第一章

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、俺は帰り支度を始める前に、コンビニ袋を持って教室を出た。保冷剤が入っているので、少し冷たい。

 廊下に出ると、普通科の高等学校ではあまり見かけない光景が、俺の目に飛び込んでくる。廊下を行き来する学生たちの制服に、統一感がないのだ。

 ある生徒は笑いながら、隣のブレザー姿の男子生徒に話しかけている。その笑っている学生は、学ランを着込んでいた。

 ある生徒はふざけながら、別のセーラー服を着た女子生徒に抱きついている。抱きついた生徒が着ているのは、女性用のブレザーだ。

 俺、夕城 竜兵(ゆうき りゅうへい)が通っている陵岩高等学校(みささぎいわこうとうがっこう)の制服は、統一感がない。学ランも、ブレザーも、セーラー服を着るのも許されている。理由は偏に、統合がまだ完了していないからだ。

 陵岩高等学校は、二つの私立高校、陵南高等学校(みささぎみなみこうとうがっこう)と南岩高等学校(みなみいわこうとうがっこう)が、二年前に経営的な理由で統合して出来た、比較的新しい学校だ。

 陵南高等学校の制服がブレザー主体、南岩高等学校の制服が学ランとセーラー服。普通、高校に通うための制服は、一度買えば卒業まで着続ける。二年前に入学した生徒たち、つまり今の三年生が卒業していないため、今は並行期間として、旧陵南高等学校と旧南岩高等学校の制服の着用が認められているのだ。

 俺は真新しい廊下を、目的地へとわざと遠回りをしながら、歩みを進める。今年入学した時に買った上履きが、小気味いい音を立てていた。入学前の説明会では、制服は今後統合していく流れになると言われていたが、時期は未定らしい。上履きは、暑い日は南岩高等学校で使っていたスリッパを、寒い日には、少し厚手の陵南高等学校で使われていた上履きを履きまわせばいいが、制服は何を買うべきかと、入学前に悩んだものだ。

 だが、俺たち高校一年生の世代で並行期間が終わっていない時点で、制服の統一はまだまだ先になるのは、目に見えていた。

 そんな事を考えていると、窓の外にプレハブ小屋が見えてくる。陵岩高等学校の校舎は、元々陵南高等学校のものを使っていた。理由は単純。改修したばかりで、木造だった南岩高等学校のそれよりも新しいからだ。全て木造で出来た校舎を一から改修する費用が捻出出来なかった所から、南岩高等学校の経営難を想像することが出来る。

 とはいえ、校舎を改修した時点で、実は陵南高等学校は自分たちの生徒を収容する事しか考えていなかった。南岩高等学校との統合が決まっているにもかかわらず、だ。この計画性のなさが、陵南高等学校の経営難の理由だったと容易に想像することが出来る。

 つまり今、二つの高校が合併した陵岩高等学校は、教室が足りない状態となっていた。

 暫定対応として部室棟を突貫で改修し、三年生がそこに、校舎は二年と一年の教室として使っている。もちろん、理科室や音楽室などの教室は校舎に入っていた。そして今しがた窓から見えたプレハブ小屋は、更に追い出されて出来た、仮の部室棟という事になる。計画性のなさから押し出されて生まれた部室棟はつまり、学校の端に建てられており、それが見えるという事は、俺は今校舎の端にいるという事だ。

 プレハブ小屋から、運動部に所属する学生たちが、各々自分の属する部活の練習着に着替え、グラウンドやテニスコートへと向かっていく。ちなみに、サッカー部や野球部は大会に出る時、ユニフォームを着用する。そのユニフォームはそれぞれ、陵南高等学校と南岩高等学校の部活のOB・OGの寄付によって、新しいデザインのユニフォームに一新されていた。制服についてもその配慮をOB・OGの方々に期待したかったのだが、流石に自分が青春に汗水たらした部活に寄付するだけの思い入れはあっても、制服を変える程の思い入れはなかったらしい。むしろ、自分が通っていた学校の制服だけは残して欲しい、という嘆願の方が多いらしい。

 その辺りの心の機微は、部活に入っていない、そして高校一年生になったばかりの俺にも、なんとなくわかる。そう言う事を言うとオヤジやオフクロには、子供のくせにと言われるが、理解できていしまうのだから仕方がない。それに、大人だってなんでも出来るとは限らないのだ。そういうのを、俺はある事件で学んでいた。

 一方、そういう大人たちの心の動きを理解出来はするが、俺には想像も及ばない人たちも、天才たちも存在している。

 その天才がいる教室の扉を、扉のガラス窓から中にその天才一人しかいない事を確かめて、俺はゆっくり開く。

 中に居たのは、セーラー服に身を包んだ一人の生徒。窓からそよぐ風が、その黒髪を優しく撫でている。各教室に備え付けられた椅子に座るのは、日本人形の様に華奢で、生気のないような、それでいて神秘的な雰囲気を纏う、そんな生徒だった。運動部の掛け声や吹奏楽部の演奏など、喧騒が溢れる学校の中で、この教室だけは静謐が満たされている。そよ風が吹き込み、その濡れ羽色をした髪が舞う。その度、まだ明るい教室に闇色が溶かされ、侵食していく様な錯覚を抱かせた。そして、何故かそれが広がっていくのを、心地よく感じる。飲んだことはないが、上質な酒を飲んだ時の心地よい酩酊感。きっとそれに近い感覚なのだろうと、俺は理解した。

「……入って来ないんですか? 竜兵さん」

 不可思議な雰囲気を纏う彼女、朝比奈 葵(あさひな あおい)にそう言われて、俺の思考は現実へと引き戻される。俺の目は、当たり前の教室、雑に消された黒板、画鋲で乱雑に貼られた掲示物、統一感がありそうでない並べられた机と椅子の光景が戻って来た。鼻腔にも、舞ったチョークの野暮ったい香りが届き、耳には野球部の掛け声を拾っている。

 当たり前の放課後。

 当たり前の日常。

 それでも、葵がいるだけで、この場が非日常に感じる。その葵は、触れれば折れてしまいそうな体を、腕を、指を動かして、あるものを艶やかな口に近づける。

「紅茶、旨いか?」

「ええ。お茶請けがあると、なおいいのですけれど」

 俺の問いに、葵はそう言って答える。彼女の口から離れた水筒のコップから、淡く湯気が立ち上った。

 俺は教室に入ると、扉を閉めて葵の方に歩みを進める。

「もうすぐ夏なのに、熱くないのか?」

「……お茶請けがあると、なおいいのですけれど」

「そればっかりだな、朝比奈」

「だって、竜兵さんが私の教室にいらっしゃったって事は、事件の事なのでしょう?」

 そう言って葵は、高校生離れした、優艶で、妖艶で、艶麗な笑みを浮かべる。両手で握ったコップの上を、細い指が、ゆっくりと、なぞった。

「誰も聞いていないのですから、学校でも葵と呼んで下さればいいのに。私が教室で一人になるように、わざと遠回りをしてきたのでしょう?」

 葵は俺の全てを見透かすようにそう言うと、口角を僅かに歪める。

「ですから、葵、と。そう、事件を解決する時の、朝昼夕探偵団の時のように」

「……いいだろ、別に」

 俺は葵の座っている机までやって来ると、持ってきたコンビニ袋を突き出した。瞬間、コップを机の上に置いた葵の瞳が、怪しく光る。

 俺は言った。

「ロールケーキだ」

「ぷ、ぷれみあむぅっ!」

 その動きは、得物を捕獲しようとする女郎蜘蛛の様。コンビニ袋の中からお目当てのものを取り出すと、葵はビニール袋を破りながら、備え付けのプラスティックで出来たスプーンの包装も、器用に破っている。そしてそのスプーンを、瞬きする間に、得物へと突き刺していた。そして――

「んふぅ! 美味っ!」

 先程の大人びた表情とは打って変わり、子供以上に子供な笑みを浮かべている。その喜びようは、砂漠を水なしで踏破した人が、久々に飲み水を手に入れた時の歓喜具合と等しい。

「相変わらず、好きだな、洋菓子」

 今の葵からは、むしゃむしゃという擬音語が聞こえてきそうだ。小さい頃、家庭の方針で洋菓子はあまり食べられなかった反動らしいが、これだけ喜んでくれるのであれば、買って来た甲斐があるというものだろう。

 やがて、ロールケーキを半分程食べた葵は紅茶を一口飲むと、先ほどの無邪気な笑顔も一緒に飲み込んでしまった。表情をなくし、こちらに向けられる視線も、どこかしら棘がある。

「……ブレザー」

「え?」

 俺の疑問への返答は、葵がわざとらしく大きくした紅茶をすする音だった。

「……朝比奈。制服は仕方が――」

 また、ずるずるという音がする。

「私は、セーラー服ですが」

「……どうしろって言うんだよ」

「今から、着替えればよろしいのでは?」

 葵は残りのロールケーキを食べながら、紅茶を啜っている。もう俺の方すら見向きもしない。しかし、無茶言い過ぎだろ、この人は。流石に今から学ランは厳し過ぎる。

 俺は溜息を付くと、葵の前の席に座った。座った向きは、教室の前にある黒板の方ではなく、葵の方を向いている。すました顔で洋菓子を頬張る葵を、俺は真っ直ぐ見つめていた。ロールケーキを食べ終わる頃には、居心地悪そうな葵が、俺の方を向く。

 そのタイミングを見計らって、俺は口を開いた。

「事件の事なんだけど――」

「……わかっています。行きます。約束通り、お菓子も頂きましたし」

 そう言って葵は、今度は上品に紅茶を飲んだ。丁寧に食べた後のゴミをコンビニ袋に入れながら、葵は俺の両目を見つめる。吸い込まれそうな程、澄んだ瞳だ。

「それで? 私はいつ頃、どちらに伺えばよろしいのですか?」

「……相変わらず、事件の内容は聞かないんだな」

「ええ、だって私には必要ありませんから」

 その言葉に、俺は心臓が鷲掴みにされたのかと錯覚する。顔を俯け、歯軋りが聞こえないように、必死に唇を結んだ。

 そうだ。だって葵は、天才だ。

 だって――

「必要な時に、必要な場所で、必要な人がそろっていれば、私には視えますから」

 犯人が。

 そう言って、朝昼夕探偵団の犯人が誰なのか(Who done it)を解決する担当、朝比奈葵は優雅に笑う。

 俺たち朝昼夕探偵団は、三人一組のトリオで形成されている。

 犯人を見つけ、犯行方法を突き止め、動機を探る。団員三人のそれぞれが、自分の担当を持っている。そして、今まで不可解な事件、その殆どが殺人事件なのだが、を解決してきた。その実績から、俺たち探偵団の事を、こういう評する人もいる。

 朝昼夕探偵団は、分業制なのだ、と。

 分業制。聞こえはいいが、このトリオには一人、事件解決に不要な存在がいる。それは――

「そう言えば、椿さんにもお話しないといけませんね」

 ここにはいない、もう一人のメンバーの名前を葵が口にした所で、俺は席を立ちあがっていた。

「……昼顔には、もう俺から話をしてある。明日の朝、俺の家の前に集合だって」

「……何ですって?」

「いつも通り、オヤジが手配してくれたパトカーで現地に向かう事になってるから」

「ま、待ちなさい、竜兵さん! あなたまた、私よりも先に椿さんの方に行ったんですねっ!」

 何故だか葵は両手を握り、わなわなと悔しそうに震わせている。それを見て、自分の中に浮かんだ感情を追い払うように手を振ると、俺はそのまま葵に背を向けて教室を後にした。

 閉める扉に、俺の背中に自分の名を呼ぶ葵の声がぶつけられる。俺はそれから逃げ出すように、その場を後にした。

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