を感じる事すら、あの主役で主人公の美を際立たせる要素の一つになっている。この感覚は、ある意味ホラー映画を求める人の心境に近いのかもしれない。怖いのに、観たくなる。観ていたくなるという、本来離れたいはずなのに引き付けられる、魔性。
黄金比に黄金比を重ねて生み出された、人工美の権化の様な存在。この奇妙な感覚が、ひょっとしたら不気味の谷を越えているという事なのかもしれない。
いつ、どこで、どの角度で、どんな老若男女がそいつを見ても、百人中百人美しいと感じるであろう美の化身。
主役として、主人公として必要な全てを持つ椿は、俺をこう言って出迎えた。
「あははっ! いらっしゃい、竜兵。ようこそ、ボクの茶道部へっ!」
そう言われ、俺は申し訳程度に上履きを擦り合わせて土を払い、部室の敷居をまたぐ。
勝手知ったるなんとやらで、上履きを脱いだ後、座布団を足で引き寄せ、その上で俺は胡坐をかいた。そして、改めて周りを見渡す。
「……茶道部、ねぇ」
「おや? ボクが茶道部の部員じゃいけないって言うのかい? それは差別ってものだよ、竜兵!」
こちらを非難するような事を言いながら、椿はにかっと、部隊の主役のように、物語の主人公のように爽やかに笑う。俺はどちらかと言うと、ここを茶道部の部室と言っていいのか、だとか、そもそもこの部活はお前の所有物ではないだろう、という意味を込めて呟いたのだが、今更訂正する気も起きてこない。
だから俺の口からは、別の言葉が溢れ出た。
「麦茶か?」
「そうさ! 乙なもんだろ?」
何が乙なのかさっぱりわからないが、俺の目は椿が右手に持った紙コップへ吸い込まれる。椿は器用に、右手の親指と人差し指と中指の三本を使って、麦茶が入った紙コップを回していく。底を指が艶めかしく動き、コップは地面と水平に回転する。その動きは、ろくろを回す一定の動きをするだけの器械の様にも、紙コップと中の麦茶の運命を翻弄する機械仕掛けの神(デウスエクスマキナ)の様にも見えた。紙コップよりも白い椿の指から、俺は目を離せなくなる。
「それで、今日は何を持ってきてくれたんだい? 竜兵」
その言葉に、俺の意識は現実へと引き戻された。椿が指を動かし、紙コップが傾く。まるで鹿威しの様に、コップは寸分たがわず椿の唇へと落ちる。光を反射して光沢を放つ大理石の様なそれは、しかし見た目に反して真綿の様な柔らかさで、落ちて来た紙コップを受け止めた。
椿の綺麗な喉が動き、麦茶を嚥下する。それを待って、俺は口を開いた。
「何でもお見通しなんだな、昼顔」
「あははっ! だって、竜兵がボクの部室に来たって事は、事件の事なんだろう?」
「今度はボクの部室ときたか……」
椿は紙コップをロックグラスを飲むように持ち変えると、熱っぽく、艶っぽく、儚げな瞳で俺をその両の目で射抜く。
「ここでも呼んでおくれよ、椿と。何、一階の生徒は出払っていて、二階は自分たちのおしゃべりで夢中さ。そうなる時間帯になるように調整して、ここまで来たんだろう?」
椿は俺の隣へ座布団を移動させると、肩を寄せ、俺を見上げてくる。潤んだ目も、長いまつげも、巧が生み出した宝石の様だ。
「だからさぁ、竜兵。椿って、呼んでよ。そう、事件を解決する時の、朝昼夕探偵団の時のようにさっ」
「……別に、いいだろ」
俺は椿が隣に来た時から握っていたそれを、持ってきたコンビニ袋を椿の前に突き出した。
「煎餅だ」
「ぬ、濡れ濡れっ!」
「いい方に気を付けろ」
俺の声を切り裂くように、椿の腕は既にコンビニ袋を奪い去っている。それはまるで、要塞に忍び込んだ賊を仕留めるトラップの様。コンビニ袋の中からお目当てのものを取り出すと、椿はビニール袋を破り、財宝を取り出す探検家の如き丁寧さで、中から煎餅を取り出した。そして――
「あふぅ! 美味しいっ!」
先程までの人間離れした雰囲気とは打って変わり、子供以上に子供な笑みを浮かべている。その喜びようは、極寒の地を薄着で踏破していた人が、ようやく民家に辿り着けた時の喜悦に登る気持ちと等しい。
「相変わらず、好きだな、和菓子」
今の椿からは、もふもふという擬音語が聞こえてきそうだ。小さい頃、家族の方針で和菓子はあまり食べられなかった反動らしいが、これだけ喜んでくれるのであれば、買って来た甲斐があるというものだろう。
煎餅に夢中な椿を横目に、俺は蓋の開いている麦茶のペットボトルを取りに行く。自分の紙コップも一緒に持って戻って来ると、椿が当然の如く俺に向かって空になった紙コップを突き出していた。それに俺は、無言で麦茶を注ぐ。注ぎ終わり、自分の分も座布団に座って麦茶を注いでいると、横目に先程の半分の大きさになった煎餅の袋が見えた。少し驚いて椿の方を向くと、俺が注いだ麦茶を、一気飲みしている。
そして飲み終わった後の椿の顔は、無表情だった。先ほどの天衣無縫な笑顔も、一緒に飲み込んでしまったようだ。俺の方へ向けられる視線も、どことなく冷たさを感じる。
「……学ラン」
「え?」
無言で差し出される紙コップに、俺は再度麦茶を注ぐ。
「……昼顔。制服は仕方が――」
言い終わる前に、椿は飲み終わる。俺は三度麦茶を注ぐ。
「ボクは、ブレザーだよ」
「……どうしろって言うんだよ」
「今から、着替えればいいんじゃないかな?」
椿は残りの煎餅を食べながら、それを更に麦茶で流し込んでいく。俺の方を見ないくせに、麦茶がなくなれば俺の方へと紙コップを突き出した。しかし、無茶言い過ぎだろ、この人は。流石に今からブレザーは厳し過ぎる。
確かに、どちらの制服にするのか悩んだ俺は、夏服はブレザータイプ、冬服は学ランという中途半端な状態を選んでおり、家に帰れば男物のブレザーは確かにある。あるが、もう今日の授業はないのに制服を着替えに家に帰る意味がわからない。
椿がまた、紙コップを俺の方へ突き出してきた。ペットボトルを持ち上げるが、中身がもう入っていない。俺は溜息を付くと、仕方なく俺は自分の持っていた紙コップと椿のそれを交換した。瞬間、椿は動作不良を起こしたPCの様に、微動だにしなくなる。構わず俺は、言葉を紡いだ。
「事件の事なんだけど――」
「あっ! そ、そうか! まだ! まだ飲んでない! 飲んでないもんね、竜兵っ!」
出来の悪いブリキの玩具みたいに、椿はがくがく頷いた。
「あははっ! 大丈夫大丈夫! 大丈夫だよ、ボク! 約束通りお菓子も貰ったし、ちゃんと行くからね、ボクっ!」
あまり大丈夫な反応ではないが、この主役で、主人公の事だ。脇役の俺には理解できない道理があるのだろう。
椿は既に、てきぱきと食べ終わった煎餅の袋と不要になった紙コップをコンビニ袋に入れている。そして、噴水が宙へ水の芸術を作り上げる優雅さで、椿はその小さな口に、麦茶を含む。薄桃色の唇は蠱惑的に、魅惑的に、それでいて服従的に、三日月の形を作り出す。そしてそこから、溜息に近い言葉が零れ落ちた。
「それで? ボクはいつ頃、どこに行けばいいんだい?」
「……相変わらず、事件の内容は聞かないんだな」
「ああ、だってボクには必要ないからね」
その言葉に、俺は心臓が握り潰されたのかと錯覚する。顔を俯け、歯軋りが聞こえないように、必死に唇を結んだ。
そうだ。だって椿は、主役で、主人公だ。
だって――
「必要な時に、必要な場所で、必要な情報(データ)がそろっていれば、ボクは知る事が出来るからね」
犯人が何をしたのか。
そう言って、朝昼夕探偵団のどうやって犯行を行ったのか(How done it)を解決する担当、昼顔椿は天真爛漫に笑う。
俺たち朝昼夕探偵団は、三人一組のトリオで形成されている。
犯人を見つけ、犯行方法を突き止め、動機を探る。三人のそれぞれが、自分の担当を持っている。そして、今まで不可解な事件を解決してきた。その実績から、俺たち探偵団の事を、こういう人もいる。
朝昼夕探偵団は、分業制なのだ、と。
分業制。聞こえはいいが、このトリオには一人、事件解決に不要な存在がいる。それは――
「そう言えば、葵にもこの話、しないといけないよね」
ここにはいない、もう一人のメンバーの名前を椿が口にした所で、俺は座布団から立ちあがっていた。
「……朝比奈には、もう俺から話をしてある。明日の朝、俺の家の前に集合だって」
「……何だって?」
「いつも通り、オヤジが手配してくれたパトカーで現地に向かう事になってるから」
「ち、ちょっと待ってよ竜兵! キミはまた、ボクよりも先に葵の方に行ったんだねっ!」
何故だか椿は口角を歪め、わなわなと悔しそうに震わせている。それを見て自分の中に浮かんだ感情を追い払うように手を振ると、俺はそのまま椿に背を向けて部室を後にした。
閉める扉に、俺の背中に自分の名を呼ぶ椿の声がぶつけられる。俺はそれから逃げ出すように、その場を後にした。
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